2008.04.12 (Sat)
議論は「無駄」??
1 議論を通じて考えが変わる?
administrator
管理人
miracleさん 2007-8-14 22:15 [返信] [編集]
中畑さんからの依頼です。
引用:いわれひこブロガー新党支持者の所でぴっぴさんという人がいます。
私とこんなやりとりがありました。
ぴっぴさん
このことから、ピッピは「デマ」を言っているということでわたしのブログで「アラシ」をしたら。
わたしは辛抱強くあなたのコメントをすべて削除します。
ご了承ください。
redpurge2001さんの「アラシ」コメントはすべて削除します。
中畑
私はいつでも論理的に議論する用意があります。誰に対しても同じです。以前にもひこと同じような接触をした人がいましたが、別にトラブルにもならず和解しました。これはお互い、論理的に議論できたからです。
ぴっぴさん
わたしはブログのコメントで議論をするつもりはありません。
反対意見を持っている人は自分のブログでそれを記事にして、自説を主張すべきだと思っています。
コメントを返し、またコメントをいただき、またコメントをお返しする。そのために使用する時間と労力はわたしにとっては、惜しい時間、惜しい労力です。
議論のための議論からは何も生まれないとわたしは思っています。
中畑
ぴっぴさんはコメント欄を開設してコメントを受け付けていますがなぜですか?
他人のブログでコメントされていますがなぜですか?
コメントに返信する時間と労力が惜しいのに自己矛盾していますよね。
返信はしないが意見としてコメントを開陳しておくということでしょうか?
その割にはぴっぴさんは返信していますよね。
ぴっぴさんは「議論」が嫌なのではなくて「反論」が嫌なのではないのですか?「同意」と「賛美」だけが欲しいのではないのですか?
ぴっぴさん
何故でしょうね。
コメント不可では記事がさびしがるからでしょうか。オープンにしてきましたね。
反論があるかたは自分のブログの記事にしてください。
これが基本方針ですね。
その方のブログをみればその方のひととなりがわかりますから。
コメントに返信する時間と労力が惜しいのは事実ですが。
反戦のためとか環境保護のためとか、時間があるときはほかの人のブログにコメントを書きます。
だいたい賛同のコメントを書くことが多いですよ。
自分と同じ志向や嗜好を持つ人にコメントするのが楽しいこともあります。
同意はうれしいです。賛美は苦手です。
ブログで議論しても無駄でしょ。お互い考えが変わるわけでもないのだから。これがわたしの考え。
中畑
いえ、私はぴっぴさんと違って議論で考えが変わるかも知れません。
それは人間であれば当然のことですし、またそうでなければ人間とは言えません。
ぴっぴさん
最後の質問だと言うので答えました。
それ以降なんでコメントを入れるのですか。
自分でブログを作ってくださいと申し上げているではありませんか。
核廃絶への取り組みをご自分でなさって。
ご自分で答えを見つけてください。
ほんとうに!!
何度でも削除しますが!
世話の焼けることです。迷惑です。!!
さて
私のアプローチと最後の質問は「アラシ」だったのでしょうか?
そして「反対意見を持っている人は自分のブログでそれを記事にして、自説を主張すべきだと思っています。」
「ブログで議論しても無駄でしょ。お互い考えが変わるわけでもないのだから。これがわたしの考え。」という命題は正しいのでしょうか。
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miracleさん
2 Re: 議論を通じて考えが変わる?
ゲスト
中畑 2007-8-14 23:53 [返信] [編集]
ぴっぴさんの考えというのは実にエゴイスティックな自己満足度の高いものだと言えます。
有り体に言えば「おかしい」考えです。
議論の叩き台となるエントリをたて、余人が閲覧できる状態にしておき、コメントを書き込めるというのに「反論はよそでやれ」と言う詭弁は近頃出てきたものなのでしょうか。
「反論はよそでやれ」の理由らしきものは「ブログで議論しても無駄でしょ。お互い考えが変わるわけでもないのだから。」と言うものですが、これもまたおかしなものです。
ブログというネット上で自分の意見をエントリに立てている理由は何なのでしょう?
エントリによって自分の考えを世に問うているのはなぜなのでしょう?
