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【玄界灘を越えて】白仁天物語(1) 李ラインを越えて (1/3ページ)
昭和37年2月22日夕。韓国・金浦空港から東京・羽田空港へ到着したノースウエスト機から、1人の青年が降りてきた。名は白仁天(韓国名=ペク・インチョン)。野球の韓国代表の正捕手として活躍した18歳は、日本の東映フライヤーズ(現日本ハムファイターズ)入団のため、玄界灘を越えてきた。
韓国から初となる「日本プロ野球挑戦」という物珍しさで、空港ロビーには大勢の日本人記者が待ち構えていた。「スピグラ」(スピードグラフィック)と呼ばれる報道用カメラのフラッシュがポンポンとたかれ、目がくらむ。
「契約は何年?」「抱負は」。矢継ぎ早に浴びせられる質問に、白は通訳を通して「契約は兵役に就くまでの2年間です」「とにかく自分の力を試したい」と答えたが、内心は動揺していた。「こんなに注目されるとは。もし活躍できなかったらどうやって責任を取ればいいのか…」
翌日のスポーツ紙は、白の来日を「李ライン(メモ参照)を越えて初めてのケース」と紹介した。
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朝鮮戦争の傷跡がまだ残る韓国は、激動のさなかにあった。35年にはソウルの学生デモをきっかけに「4月革命」が起こり、独裁政治を続けた李承晩大統領が退陣。翌36年5月には朴正煕少将らが軍事クーデターを起こし、国家権力を掌握した。今でこそ、国内総生産(GDP)世界12位(2007年)となった韓国だが、当時はこうした国内の混乱もあって、電力や資源が枯渇。経済は危機的な状況にあり、街には失業者があふれていた。
そうした貧しい国から“在日”ではない白が、なぜ日本に来ることになったのか。きっかけは、35年11月の京東高校の来日だった。白はソウルにあるこの強豪野球部の一員として、日本の高校生を相手に大活躍。明治大学野球部監督の島岡吉郎に留学を誘われたものの韓国の反日感情は根強く、一度は日本行きを断念した。