ルンバ!
ルンバとかマンボとか、そういったラテンな話です。といってもおいら、南米なんか行った事がないし、マニアでもないので、戦後、日本で爆発的に流行ったラテン音楽について、なんだが、とりあえず雰囲気から入りますかね? 上のQUE RICO EL MAMBOは、日本でも人気のあったペレスプラード楽団です。ペレスプラードという人は、マンボ王と呼ばれました。1956年の初来日以来、17回、来日してます。日本のラテン王、パラダイス山元に掛け声のかけかたを指導したとも言われてますね。世界中で人気があったので、葬式は大変な騒ぎで、「史上最も陽気な葬儀」と呼ばれたそうで。
もう一発、ペレスプラードです。
半裸のネーチャンが踊り狂ってますね。ラテンというと、こういうのが付き物で、日活映画だったら白木マリの役どころなんだが、ネーチャンばかりに見とれてちゃいけない。バックでちゃんと指揮者のペレスプラードも踊ってますw
さて、マンボから一転してルンバです。もともとマンボというのは、ルンバのリズムにジャズの要素を加えて作られたモノなので、ルンバこそが元祖ですね。ブルースとロックの関係みたいなもんか? で、ルンバでは最も有名な曲、「南京豆売り」です。日本でも戦前にはエノケンが歌ったし、ザ・ピーナツのテーマソングでもあった。
南京豆売り(なんきんまめうり、原題は El manicero 西 、The Peanut Vendor)は、 アフロ・キューバンのスタンダードナンバー。ハバナ出身のモイセス・シモン(Moises Simon Rodriguez)が、露天商の掛け声から着想を得て、1927年に作詞・作曲した。ところで、キャバレーバンドでは、この「ルンバ」というのが特別な意味を持っているわけです。
原作はキューバン・ソンの楽曲であり、1930年に同国のドン・アスピアス楽団がニューヨークで演奏してヒットした。
その後、この曲のコピーは1943年までにミリオンセラーとなり、作者のシモンは当時の金額で 10万ドル以上のロイヤリティを手にしたと言われている。
ルンバ (R(h)umba) とはキューバのアフリカ系住民の間から生まれたラテン音楽であり、リズム名でもあり、ダンス名でもある。後述する通り、キューバ元来のルンバと、1930年代以降ザビア・クガート楽団によりアメリカを中心に世界中に広まったとされるルンバは別物である。社交ダンスで踊られる項目の一つにもルンバがあるが、こちらもキューバで踊られるルンバとは全く別物である。キャバレーバンドというのは、「音を途切れさせてはいけない」という宿命を持っているわけだ。例によって、スマイリー小原のJr.バンドのオヤジやってたオジサンに登場して頂くと、だ。
「譜面探すのに手間取ったりすると、『ルンバ!』と叫ぶ」
のだそうで、すると、リズム隊がすかさずルンバのリズムを刻み、『メモリー』というんだが、譜面なしで適当なルンバの曲を演奏するのだそうで、ラテンでは管楽器もリズム楽器になるので、適当にサボりながら譜面探すという、まぁ、生活の知恵ですね。キャバレーバンドにとっての「ルンバ」というのはそんな意味も持っていたわけです。
ところで、本格的にラテンナンバーやろうという場合には、「さし」と呼ぶんだが、いつものメンバーに追加でパーカッション加えるわけです。この、マンボというのが、戦後の日本では物凄い勢いで流行ったもんだが、今では一部の好事家のモノになってしまいました。
mamboという言葉とはハイチの土着宗教ヴードゥーの女司祭の名前で「神との対話」の意味を持つ。この言葉が音楽ジャンルとして知られるようになったのは、1938年にOrestesとCachao Lopezにより作られたダンソンの楽曲、mamboに由来する。マンボは1930年代後半にキューバで流行していたルンバにジャズの要素を加える形で作られ、1940年代後半にペレス・プラードにより、ダンスのためのマンボとして世界的に知られた。そういや「マンボズボン」なんてのもあったっけw むかしの不良は、みんな、マンボズボンをはいてましたw
ちなみに、おいらが好きなのはLecuona Cuban Boys というバンドなんだが、
アマポーラ
なんてのも大好きですね。カバーで有名になったんだが、元はスペイン人の作曲したものです。
