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「楽園信じ・・・」悔悟の日々<脱北3>

新潟港の岸壁にたたずむ小島晴則さん。「帰国事業での過ちが今の私の原点になっている」

 1959年12月14日午後2時すぎ。975人の在日コリアンらを乗せた2隻の北朝鮮帰国第1次船が、みぞれ降る新潟港の岸壁を離れた。

 「マンセー(万歳)」「平壌で会おう」。見送る約2000人の中に新潟県在日朝鮮人帰国協力会の小島晴則(78)がいた。「社会主義の楽園で幸せに」。帰国者らの未来を思いやるうちに感極まり、泣きながら手を振っていた。

 小島は県内の小作農家に生まれ、毛沢東にあこがれて共産党員になった。「北朝鮮の発展が日本の革命に寄与する」と信じ、超党派で設立された同会の専従職員に。帰国者らが乗船まで3泊4日を過ごす新潟赤十字センターで、身の回りの世話などを受け持った。

 出港前夜。送別会で乳飲み子を抱いた女性から、小声で「本当に(北朝鮮は)大丈夫ですか」と質問され、「何の心配もない」と胸を張ってみせた。「実態を知らずに社会主義は万能と妄信していた」からだ。

 約2年後、帰国者から県内の親類あてに、せっけん、タオルなどの日用品を求める手紙が頻繁に届いていると伝え聞いた。「反共デマだ」と一蹴(いっしゅう)する朝鮮総連関係者の反応に、「何かがおかしい」と直感した。

 友好使節団員として初訪朝した64年、疑念は深まる。

 行動は監視付き。平壌のホテルで面会した帰国者5人は、どんな質問にも「金日成様のおかげで幸せです」と繰り返すだけだった。

 それでも、日本に戻ってから県内約80か所で開いた報告会では、「北の発展は素晴らしかった」と、在日の参加者に帰国を勧めた。共産党員として社会主義を否定することが怖かったからだ。悩み抜いた末、同会を辞めて呉服関係の仕事を始めたのは68年。すでに155次までの帰国者計9万人近くを見送っていた。

 「イデオロギーという酒に酔い、取り返しのつかないことをしてしまった」

 自責の念に駆られ続けた小島は97年、横田めぐみさんら北朝鮮による拉致被害の真相究明に取り組む「新潟救出の会」を結成する。「拉致被害者と帰国者の痛みが重なったから」。そう語り、北の地の“闇”に挑み続けている。(敬称略)

2009年11月22日  読売新聞)
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