私は宣伝が大嫌いな人間でテレビなどをつけていると流れる番組のほとんどが宣伝であることに本当に辟易します。しかし一方で例えばテレビであっても製品開発に苦労した話などはそれが宣伝の要素を持ち合わせていることを加味しても充分好感が持てるのです。
経済成長。この標語は確かに貧しさから立ち直るための希望であったと言えるのかもしれません。子供が死んだり売りに出したりせずに暮らせたらどんなに良かったかと思ったでしょう。しかし成長してしまった後から見れば、カネを持っているはずなのに自殺率が異常に高い国。一方でそこまで豊かでないにも関わらず国民満足度が高い国もあります。なぜでしょうか。経済成長を肯定する方にむしろ答えていただきたいものです。
貧しさゆえに近親者が亡くなられた方は本当に悲痛なことと思いますが、一方で現代でも業績向上の名のもとに過労を強いられ、体を壊し、若くして自ら死を選んだ人が大勢いるのです。そうした感情のぶつけあいは世の中を論じていく上で冷静な議論を妨げる要因にしかなりません。
だからこそ私は自殺の話を持ち出したのでした。もし貧しさから立ち直ることだけが本当に素晴らしいことならば、なぜバブル期にも自殺が盛んだったのでしょうか。働くことが本当にお互いを認め合い、助け合う心を養うのであれば、どうして過労死が起こらねばならないのでしょうか。
ややうがった見方かも知れませんがむしろそうした建前が雇用者による搾取の構図につながっている部分も見過ごしてはならないと思います。つまり「あなたは単純に金銭の対価として働いているのではなく、お客様のために働いているのです」と社員教育することによりサービス残業や中間管理職の過剰労働を隠蔽する効果さえ持ち始めたということです。真面目にお客のために尽くそうと言う心がある人ほど雇用者側に付け込まれて過剰労働を強いられて過労に陥っていくのです。
ここで急いで断らねばならないことは雇用者側がさも悪人であるかのように書いてしまいましたが、一方で雇用者側も社や社員の生活を守るためにはある程度従業員個々人から少しずつ搾取していかねばならず、そうでなければ共倒れになってしまうという現実があることです。つまり雇用者が悪人なのであれば共産主義者よろしくそれを打倒せばよいだけの話ですが、残念ながらそう単純でもないと言うことです。
ここまで踏まえるとどうしても「何が何でも経済が成長せねばならず、サービスはもっと充実しなければならない」という先入観の方を疑わねばならないのではないでしょうか。
私の書き方が未熟だったのでしょうが原始時代に戻れと言っているかのような誤解があったようです。心情的にそういう気持ちにもなることもありますし究極的には人がそれぞれ自給自足をしなければ雇用者と被雇用者の強弱関係は改まらないことを考えていますが基本的に自給自足を徹底的に重んじる農本主義は理想郷としての力はあってもそれを本当にやってしまうとかえって階級社会になってしまうと言うことは実際に農本主義者であった権藤成卿や武者小路実篤の失敗を見れば明らかです。それでも私は自給自足の理想を捨てないつもりですが、無理に作ろうとすれば失敗することも弁えているつもりです。
私の経済が退行しても良いではないか、と言うのは今の暮らしからテレビがラジオに戻ろうとも、昼飯のおかずが一品減ろうとも構わないではないか。それよりももっと守るべきものがあるのではないか、と言うことです。しかし現行の資本主義は無理やりにでも高級なおかずを一品増やさせる欲望を喚起することで利潤を生みだし、経済を発展させる仕組みなのです。内需が限界に達すれば当然馬鹿馬鹿しかろうとも刷り込み効果のあるまで繰り返し繰り返し扇情的な宣伝を行うしかないのです。それでも利潤が上がらなければ、今度は従業員の給料に手をつけるよりありません。その結果が異常な宣伝の氾濫であり、過労であり、自殺であります。
市場(しじょう)が作り出す富の配分も、またその結果生まれる社会も必ずしも合理的とは限りません。私はまだ直接耳にしていませんが、もはや資本主義者の中には利他心や公共心は不必要であると思ってる者もいるようです。または利益のためなら嘘も騙しも方便と考えるようです。私は頭が古い人間ですから、そのような社会は国全体で振り込め詐欺をやっているようにしか思えません。
