2009-11-18
KARUTO-カルト-。
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唐沢俊一と唐沢なをき『唐沢商会のマニア蔵』(スタジオDNA)P.134「夏のあら!カルト/カルト人生の末路について」より。
カルトというのは何語ですか? と訊かれ一瞬、とまどったことがある。なんとなく、ラテン語とか古代ケルト語とかいったイメージがあるじゃないですか。
実のところはただの英語で、ちょっと拍子抜けするのだが、しかし、注意しておきたいのはこれは本来(イワシのアタマでも何でもいいが)、「ある対象をあがめ、熱狂的に崇拝する」方々を指す言葉だ、ということである。
英語の“cult”はラテン語で「崇拝」を意味する“cultus”から派生したもの。
つまり、アガメられている当人が
[ワガハイはカルトである]
と言ってはならないのである。ここらへんをよっく認識しないといけない。そういう自意識をもった途端に、カルトは単なるオタクに堕するのである。あがめたりたてまつったりするのは他人の勝手、と無視しなければならぬ。
この文章は興味深い。当ブログでは「唐沢俊一は本当にオタクなのか?」という問題を度々扱っているが、そのための貴重な資料である。「夏のあら!カルト」の初出はマガジンハウスから発行された『銀座三丁目』1992年5月号なので、少なくともこの時点では唐沢は「オタク」を名乗っていなかったということになる。「オタク」に対して明らかに否定的な書き方だもんね。というわけで、92年5月から95年9月の「オタクアミーゴス」結成までの間に「オタク」を名乗りだしたと考えられるのだが、一体何があったのだろうか。宮崎勤の事件の時はどうしていたのかなあ。
もうひとつ気になるのは「カルト」という言葉の使い方である。現在では「カルト集団」というように閉鎖的な団体(主に宗教関係)に対して用いられることが一般的だが、この文章では「カルト映画」や「カルト作家」のように「少数の人々に熱狂的に支持されている」という意味に近い使い方、さらに言えば「マニア」とほぼ同じ意味で使われている。この文章が書かれたのは地下鉄サリン事件以前だったこと、そして当時『カルトQ』という人気番組があったためだろう。
しかし、「「ワガハイはカルトである」と言ってはならない」と書いていたのに、『カルト王』という本を出しているのはいかがなものか。
そう、カルトの対象となる人物は世間の評価など一切意に介せず、我が道を突き進まなくてはならないのだ。結論すればカルトの道は徹底した個人主義、唯我独尊主義の道である。
カルティッシュな人物の見本はなんといってもイギリスに多いが、かの国の国民性であるインデビデュアリズムと無関係ではないだろう。カルトの対象となるようなヤツってのはすンげえイヤなヤツなんだよ、本当は。
「インディヴィデュアリズム」(individualism)だろうなあと思うが、イギリスでカルト的に支持されている人物の例を挙げてほしかった。
……そういうイヤなヤツの末路はたいがい決まってアワレである。山田風太郎の怪著『人間臨終図鑑』(原文ママ)には代表的なカルト的人物の死に様がいくつも記載されているから参考にするといい。自分を見いだしてくれた恩人や一生をかけてつくしてくれた妻の死にも冷淡な態度をとり、ひとりぼっちで自分の著作だけを読み返しつつノタレ死んだ稲垣足穂、家族・友人をはじめ世間の人物すべてをバカ間抜けと罵倒しつくし、病床で看護人にも見放されて死んだ北大路魯山人等々……。
…やっぱりちょっとヘンだ。唐沢は「カルト」を「マニア」と同じ意味で使っているのだ。稲垣足穂はともかく、魯山人って「カルト」かなあ? P.135には「カルト系マニア」を紹介した唐沢なをきのマンガが載っているのだが、ここに出てくる「恋人の実家に行った時に婚約を解消された古本マニア」や「モチをノドに詰まらせ死んだ古本マニア」は別に崇拝されていたわけではないから「カルト」とは言えないのではないか。なお、唐沢なをきのマンガにはもう一人「ご飯の代わりにコカコーラを飲んでいた映画マニア」の話が出てくるが、これは杉本五郎のことかな?