アマポーラ (Amapola) は、スペイン出身の作曲家ジョセフ(ホセ)・ラカジェが1924年に発表したポップス。なので、ラテンの曲だというのを知らない人も多いですね。オーケストラの少女でスターになったダイアナ・デービンも歌ってます。
スペインのカディスで生まれ、アメリカ合衆国に移住したジョセフ・ラカジェが、1924年にこの曲を発表した。当初は詩の無い曲であった。
この曲が有名になったのは、その十数年後にアルバート・ゲイムスが歌詞を英訳した後であった。ジミー・ドーシーオーケストラ演奏、ヘレン・オコーネルとボブ・エバーリー歌唱のレコードを、デッカ・レコードがカタログナンバー3629として発売した所大ヒットし、1941年3月14日から14週に渡ってビルボードに載り続けた。
「アマポーラ」はスペイン語でヒナゲシの花を意味する。ヒナゲシの花を愛しい人に見立てたラブソングである。
ところで、日本でよく知られたラテンの名曲というと、「タブー」というのがありますね。名前は知らなくても、聞けば誰でも判ります。ドリフのコントで「ちょっとだけよ」という、アレです。
映像と音が合ってないような気がするんだが、無理もない、もとは無声映画で、ポリネシアを舞台にした悲恋物語だそうで、その映画を見てインスパイヤーされたマルガリータ・レクオーナが作曲、叔父の率いるレクオーナ・キューバンボーイズがヒットさせた、という経緯です。レクオーナ・キューバンボーイズはおいらの最も好きなラテンバンドです。
さて、そんな感じでラテン音楽が日本に輸入される中、日本でもオリジナルのリズムを発明しようという動きが出て来ます。そこで流行ったのがコレなんだが、
ドドンパです。ドドンパというのは「ルンバのリズムに、都々逸風の三連を味付けした」モノだそうで、踊る指揮者スマイリー小原が流行らせました。
スマイリー小原(すまいりーおはら、1921年1月2日-1984年4月30日)は戦後活躍したジャズミュージシャンである。小原真澄名義での活動もあった。本名栗原照夫。神奈川県横浜市出身。この人、ナベプロだったので、キャンディーズのバックもやってますね。明治大学の出身で、「あんな風に見えて、物凄くマジメな人だった」と、弟子は語ってます。弟子のオッサンも、実は、音楽学校出身ではない。それどころか、昼間は女子校の教師やってまして、バンドマスターは副業だったそうで、「バンマスというのは、演奏なんか下手でもいいんだ。お前は英語が得意だし、大学出てるから、交渉ごとが出来るだろう。リーダーやれ」と言われたそうで、「バンドリーダーなんて中小企業の社長と同じだよ。癖の強い連中を手なずけて飼い慣らすのが商売」と笑うんだが、ヤクザと対峙したり、麻薬中毒のラッパ吹きに手を焼いたりしながら、スマイリー小原のJr.バンドを預かって、新宿のキャバレー掛け持ちして走りまわっていたそうです。その頃おいらが何をやっていたのかというと、やっぱり新宿でバイトしていて、毎晩、歌舞伎町あたりを通って西武新宿線の駅から電車に乗っていたので、どっかですれ違っているかも知れないですね。
1945年、敗戦時、ソ連軍の捕虜となり収容所へ。収容所で楽劇団を作る。
1947年、帰国。バンドを作り、米軍を演奏して回る。バンド「ブルー・ノート・セブン」を結成。11年間、米軍相手に演奏するが、日本人と思われず、「スマイリー・オハラ」という”アイルランド人”として活動していた。「スマイリー」はニコニコしているこから、「オハラ」は本名の栗原がアメリカ人になじまないため「なじみのある苗字」に変えた。
1958年、渡辺プロダクションに入り、スマイリー小原とスカイライナーズを結成。指揮者をつとめる
テレビ番組「ザ・ヒットパレード」や「シャボン玉ホリデー」、「クイズ・ドレミファドン!」などにレギュラー出演し、日本人離れした陽気なキャラクターと、ダンスを織り交ぜた前向き指揮スタイルで人気を博す。また、「ドドンパ」「ツイスト」などのリズムを流行させる。
1983年、バンド解散。
懐しのラテン・レクオーナ・キューバンボーイズの想い出 ~ルンバのすべて 価格:¥ 1,890(税込) 発売日:1999-05-21 |
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