これはブログで自分以外の人全てに議(理)を論じているのではないのでしょうか?
ぴっぴさんは「議論は無駄でしょ」と言っています。
議論が無駄ならぴっぴさんのブログも無駄なのです。
【More・・・】
〜〜〜〜〜〜私が眠っていた(笑)間に書かれていたこと。
話としては、凄く気にはなっていたのだけど、どうもコメントする気にはなれなかった。
もし仮にコメントしたとしても、きちんと応対してもらえるか分からないな、と思ったから。
も、ほおんと、「いわれひこさんの理論」による応対だったんだもの。
あとは、あくまで中畑さんはピッピさんとしか話すつもりなさそうだったし。
(それに・・・・「撤退宣言」した後、だったしね。)
どうにも気になるので、考えを書いてみる。
〜〜〜〜〜〜〜
私の考え。
●「反対意見を持っている人は自分のブログでそれを記事にして、自説を主張すべきだと思っています。」 とまではいえない。
反対意見に限らず、自分の主張がコメントとして長くなるようなら、自分の記事にしてトラバするなり、コメントにリンクを書くなりすれば、コメント欄はすっきりする。
しかし、論を見比べていこうとすると、コメント欄による応酬の方が判りやすいとは思う。
●「ブログで議論しても無駄でしょ。お互い考えが変わるわけでもないのだから。」とは思わない。
お互い考えは違うだろうし、議論しても考え自体は変わらないかもしれない。
それでも、「異なる考え」に触れることで、自分の論を見直したり、相手の論について考えて見たりすることは有用と思う。
●「ブログで自分以外の人全てに議(理)を論じている」という目的だけが、ブログに記事を書く理由ではない。
ただ、これって、「ネットは公開であるから、どんな反応が来てもそういうものだ」とも思う。
●人のブログはその当人にとっては「無駄」ではない。
何らかの理由で、本人が「書きたい」と思うからブログを書いているのであり、それを「無駄」という権利は誰にもない。
あとは、少しずれるけれど。
・ピッピさんの所での中畑さんのアプローチは、「アラシ」とはいえない。(そのあと、「荒らし行為」に発展していっているとは思う。)
・但し、別の人の所で「荒らし行為」をしていたのは確かだし、それを見たピッピさんが先入観を持つのは仕方ないことである。
・「最後のコメント」が何を指すのか不明。
・どうして「自分のブログ」で意見を世に問わずに「反日ブログ監視所」に書いているのか、明確な根拠がない。
・「自分のブログ」でないとしても、エントリーを立てて自分の意見を世に問うているのだから、それに対する反論は生じるものであり、それに対して応えないのはどうかと思う。
くらいかなあ。
まあ、この件は「反日ブログ監視所」でのコメントで終わった(というより、話が流れてしまった)感もあるんだけど、気になって仕方なかったので。
題を見て、漫画かゲームのワンシーン、想像してしまいました(汗)
一番目。
>ある程度議論自体を求める方が出来る技能ですね。
ごめんなさい、これって「自分の記事にしてトラバやリンク貼り付け」のこと、でいいですか?