それに「アナタはカルトの道を行く勇気を持つか」と書いているのも「カルト」と「マニア」を同じ意味で使っているせいだろう。…いや、「もっと濃くなりたい」と思う人はいるだろうけど「崇拝されたい」と考える人はそんなにいないのでは。それに「「ワガハイはカルトである」と言ってはならない」のなら自分から「カルト」になることは出来ないのではないか。…唐沢俊一自身は「カルト」になりたかったのかもしれないが。ニフティの会議室や「一行知識掲示板」がある意味「カルト」的空間だったあたりに、そういう願望が見えるんだってばよ。
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- 15 http://ime.nu/d.hatena.ne.jp/kensyouhan/
- 11 http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/
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>しかし、「「ワガハイはカルトである」と言ってはならない」と書いていたのに、『カルト王』という本を出しているのはいかがなものか。
というのも含めて、
「俺は普通のオタクじゃなくてカルトなんだい」
と言いたかったのかしら?
>と言ってはならないのである。ここらへんをよっく認識しないといけない。そういう自意識をもった途端に、カルトは単なるオタクに堕するのである。あがめたりたてまつったりするのは他人の勝手、と無視しなければならぬ。
カーゴ・カルトという用語があるように、カルトとは、集団の宗教的態度を指す語句であって、「我が輩はカルトである」という個人を指す言葉として使う事自体がおかしい。
だから、
>結論すればカルトの道は徹底した個人主義、唯我独尊主義の道である。
なんてのは二重におかしい。
オウム真理教は間違いなくカルト宗教だが、彼らが「徹底した個人主義、唯我独尊主義」だったかというと、全く正反対。
(1)ある人または物をあがめ、熱狂的に崇拝する人々
(2)人々によってあがめられ、熱狂的に崇拝される人または物
という2つの意味で用いており、さらに上の(2)に当る人物を
(i)カルト
(ii)カルトの対象となる人物
と2通りの呼び方をしていることが、この訳のわからなさの原因なのでは。
まあ、こう考えたところで
>そういう自意識を持った途端に、カルトは単なるオタクに堕するのである。
って文章は、相変わらず意味不明なんですけど。
「人々によってあがめられ、熱狂的に崇拝される人」がそれを意識したところで、「オタク」にはならないと思います。
いちどだって熱心なファンがついたことないのに、自分から自分をカルト王なんて呼ぶのはあまりに寂しい……。
「友達百人できるかな」を一人で歌いながら毎日一人で下校する唐沢少年を想像しました。
もちろん、数はそんなにいなかったと思います。ですが、百人はいたのではないでしょうか。
おそらく、唐沢に自分を投影するような、同じような心理を抱えた人たちだったと思います。
また、ぼく自身にもそうした心性がありました。そこは素直に認めます。
つまり、唐沢の「夢」は、一時的にせよ、かなっていたのですよ。
まさに「狂信的な擬似宗教集団」としての「カルト」が形成されていたのです。「裏モノ」や「と学会」という名で。
しかし、おそらく彼らは、自分たちこそが正気で冷静で公平なものの見方をしていて、外の人々のほうが間違っている、狂っていると思っているでしょう。
そして、こうして批判をしたところで、たとえば上の二行を「見事なブーメランだなwwwwww」
とか言ってやり過ごしてしまうに違いありません。「所詮アンチのたわごと」「伊藤君も、
いつまで経っても治らない」とか言ってね。
でもねえ、ぼくはガセもパクリもやってないし(間違いを書いてしまったことはあるけれど)、
「アフリカという国」なんて馬鹿なことは書かないし、出身大学ははっきりさせているし。
そうそう、朝日新聞の書評委員で思い出しましたが、以前、唐沢との仲がこじれ出した頃、
朝日の木元氏から「伊藤さんに仕事をお願いすることはできます。だけどひとつ条件がある。
唐沢さんに頭を下げて、仲直りしてください」と言われたことがありました。
朝日新聞社から仕事を発注する条件が、ぼくが書いたものへの評価ではなく、唐沢との仲で
あるという。こんな事実からも、唐沢の周囲に「カルト」が形成されていたことを示唆する
と思いますが、いかがでしょうか。
いや、『GODZILLA』を100回聞け。
>藤岡さん
