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「植民二世」の苦悩抱いて

2009年11月25日

写真

講演する森崎和江さん=16日、東京都千代田区の日本プレスセンター、上田潤撮影

 ■森崎和江さん、東京で講演

 戦前の植民地時代の朝鮮で生まれた「植民二世」の詩人・作家、森崎和江さん(82)=宗像市在住=の著作を集めた「精神史の旅」(5巻)が今年完結したのを機に、東京で講演会が開かれた。森崎さんは戦後、炭坑の生活にかかわり、日本列島の南北を訪ね、朝鮮半島を再訪して続けた「自分探し」の旅を振り返った。「在日二世」の政治学者、姜尚中さん(59)との対談では「異郷と故郷」に抱く背中合わせのような互いの思いを語り合った。
(八板俊輔)

 森崎さんは1927(昭和2)年、朝鮮の大邱で生まれた。講演では「その自然と環境、そこに生きている朝鮮の方々をむさぼるように愛してしまいました」と声を詰まらせ、植民地で生まれ、日本を郷土とする者として苦悩した昭和の記憶を語った。

 慶州から金泉の中学校長に転任した父に勧められて17歳となる44年春に海を渡り、福岡県立女子専門学校(現福岡女子大)に入学した。翌年敗戦を迎えた日本で「源郷」の朝鮮を意識し始める。

 空襲で焼け野原になった福岡でぼうぜんとし、寮の食堂で「おどんがくさ」(私がね)と友人たちが話すのを聞いて「何がくさいの」と首をひねったこと。結核にかかり佐賀の療養所の病棟で鹿児島の「ちゃわんむし」の歌を聞いたことを紹介し、「この日本の中で、自分の居場所を探した。方言の世界で働いている人たちを訪ねる旅をし続けてきた」と振り返った。

 久留米市の詩人丸山豊の主宰する同人誌「母音」に参加し、58年、中間町(現中間市)で谷川雁、上野英信らと文化運動誌「サークル村」を創刊し、生活を共にした。

 炭坑町から移り住んで30年になる宗像から海辺をたどるように日本列島の南から北へと旅し、韓国を再訪した。「わたし」という一人称が、子を胎内に宿す女の実像を反映していないときづいてから、いのち、生命の連続性、その活力と意志であるエロスを考えてきた。

 そして「孫世代におわびしたいことが二つある」。一つは朝鮮半島。宗像の海岸から見る水平線の向こうの半島が38度線で分断されているのを「日本の植民地政策の最も深い傷跡。以前の姿に帰ってくれるように願う」という。

 もう一つは地球温暖化。孫が「地球は病気だよ。また木を切っている。木は炭酸ガスを吸って酸素を出してくれてるのに」と言い、鐘崎の海女(あ・ま)が「海の畑が無(の)うなった。どげん深(ふこ)う潜ったっちゃ、ワカメ畑が見っからん」と嘆くのを聞いて心が揺れる。

 「地球温暖化と朝鮮半島の分断。この二つを心に抱きながら、生きていきたい」と講演をしめくくった。

 対談で、熊本市生まれの姜さんは、軍需工場で働くために両親が名古屋から熊本に来たと話し、「ぼくのようにメディアに出てちょっと有名になると、昔のことは何もなかったように皆さんが接して下さるが、心のおりのように、わだかまっているものがある」と在日の心を語った。

 熊本で憲兵だった叔父にふれ、在日に憎まれ、日本への愛着やあこがれをもちながら、捨てられたという意識が強かったことを思い起こし、「金大中(キム・デ・ジュン)氏ら(植民地時代を知る)あの世代の人たちがいなくなって、あの時代のことがなかったことのように流れていくことが、じくじたるものがある」とも。

 森崎さんは「炭坑町で働いていた人たちと身近に暮らした。在日として残っている方々を訪ね、お墓をお参りしたりした」と語った後、世代の責任について「南北分断を止められなかったのも私たち世代の責任だし、地球温暖化もそうだ。嘆いてばかりもおられない。歴史は超えていかなくちゃならない」と話した。

 最後に姜さんは、ドイツに行き日本の炭鉱労働者の子孫がいることに驚いたことを話し、「日本の社会は、異郷と故郷のはざまで生きざるを得ない人の歴史を絶えずつくってきた。それを受け止めていくことが、若い世代にほとんど伝わっていない。そういう人に森崎さんの著作を読んでほしい」と結んだ。

 「森崎和江コレクション 精神史の旅」は「産土(うぶ・すな)」「地熱」「海峡」「漂泊」「回帰」の5巻、藤原書店刊。

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