私のようなコメント長文属性は困ってしまうんですけど(苦笑)
二番目。
少なくとも、その管理人さんは、あまり議論を好まない方でははないかな、と、当時は読めた記事やコメント欄(「反日ブログ監視所」ではありません、念のため)を見ながら思いました。
三番目。
あ、ごめんなさい、説明不足でしたね。
「全ての記事が議論目的とは思えない」と思っているのです。
徒然と自分の気持ちを書く、それが目的で書いている人もいるでしょうし。
私の場合、詩歌記事が「自分の主張を世に問う記事」といわれても困ってしまうのです。
勿論、言葉の使い方、言葉の意味などはあるとは思いますが、「貴女の捉え方は間違っている、桜は儚いものではないんだ」といわれると・・・・感受性の違いであり、議論するべきものでもないのではと思うので。
まあ、どんな反応が来るかは分からないし、それを見たくてリンク集以外は基本的にコメント・トラバ可能な設定にしています。
実際、少し違うところでコメント欄がにぎわった詩歌もあるんです。
最近では、とある方への応援詩歌だったものが議論会場になったりとか(笑)
四番目。
>孤独を求めている方が、プログで何を望むのかは謎過ぎますし。
私も此処はよくわかりません・・・・。
私は、「議論によって考えが変わることもありうる」と思っています。
なので、
>考えが変わってしまった私は特別
とは、思いません。
ただ、発信するだけの。
それを意見を求める状態にしておいて異論や反論は受け付けない。
理由を言うでもなく削除してしまうのは、一言言いたい人間からするとちと困る。
さらに言えば「一言言われた側の人間」からすれば、大いに困ります。
でも、『人のブログはその当人にとっては「無駄」ではない。』と、私は思っていますので・・・・中畑さんが「反日ブログ監視所」で言われていたように『議論が無駄ならぴっぴさんのブログも無駄なのです。 』とまではいえないと思います。
私からすると、飛躍している感があるのです。
さらにコメントを開放しているならなおさらです。
そうまでして、なお「反論や意見はなんだかわからないけど嫌だから書かないで」というのは一切通じません。無駄です。
ですからぴっぴさんのブログは無駄だったのです。
1)「異論・反論を書かないで欲しい」ということ自体が無駄である。
2)ブログを存続させることが無駄である。
1)と2)は別のことであり、1)であるとしても、イコール2)となるのは違うと思うのです。
1)だとしても、例えばコメント欄を閉じてブログ運営することは可能ですし。
あと、余談ですが。
ブログは本人が「書きたい」と思うから書くものであり、他者が「無駄」といおうが、本人に何らかの意義があれば続くでしょうね。
(あ、これは一般的な話です・・・・。)
なぜならエントリがすでに「他人からの意見を求めている」からです。
それを「異論・反論を書かないで欲しい」ということは無駄です。
正確に言えば、エントリと態度が矛楯しています。
エントリの内容が「〜である」といった主観ならば、内容を深く理解するために質問することはあっても最終的に相違するものです。
これは別に構いません。
なんの問題もない状態でコメントを求めずに運営するのはありでしょう。
トラブルがない代わりに面白くもありませんけど。
私は、おそらく「無駄」という言葉に反応しすぎたのでしょう。済みません。
>ブログ記事の目的が「他人に問いかけたり、行動を促したりしている」のならば、意見、反論があって当然です。
此処はそう思います。
ただ、
>エントリの内容が「〜である」といった主観
その積もりで書いた記事、というものもあるとは思います。
「主観」を書いた積もりの記事で、「あなたの言うことは違う」という反応に戸惑う、という状況はありがちかと。
もっとも、ネットの発言というものはどんな反応があるかも分からない、という意味でいけば、それこそ「自己責任」なのかもしれませんが。
あと。
単なる自分の思いの仮置き場としてブログを運営する人もいます。(反応は求めていないスタイル)
何が「面白い」のかも、人それぞれでしょうね。
<−−
・ピッピさんの所での中畑さんのアプローチは、「アラシ」とはいえない。(そのあと、「荒らし行為」に発展していっているとは思う。)
・但し、別の人の所で「荒らし行為」をしていたのは確かだし、それを見たピッピさんが先入観を持つのは仕方ないことである。
−−>
この頃はまともなことを書いていたのですね。
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>私の考え。
一番目は、ある程度議論自体を求める方が出来る技能ですね。
周りに配慮できることで話をある程度進みやすくなります。
これが出来ないと、周りの配慮や親切にかまけて、ワンマン社長風や、
ワガママお嬢様風になる可能性が大。
2番目は、議論を求めているのではなく、同意を求めているだけなのでしょうか?その方の考えの根底が崩れてしますなら、なおさら議論は出来ない状況と思えます。その場で解決しなくても、その方の価値観などを多少は方向修正できるのを期待して議論してゆくぐらいでしょうか。
3番目は、.....何のことが分からないのでNext
4番目は、人と接する機会として何らしかの変化を望んでいるのでプログで表現されている、と考えれば、おっしゃるとおりなのでしょう。
孤独を求めている方が、プログで何を望むのかは謎過ぎますし。
という感想です。お邪魔しました。