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「くるべからず」兄へ手紙<脱北4>縦3センチ横4センチの切手の裏面に、〈兄いさんわ、ここへくるべからず〉で始まる68文字。帰国事業で見た北朝鮮の現実を知らせようと半世紀前、朴仁守(63)(仮名、東京都在住)が日本の兄に送った「手紙」だ。 「朝鮮総連が言う『地上の楽園』が本当か、先に行って手紙で教えてくれ」 1960年代初め、出港前の帰国者が滞在する新潟赤十字センターで、見送りの兄は、そう頼んだ。 北陸地方にいた朴家は、父親が日雇い仕事で家族6人を養い、生活は苦しかった。朝鮮総連の関係者から「共和国(北朝鮮)では必要な物は何でもそろう」と勧められ帰国を決めたが、一回り年長の兄一家は子供が生まれたばかりで、ひとまず残ることになった。 北朝鮮では北部の村に配置され粗末な長屋をあてがわれた。白米だけの飯が食べられる日はなく、人々の顔は真っ黒で体から異臭がした。当局の証明書なしには村から出られなかった。 2か月後、意を決して切手の裏に真相を書き付けた。「ばれたら銃殺」と思うとペン先が震えた。針の先で縁にのりを付け、封筒に張る。便せんの文面は「祖国は素晴らしく立派で……」と称賛一色にした。 ひと月して返事が届いた。「『簡略された内容』は承知しました」と書いてあった。「気づいてくれた」。一気に緊張がほどけた。 その後、建設会社を起こした兄は、朴ら家族に仕送りを続けた。現金、衣類、薬、食品……。餓死者が出た90年代の食糧危機も、兄の支えで乗り切れた。 朴は2006年夏に脱北。しかし日本入りを果たす直前、兄が病死したとの連絡を受ける。 89年、朝鮮総連の訪朝事業で再会した際の会話がよみがえった。仕送りの礼を言うと、兄は「同じオモニ(母)の腹で育った仲だ。遠慮するな」と豪快に笑ってくれた。「兄貴も大変だったろうに」。中国の潜伏先で、朴は号泣した。 帰国事業には59年の開始から2年間で全体の8割の約7万5000人が応じたが、その後は激減。帰国者らが様々な方法で手紙を送り、在日社会に北の実情を知らせたことが主な理由、と専門家は言う。 (敬称略)
(2009年11月23日 読売新聞)
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