クリエイターが「カルト作家」と呼ばれたり、自分の作品が「カルト」と呼ばれることについてどのように感じているかはファンとしてはあまり想像のつかないところではあります。
>yonocoさん
「何か弁解しているんじゃないか?」と思って『カルト王』をチェックしましたが特に説明はありませんでした。
>個人投資家さん
記事の中でも書きましたが、『カルトQ』というマニアックなクイズ番組が当時人気があって、その影響で「カルト」と「マニア」を同一視する見方があったのでは?と思います。今となってはかなりズレた言葉遣いですが。
>Meitei,S.さん
問題の文章は結果的に全文引用しています。順序も変えていません。
唐沢の「カルト」の定義が不明確なのはその通りでしょうね。
>通りすがりさん
チェックしておきます。
>元エロ本ライター さん
伊藤さんが仰るとおり過去にはファンがいたようです。現在は知りませんが。
>伊藤さん
漫棚通信さんへの中傷と伊藤さんへの中傷については本当に許せないですね。
唐沢の取り巻きが「信者」なのかどうかは少し疑問に感じます。本当に「信者」なら唐沢の活動を絶えず追いかけているでしょうから。果たして自分以外に唐沢の著作のために『パチスロ必勝ガイドNEO』や『熱写ボーイ』を買っている人間がいるのかどうか。唐沢の取り巻きは唐沢がどんな仕事をしているのかロクに知らないし、悪くすると興味もないのかもしれません。
個人的には唐沢の取り巻きや「と学会」については「カルト」というより「ムラ社会」に近いように感じています。何らかの信仰があるわけではなく、さまざまな利害によってにっちもさっちも行かなくなっている集団という感じですね。「外部」の人間や「新参者」に過剰な攻撃性を発揮するのも「ムラ社会」的です。だから、伊藤さんへの攻撃はいわゆる「村八分」で、山本会長が唐沢を処分できなかったのも村のリーダーといえども「ムラ社会」のしがらみに抵抗できなかったからでしょう。まあ、都会の人間ぶっている唐沢が「ムラ社会」の中で生き延びているのはあまりにも皮肉ですが。
それと、木元氏の発想もまさしく「ムラ社会」的ですね。唐沢が書評委員をやっている間に盗用事件を起こして謹慎したり、書評でガセばかり書いたり、ありもしない規定を理由に自主規制したり、「朝日新聞」に対して確実にダメージを与えているのは自業自得でしょう。
>tochicaさん
文章を読んでいると「崇拝されたい」という願望が見えますね。
>トンデモブラウさん
唐沢には洋楽の知識が全くありません。
>唐沢さんに頭を下げて、仲直りしてください」と言われたことがありました。
>朝日新聞社から仕事を発注する条件が、ぼくが書いたものへの評価ではなく、唐沢との仲で
>あるという。
これはひどいですね。こんな社員の存在を朝日新聞は許しているのか?
「かつての唐沢には『信者(心酔者)』が相当数いた」
ということで、これをそのまま
「現在の唐沢の取り巻き」
に当てはめるのはかなり無理があると思います。
個人的には「信者=一般読者」、「取り巻き=何らかの利害関係がある仲間」と考えてます。
だから「と学会」などはやはり「ムラ社会」に近いと思いますが、本来の「ムラ」ならたとえしがらみがあっても「ムラの禁忌を破った者が追放される」のに、そうならないところが絶望的ですが。
>個人的には唐沢の取り巻きや「と学会」については「カルト」というより「ムラ社会」
>に近いように感じています。何らかの信仰があるわけではなく、さまざまな利害によっ
>てにっちもさっちも行かなくなっている集団という感じですね。
唐沢の周辺が、以前も今も閉鎖的な「ムラ社会」的なものであることには同意します。
その上で、ぼくが「唐沢信者」と仮に呼んでいる者の心理について、いちおうの説明を
試みてみます。ここを外すと、彼らの振る舞いが理解しづらいと考えられるからです。
また、「ムラ社会」を強くバインドしている心理が何であるのかを知っておく必要がある
と思います。少々長くなりますがご容赦ください。
まず、いま現在、唐沢俊一と利害で結びついている「取り巻き」はかなり少数でしょう。
具体的に経済的な利害にまで話を絞れば、さらに少なくなると思います。また、と学会な
らば楽工社がありますが、唐沢個人と直接の利害関係にある人は、数人程度じゃないかと
推察します(木元氏あたりはすでに離反している可能性がありますね)。
ぼくが問題視しているのは、直接的な(経済的な)利害ではなく、心情的に唐沢を応援して
いる、あるいは彼の姿勢に共感を覚えている、もっと酷い場合は心酔したり依存したりする
人のほうです。ぼくに対してしつこく絡んできていた人たちを思い起こしてください。彼ら
に、正面から「あなたは唐沢俊一を信奉していますか?」と尋ねたら、まず確実に否定する