書く書くと言って書いていなかったかもしれませんが、資本主義とは耶蘇思想の変種です。つまり社会全体のことを考えるのは神の御業であり、人間などいうちっぽけなものは己のことだけを考えていれば良い。人間ごときが社会全体の幸福を決定できると言うのは神に対する冒涜である、と言うのが資本主義の原始的な神学です。アダムスミスやその友人である(そして「保守」がありがたがってやまない)エドマンド・バークがそのような考えの持ち主です。彼等がもう少しはっきりと上記のようなセリフを吐いてくれていたら日本に「保守」と名乗るバーク信者や粗笨主義者も減ったかも知れませんが、彼らはその自分の主張をあいまいにぼかす節度(あるいは狡猾さ)を持っていました。
今日の午前までは本当にもうブログをやめようかと考えていました。きょーちゃんの言うとおり私は隠遁願望があり社会から消え去りたいという感覚も持っているので、そんな人間が社会批判などおかしな話だと思い始めたからでした。自分など生きていても仕様がないとよく思うような人間ですから。
ですが、このままでは終われない、自分の言いたいことはこれっぽちも言い尽くせていないという気持ちになってきました。感情がすぐ変わるくせに行動が感情的なのが自分の悪い癖です。中島氏の噴飯物のコメントもその意味ではいい発破になりました。感謝しなければならないのかもしれません。
ご都合主義的な感じも否めませんが、ひとまず言い足りないことは言いきったような気分になっているので今日の記事はここまでにします。
経済成長。この標語は確かに貧しさから立ち直るための希望であったと言えるのかもしれません。子供が死んだり売りに出したりせずに暮らせたらどんなに良かったかと思ったでしょう。しかし成長してしまった後から見れば、カネを持っているはずなのに自殺率が異常に高い国。一方でそこまで豊かでないにも関わらず国民満足度が高い国もあります。なぜでしょうか。経済成長を肯定する方にむしろ答えていただきたいものです。
貧しさゆえに近親者が亡くなられた方は本当に悲痛なことと思いますが、一方で現代でも業績向上の名のもとに過労を強いられ、体を壊し、若くして自ら死を選んだ人が大勢いるのです。そうした感情のぶつけあいは世の中を論じていく上で冷静な議論を妨げる要因にしかなりません。
だからこそ私は自殺の話を持ち出したのでした。もし貧しさから立ち直ることだけが本当に素晴らしいことならば、なぜバブル期にも自殺が盛んだったのでしょうか。働くことが本当にお互いを認め合い、助け合う心を養うのであれば、どうして過労死が起こらねばならないのでしょうか。
ややうがった見方かも知れませんがむしろそうした建前が雇用者による搾取の構図につながっている部分も見過ごしてはならないと思います。つまり「あなたは単純に金銭の対価として働いているのではなく、お客様のために働いているのです」と社員教育することによりサービス残業や中間管理職の過剰労働を隠蔽する効果さえ持ち始めたということです。真面目にお客のために尽くそうと言う心がある人ほど雇用者側に付け込まれて過剰労働を強いられて過労に陥っていくのです。
ここで急いで断らねばならないことは雇用者側がさも悪人であるかのように書いてしまいましたが、一方で雇用者側も社や社員の生活を守るためにはある程度従業員個々人から少しずつ搾取していかねばならず、そうでなければ共倒れになってしまうという現実があることです。つまり雇用者が悪人なのであれば共産主義者よろしくそれを打倒せばよいだけの話ですが、残念ながらそう単純でもないと言うことです。
ここまで踏まえるとどうしても「何が何でも経済が成長せねばならず、サービスはもっと充実しなければならない」という先入観の方を疑わねばならないのではないでしょうか。
