地井さんが出会った人たち

地井さんが散歩した町で出会った、素敵な人たちをご紹介します。

第7回
東京を撮り続ける写真家・持田晃さん(73歳)
地井さん

地井さんの印象

 持田さんの撮る写真は、迫力はないけど、すごく自然な写真なんです。迫力ある写真を撮ろうとしたら、少し嘘っぽくて“やらせ”っぽい写真になったりするでしょう? 持田さんは、目的を持って誰かを撮ろうと思わない人です。東京の街の中で、カメラを持ち歩いて、車、電車、お母さんをたまたま撮っている。そこに写っているのは、昭和のゆったりとした時代。あれを見ないと昭和を語れないよ。日本は戦争に負けて、結果的に高度成長を果たしたけど、終戦後しばらくは「これから大成しよう」と思っていたわけではなく、最低限のモチベーションしかなかったんだよな。そんなゆったりとした空気が、持田さんが撮った戦後の東京の写真から伝わってきます。

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撮り続けて60年 東京の今昔を写した貴重なショット大公開

持田晃さん

 「私はプロのカメラマンじゃありません。アマチュアなんです。だからテーマを絞り込まず、目にとまったものを、ついでに撮っているという感じです」。持田晃さんは、日本橋に生まれ、東京の街を撮り続けています。アマチュアとは言え、日本橋の工事現場パネルに写真が採用されたり、映画「ALWAYS 続・三丁目の夕日」の制作に資料提供をするなど、東京の街並みを知り尽くすプロ。

 持田さんは、3歳から32歳くらいまで喘息がひどく、1年のうち半分は家の中で苦しんでいました。13歳のとき、知人に貰った「ベビーミノルタ」という玩具のようなカメラを貰ったのが写真を始めたきっかけ。体が弱く、外出が思うようにできなかったからこそ、カメラは外の世界とつながる貴重なパイプだったのでしょう。その後お小遣いを溜め、1949年に「セミLEOTAX」、1957年に「ニコンS2」を購入。体調のいいときに日本橋や銀座を撮り始めます。


1949年から1958年まで使い続けた「セミLEOTAX」。
当時の値段は8,500円くらい。
1958年に購入した「ニコンS2」。当時の値段は58,000円くらい。
「その頃の大卒初任給は1万円くらいだったと思います」。

1952年小石川グラウンドで野球部の友人たちを撮影。2列目1番左が持田さん。三脚を用い、セルフタイマーで撮影した写真には、自らも写っています。

 「写真の歴史に興味がありました。カメラを誰がどのように作ったのか知りたかったし、幕末の様子を写した写真集を買ったりしていました」。記録写真に興味があった持田さんが、変わり行く東京の街並みを撮り続けたのは自然なことかもしれません。
  「私は日本橋生まれの東京人。なんとなく東京を撮っていただけで、写真は趣味でしかない」
  それでも、34歳の頃、喘息が治った持田さんが選んだ就職先は印刷会社。写真に詳しいことを評価され、原稿の複写などを目的とした製版カメラを扱う仕事などに携わりました。


 持田さんの写真の面白さは、ノスタルジーだけではありません。過去に写真を撮った場所をもう一度訪ねて、同じポイントでシャッターを押します。同じスポットの今と昔を見比べてみると、その変化だけでなく、“人間の都合”が伝わってきます。「銀座の街の象徴のような店が地下に潜って、外国の有名店がビルを建ててしまったり、昔の銀座を知る私には寂しい風景が多いですね。でも銀座や日本橋がおしゃれに変化するのはしょうがない」。この「しょうがない」という視点が、東京の街を見たままに映し出すのでしょう。


写真が伝える、移り変わる「東京の街並み」

■日本橋の昔と今

1950年撮影「日本橋」
中学生だった持田さんが初めて撮った風景写真。右の建物は当時進駐軍がホテルとして使用していたリバービューホテル(現在は野村證券日本橋本社)。
2001年撮影 「日本橋」
地井さん「水の音そのものは変わらない。でも、無理やり川の上に高速道路を造ってしまった人間の傲慢さ。川があるのに、東京オリンピックのために柱を立てちゃったんだからね」。



■西銀座の昔と今

1956年撮影
「数奇屋橋公園のところより」
右にあるのは読売新聞社本社(現在のプランタン銀座)。この川を埋め、西銀座デパートが建てられました。
2001年撮影
「数奇屋橋公園のところより」
西銀座デパートの上を高速道路が走ります。

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