でしょう。あるいは、たとえばここのコメント欄などで、あきらかに唐沢を擁護する言動を
取りながら「唐沢には関心がない」と言い募る人を思い起こしてもよいでしょう。こうした
「人」、というよりも、その「心理」について考えてみようということです。
カルト的な、排外的な「信仰」には二種類あると考えられます。竹熊さんの言葉で言えば
「顕教」と「密教」です。
「顕教」は、まさに対象に帰依し没入し、まさに文字通り信仰するという態度です。検証さ
んがイメージされている「信者」は、おそらくこちらの姿だと思います。一方の「密教」は、
もうちょっと複雑で、教団の維持などには力をふるったりしますが、では、彼/彼女が真にそ
の信仰の対象を「信じている」かといえば、単純にそうとも言えないものです。むしろその対
象を「取るに足りないもの」「くだらないもの」「駄目なもの」ととらえ、だからこそ、それ
を信仰するという態度を取るものというものです。竹熊さんは、これを「オタク密教」と名づ
けています。
唐沢俊一の「裏モノ」「オタク」「鬼畜」そのほかの宣言に、アニメなどのカルチャーを
「これはクズである。クズであるがゆえに、私たちはこれを愛するのだ」という要素が多分に
あることを思い出してください。この背景には、プライドの高さと裏腹の自信のなさが隠れて
います。それは、「私は社会的にはダメな人間である。だからこそ、ダメなカルチャーを愛好
するのである」という心理としてあらわれます。唐沢の「信者」たちは、この態度でバインド
されているというわけです。
この「オタク密教」という心理は、ペーター・スローターダイクという社会学者が「シニカ
ル理性」と呼んだものとほぼ同じものですが、オウム真理教にも見られたものです。たとえば
上祐史浩ら上級幹部たちが、麻原を本気で尊敬していたから帰依していたのか? という話で
す。そこにも、「胡散臭いオッサン」だからこそ帰依するという心理があったのではないか。
あるいは自分自身に向けられた「自分はまがいものだ」「自分は胡散臭い」といった自己認識
を投影する形で「信仰」が形成されていたという言い方もできるかもしれません。ゆえに、
「教祖」が多少胡散臭かったり、ガセやパクリが多少あったりしても、彼らのシニカル理性に
基づく「信仰」は揺らぐことがないのです。唐沢が「雑学の面白さはうさんくささにあり」と
いったメッセージを繰り返し発していたのは、何もツッコミを避けるための予防線というだけ
ではなく、この手のシニカルな主体を自身に帰依させる仕掛けでもあったのです。
シニカル理性については、ぼくは大澤真幸『戦後の思想空間』で読んだだけですが(『虚構
の時代の果てに』は未読です)、スローターダイクはこのシニカル理性をファシズム出現の原
理として提示していたそうです。素直な信仰は教祖に幻滅すれば消滅しますが、シニカル理性
のこわいところは、もともとシニカルなので、なかなか降りられないところと、そもそもが不
安と自信のなさ(と、自らの不安や自信のなさを見たくない心理)に支えられているので、閉
鎖的・排外的になりやすいことがあげられるでしょう。
もっとも、ぼくはスローターダイクの本やそれをめぐる社会学の文脈を押さえているわけで
はないので、およそ生半可なものでしかないのですが、大筋では外してないと思っています。
最後に、多少なりとも告白しておくと、ぼく自身、唐沢とはまさにこの「シニカル理性」、
「オタク密教」で結びついていました。自分が好きなマンガやアニメを(とりわけ「萌えて
いる自分を)認めることができず、何よりも自分に自信がなかったのです。正面から努力を
することもできず、しかし早く世に出なければという焦りを持っていました。そこに現れ、
何か「抜け道」のようなものを示してくれたかに見えたのが唐沢だったのです。
その意味で、ぼくはまさに「と学会」の脱会信者と言って差し支えないと思います。
長々と失礼いたしました。
肝心な書名を間違えるのは唐沢のクセですが、ぼくまで間違えてどうするw
>個人的には「信者=一般読者」
の部分を訂正します。
自分としては、「信者=唐沢の著書の読者のうち、唐沢に対して何らかのシンパシーを抱いてしまった人(の一部)」
と言いたかったんですが、なにをどう考えてたのか、上記のようなアバウトな書き方をしてしまいました。
もし気分を害された方がいらっしゃっいましたら、お詫び致します。
>むしろその対
>象を「取るに足りないもの」「くだらないもの」「駄目なもの」ととらえ、だからこそ、それ
>を信仰するという態度を取るものというものです。
>「これはクズである。クズであるがゆえに、私たちはこれを愛するのだ」
ありました、ありました!