私の書き方が未熟だったのでしょうが原始時代に戻れと言っているかのような誤解があったようです。心情的にそういう気持ちにもなることもありますし究極的には人がそれぞれ自給自足をしなければ雇用者と被雇用者の強弱関係は改まらないことを考えていますが基本的に自給自足を徹底的に重んじる農本主義は理想郷としての力はあってもそれを本当にやってしまうとかえって階級社会になってしまうと言うことは実際に農本主義者であった権藤成卿や武者小路実篤の失敗を見れば明らかです。それでも私は自給自足の理想を捨てないつもりですが、無理に作ろうとすれば失敗することも弁えているつもりです。
私の経済が退行しても良いではないか、と言うのは今の暮らしからテレビがラジオに戻ろうとも、昼飯のおかずが一品減ろうとも構わないではないか。それよりももっと守るべきものがあるのではないか、と言うことです。しかし現行の資本主義は無理やりにでも高級なおかずを一品増やさせる欲望を喚起することで利潤を生みだし、経済を発展させる仕組みなのです。内需が限界に達すれば当然馬鹿馬鹿しかろうとも刷り込み効果のあるまで繰り返し繰り返し扇情的な宣伝を行うしかないのです。それでも利潤が上がらなければ、今度は従業員の給料に手をつけるよりありません。その結果が異常な宣伝の氾濫であり、過労であり、自殺であります。
市場(しじょう)が作り出す富の配分も、またその結果生まれる社会も必ずしも合理的とは限りません。私はまだ直接耳にしていませんが、もはや資本主義者の中には利他心や公共心は不必要であると思ってる者もいるようです。または利益のためなら嘘も騙しも方便と考えるようです。私は頭が古い人間ですから、そのような社会は国全体で振り込め詐欺をやっているようにしか思えません。
書く書くと言って書いていなかったかもしれませんが、資本主義とは耶蘇思想の変種です。つまり社会全体のことを考えるのは神の御業であり、人間などいうちっぽけなものは己のことだけを考えていれば良い。人間ごときが社会全体の幸福を決定できると言うのは神に対する冒涜である、と言うのが資本主義の原始的な神学です。アダムスミスやその友人である(そして「保守」がありがたがってやまない)エドマンド・バークがそのような考えの持ち主です。彼等がもう少しはっきりと上記のようなセリフを吐いてくれていたら日本に「保守」と名乗るバーク信者や粗笨主義者も減ったかも知れませんが、彼らはその自分の主張をあいまいにぼかす節度(あるいは狡猾さ)を持っていました。
今日の午前までは本当にもうブログをやめようかと考えていました。きょーちゃんの言うとおり私は隠遁願望があり社会から消え去りたいという感覚も持っているので、そんな人間が社会批判などおかしな話だと思い始めたからでした。自分など生きていても仕様がないとよく思うような人間ですから。
ですが、このままでは終われない、自分の言いたいことはこれっぽちも言い尽くせていないという気持ちになってきました。感情がすぐ変わるくせに行動が感情的なのが自分の悪い癖です。中島氏の噴飯物のコメントもその意味ではいい発破になりました。感謝しなければならないのかもしれません。
ご都合主義的な感じも否めませんが、ひとまず言い足りないことは言いきったような気分になっているので今日の記事はここまでにします。
私は資本主義、あるいは株式会社というものは人類が生み出したシステムのひとつに過ぎないと考えており、それ自体の善悪を議論する立場にありません。
善き人々が正しく活用すれば人々を豊かにする道具になるでしょうし、悪しき人が私利私欲のためにのみ用いれば、拝金主義、搾取の謗りを免れません。
経済成長というものも、国民の仕事の総量を経済価値に置き換えたバロメーターに過ぎず、その評価は、人々の安寧で豊かな暮らし(贅沢という意味ではなく)に資するか否か、にあると私は考えています。経済成長せずともそれが実現できるのであればそれで良いと。
忌むべきは高度経済成長そのものではなく、一部の層による富の独占であり搾取であろうと思います。
そして、日本の企業数の99%は中小・零細企業であり、その多くの経営者は決して「強者としての雇用者・資本家」などではなく、日々、倒産の危険に晒され、月々の従業員の給料を支払うために東奔西走している「弱者」であることにも思いをめぐらせていただければと思います。