2009年11月05日

再掲 香山リカ氏の思想は危険(映画「羊たちの沈黙」の意味)

マーク・トウェインの警句

「災いを引き起こすのは知らないことではない。知らないのに知っていると思いこんでいることである」

 

秋篠宮眞子様が国際基督教大学に進学されるそうです。読売新聞は、「キリスト教は邪教です!(講談社 新書)」という本を絶賛しているそうですが、これから先はたしてどうするのでしょうか?  


さて、本題に入る前に、マーク・トウェインの警句について記します。目的は、香山リカ氏の思想でカウンセリングをしているとしたら極めて危険であることを「迷える子羊」たちに知らせたいためです。

 


香山氏は殺意なき間接殺人を犯している可能性も否定できません。そのことを理解していただけると思います。

 


警句について記す前に、もう一度私の「役割」を説明します。私はキリスト教の洗礼を受け、正式にクリスチャンとして認められ、クリスチャンである(国際的)証明書もいただいています。(眞子様がキリスト教の洗礼をお受けになることはないでしょう。)

 


洗礼を受けるということは、過去の自分と別れをつげ、新しい人間に生まれ変わることです。それは過去の「恨み」や「怒り」などの私憤と別れをつげ、前だけを見て歩んでいくということです。ちょうど、富士山のふもとから頂上を見上げ、歩き出したようなものであり、決して後ろを振り返ることはありません。

 


ですから、クリスチャンになった後の私の発言のすべては、変えることのできない過去と決別した前向きで、神の子である人類の幸福を目指した発言です。それが神から与えられた私の「役割」であり、決して、個人や企業などの集団を責める(苦しめる)ものではありませんことをご理解いただきたいと思います。

 


さて、皆さんは「羊たちの沈黙」という映画をご覧になったでしょうか。実は、私はこの映画の意味するところがよく分かりませんでした。もちろん、ストーリーや、俳優の演技などは感動的で素晴らしいものですが、「羊たちの沈黙」というタイトルとこの映画の内容を結ぶものが何であるかが、よく分かりませんでした。つまり、「背景にあるもの」がまったく見えなかったのです。

 


ネットを見ても、以下のような解説が掲載されています。

 


<引用開始>

クラリスの幼少時代に子羊が殺される姿を見て逃がそうと扉を開けたが、子羊は逃げない・・・


「殺されるのに何故逃げないの?」子羊は殺されるのを了承しているかのように沈黙しつづける。


「私は正しいことをしているのか?」「殺されるのを助けるのが間違っているのか?」


そんなクラリスのトラウマと私は感じています
<引用終了>
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa158300.html 


「羊が泥穴に落ちたら、出してもらおうと鳴く。豚が泥穴に落ちたら、泥の中で転げまわるだけだ。」
チャールズ・アレン   


キリスト教をやさしく理解するためには「羊とはキリスト教徒であり、イエス・キリストは羊飼いである」と解釈してください。

http://homepage3.nifty.com/mayuriya/sinden/teo-3.html

 


豚、つまりキリスト教徒以外の人は、困難に遭遇した時には自分自身で逃げ道を探し転げまわる、キリスト教徒は、羊飼いであるイエス・キリストを通じて、天の父である神に鳴き声をあげ「最善の道」を知る、という意味です。

 


「殺害目的で誘拐され泥穴にとらわれた若き女性」・・・これも意味ありげです。

 


次に「沈黙」の意味です。一人ひとりのクリスチャンは、常に神と会話し「恵み」を受け取っています。しかしながら、得てして神は「沈黙」を保つことがあります。

 


ベビークリスチャンの私にはまだそのような経験はありませんが、クリスチャンとしての生涯には必ず神が「沈黙」される時が訪れるそうです。

 


「沈黙」とは神との交信が途絶えている時とお考えください。こんな感じです。

 


--------  ----------------   -------- --------




つまり、点と線でできた線のスペースのようなものです。「沈黙」の期間はあっても、クリスチャンとしての生涯においては、神とはつながっているとクリスチャンは考えているのです。 


それでは神の「沈黙」とは何なのでしょうか。答えは3つです。 


1、死に関わる「沈黙」

クリスチャンにとって死の後の世界は、神のことば、イエス・キリストの住まわっておられる場所となります。人々にとって恐ろしい「沈黙」の世界であった死は、もはやクリスチャンにとってはそうではなくなったのです。 


2、いのちはじける、前ぶれとしての「沈黙」

コンサートの前の「沈黙」のひと時のようなものです。 


聖書より

気をつけなさい。目をさましていなさい
マルコの福音書 13章35節 


死の「沈黙」ではなく、「耳をしっかりと傾け、心と目を開いて聞きなさい。演目が今、始まるのです!」と言わんとする「沈黙」です。 


「沈黙」の期間が長い場合特には、クリスチャンの心の中にも葛藤が生まれます。この葛藤はクリスチャンに「心の変化」「霊的成長」などの建設的な作用をもたらすこともあるのです。 


3、神の不思議、定めとしての「沈黙」 


「主よ、なぜこのようなことをゆるされるのですか」「なぜ、こんな不幸なことが続けて起きるのですか」 


人が触れることのできない、「神の秘密」の領域の「沈黙」です。この「沈黙」は私たち人の有限性に関するものです。神の「沈黙」により、私たち人間は「人の限界」というものを悟るのです。 


映画「羊たちの沈黙」においても不幸なことが続けて起きています。人間であるクラリスには限界があります。一方、悪魔のようなレクター博士には限界を感じません。そのクラリスが、「心の底にあるもの」を告白し、レクター博士と「交信」するのです。キリスト教的なストーリーであることに気付きます。 