ある時、山本会長が好きだ好きだと言っている作品について「私も大好きなんですよ」と申し上げたところ、会長から返ってきたのは「あんなものが好きなのかよ」という軽蔑のお言葉でした!
連想したのは、フィリップ・K・ディックの『死の迷路』(創元推理文庫)の山形浩生さんの訳者解説なんですが・・・
以下、引用
「なぜディックは流行ったのか。それはディックのキャラクター扱いのためである。ディックは陰気で無能な卑しい人間を描くにかけては素晴らしい才能を持っている。ディックの主要登場人物というのは多かれ少なかれドロップアウトであり、ディックに人気があるのは、そうした落伍者が、落ちこぼれているが故に自分を落ちこぼした社会を覆う衰退を認識できる、というアウトサイダーの優越性をしょっちゅう描くからで、もちろんそれを認識できる落伍者たちはその歪みから自由で、間違っているのは世間で、したがって自分は正しいというまったく根拠のない自己正当化を読者に可能にさせてくれるためだ。むろんSFは元来ドロップアウトがとぐろを巻いているジャンルであり、かのガリー・フォイル氏や「人間以上」の諸君、最近ではロデリックくんなど、その手合いにはことかかないのだが、そのなかでディックがなぜ傑出しているかといえば、それまでの「落伍者にも実は隠された才能があるのだ」というストーリー作りに対して、「落伍者は落伍者であるがゆえにエライ」という、自堕落といえばこれほど自堕落なものもないテーゼを恥ずかしげもなく持ち出してきて、しかも呆れたことにそれを読者に納得させてしまったという一点に尽きている。」
引用終わり
唐沢さんを勘違いして、「雑学の神様」のように思った人も大勢いると思います。
でも、「落伍者(唐沢俊一)にも実は隠された才能があるのだ」という勘違いした人たちと、「落伍者(唐沢俊一)は落伍者であるがゆえにエライ」という勘違いもあると思うのです。
そして、「落伍者は落伍者であるがゆえにエライ」という理屈(開き直り?)は、シニカルだけど、パワフルだと思います。
この論理によって唐沢さんを、落伍者の教祖あるいは落伍者の勇者に見えた人がいたのでは?という気がします。
詐欺師のよく使う心理テクニックの一つなのかもしれませんが・・・。
>>むしろその対象を「取るに足りないもの」「くだらないもの」「駄目なもの」と
>>とらえ、だからこそ、それを信仰するという態度を取るものというものです。
>>「これはクズである。クズであるがゆえに、私たちはこれを愛するのだ」
>ありました、ありました!
>ある時、山本会長が好きだ好きだと言っている作品について「私も大好きなんですよ」と
>申し上げたところ、会長から返ってきたのは「あんなものが好きなのかよ」という軽蔑のお言葉でした!
多分「『あれの価値が判るのは粋な俺様だけ』的自己陶酔していたところに、賛同者が現れたので
プライド(安ッ!)と独占欲を逆撫でされた」というのが山本会長の反応の所以かと。
そんなガキオヤジに絡まれてご災難でした。
あなたもSPA!の漫画評に致命的な作家の基礎データミスが
あったり、他の漫画評論家の方の活動への無知が散見されたりしてるんですけど。
木元氏の発言はあなたと唐沢氏の関係を修復したいという
想いから来ている言葉だったのではないですか。それをカルト呼ばわりしバッシングするのはあまりにもひどくないかと思われるのですが・・・
「作家の基礎データミス」と「他の漫画評論家の方の活動への無知」を具体的に教えていただけると幸いです。自分でも「あれは間違いだった」と把握しているものはありますし、当然のことながらできるだけ少なくするよう心がけてはいますが、なかなかゼロにはなりません。「散見される」という頻度で発生しているとなると問題です。掲載誌をSPA! と限定されているので、具体的に「これ」という誤りだと推察いたします。
お手数で申し訳ありませんが、ご指摘いただければ幸いと存じます。