小泉改革によって大きく推進されたいわゆる「新自由主義」について批判的な人も多くなった。しかしそういう人がえてして高度経済成長の時代を善かったと見るのは私の意見と違うところである。

 そもそも「経済成長」という今我われを縛ってやまない言葉はいつごろ一般的になったかと言えばまさにこの「高度経済成長」期なのだ。

 高度経済成長期は産業が発達してのちの「一億総中流」や「終身雇用」「年功序列」といった「日本的経営」が根付いていく基礎となった時代である。だが一方で人々の生活様式は一様化し、外面的事物が多くなっていくだけのことを「豊かさ」と呼び尊び、また自営業や農家ではなく「サラリーマン」という名の労働形態が大手を振って歩き始めた時代でもある。高度経済成長期は戦後の美質とされる部分の母体でもあるが新自由主義的な精神構造の母体ともなっている。外面的物質に気を取られる生活、カネばかり意識して暮らす生活。そういった考えが人々にしみわたっていった時期でもある。

 アメリカの家庭に憧れを持ち、洗濯機であるとか少し時代が下がると「マイカー」だとか、とかく個人主義的でアメリカの家庭になることが至上目標だった時代でもある。コーラ飲んでボーリングなんかやってアメリカ人を気取っていた日本を忘れた時代の先駆けでもあった。

 私はこの時代を取り戻そうなど微塵も思わない。「一億総中流」の時代も全く理想化できない。自殺が増えたのは今に始まったことではない。バブルの時代さえそうだ。不景気だから人が死ぬだなんて薄っぺらい人間観でよいのか。平成十年以前でもっとも自殺者が多かったのはバブルの真っただ中の時代であった。

 拝金主義、物質主義。高度経済成長以降の戦後はどの時代もこの二つの思想を一歩も出ることなく今日まで来ている。平成維新だと言いだした総理大臣がどこかの国にもいるがその総理大臣の政策さえ拝金主義と物質主義には何も手をつけないでいる。経済成長などしなくて良いではないか。生活の豊かさなど退行すればよいではないか。

 たかがカネのために己の魂を切り売りした時代に安らかな死を。