クリスチャンとして神の「沈黙」を理解した私は、「羊たちの沈黙」という映画は、「人間の限界」が背景にある映画であると考えるに至りました。決してクラリスのトラウマが主題ではないのです。 


それでは、「クラリスの幼少時代に子羊が殺される姿を見て逃がそうと扉を開けたが、子羊は逃げない」シーンは、どのように解釈すればよいのでしょうか。 


簡単なことです。イエス・キリストを主として敬愛する羊たちは逃げるわけがないのです。 


ネタばれになるのでレクター博士に何が起きたのかについては書きませんが、「羊たちの沈黙」後に「レクター博士の沈黙」というタイトルの映画が再映画化されました。評判が悪かったのでこの映画はみていませんが、「沈黙」がタイトルに入っている以上、見ないわけにはいかないと思っています。 


さて、表題の香山リカ氏の「危険性」に関して記します。ここまで、約2,500字を記してきました。本日だけでは香山氏のカウンセラーとしての資質に多大な欠陥があることを書ききれません、後日に譲りたいと思います。今日は、前段で記した、人間の限界に関する香山氏の欠陥を指摘しておきます。 


クリスチャンは、人「個人」にも限界があり、全体としての「人間」にも限界があることを知っています。つまり、神のみが知る神の領域の世界があるということを知っているのです。(反対に、人間には限界がない、宇宙は人類が支配していると考える世界を、キリスト教では「地獄」と呼んでいます。) 


であるからこそ、人間としての限界には挑まないのです。もちろん、科学やスポーツ、芸術などの分野は別ですが、「人生」「幸福」「仕事」など、決して一人では成就できないことがらに関して、クリスチャンは個人の限界に挑むことはありません。 


クリスチャンの行動の結果の決定権は神にあります。 


「人事を尽くして天命を待つ」のであって、努力した後は「神の決定に任せる」のです。こうすることで、結果が良くても悪くても、努力の結果を受け入れることができるのです。特に、結果が悪かった時には、悪びれたり、ねたんだり、反発したりする必要がなくなります。 


翻って、香山氏の思想はどうでしょうか。 


冒頭のマーク・トウェインの警句
「災いを引き起こすのは知らないことではない。知らないのに知っていると思いこんでいることである」 


20億人が信仰しているキリスト教の教えを香山氏が「知らないのに、知っていると思いこんでいる」としたら実に恐ろしいことです。なぜならば、「人には限界がある」という前提でないと、これからはカウンセリングなどしてはいけないからです。 


「人は限界に挑戦してこそ勝利する」という思想は、今秋の友愛平成維新前の思想である読売主義と同じです。弱肉強食の読売主義は、私たち国民が選択しなかった思想であり、政権交代後は、私たち国民が選択した(マニフェストの冒頭に書かれている)友愛思想に思想転換(ものの見方、考え方転換)しなくてはならないのです。 


団塊の世代の人々や昭和30年生まれの私が植えつけられた思想は、「がんばった者が勝利する」という思想です。「巨人の星」の星飛雄馬のように「男のど根性」「血の汗流せ、涙をふくな」という世界であり、クリスチャンの世界とは180度異なる、精神論の世界でした。 


著書「悪いのは私ではない症候群」で香山氏は、「上司から突然にプレゼンを指示され失敗しても、失敗の責任は上司にはなく、上司のせいにするな」という意味のことを書いています。 


クリスチャンには全く通用しない思想であり、危険です。失敗の原因を上司と部下が共有することなくして、前には進むことはできないからです。上司と部下は縦の関係ですが、神の子と神の子と考えれば、同時に横の関係になります。十字架の縦の関係と横の関係と同じなのです。 

参考

キリスト教の社会は「釣りバカ日誌」の浜ちゃんとスーさんの関係と同じ社会です。会社を離れたら上下の関係は消滅し、対等な関係になります。

「崖の上のポニョ」や「クレヨンしんちゃん」では、子どもが母親を名前で呼び捨てにしますが、地下茎でつながっている神の子同士ということを考えると理解できます。日本社会は、上下関係を重要視する儒教の影響が強すぎます。そのことを作者は言いたいのでしょう
<終了>。 


はたして、香山氏は「推定無罪」の考え方も知っているのでしょうか。 


「推定無罪」もキリスト教の教えからきたものです。アメリカの陪審員制度では、陪審員が聖書に手を置きます。神に対し嘘をつかないと約束するためです。 


キリスト教の教えでは、人は人を裁くことはできません。なぜならば、裁く通りに裁かれるからです。この教えを基とした「推定無罪」の考え方とは、間違った判断をした陪審員が死後裁かれて地獄へ落ちないよう、「疑わしきは罰せず」なのです。 


「悪いのは私ではない症候群」の著者の香山氏の根本的思想は、この「推定無罪」の考え方とは180度異なります。

であるからこそ、読売新聞の欠陥記事を鵜呑みにして、「最後のパレード」の著者を「悪いのは私ではない症候群」のシンボルのように位置づけ、感情的に責め立てる(苦しめる)ことを可能にさせるのです。 香山氏の思想は「疑わしきは罰せず」ではなく、「(読売新聞の情報を)疑いもせずに有罪」なのです。

 

この香山氏の思想が、危険であると思われない人は、はたしてどれだけいるでしょうか?


香山氏のカウンセリングやセラピーの目的は、「人の新生(生まれ変わった気持ちで新たな人生を歩みだすこと。大辞泉)」でなくてはなりません。
鳩山総理が語るように、自民党を中心とした政権下で、国民が見失っていた「居場所」と「役割」を再度見いだすことができるように、人を正しく誘導することです。 


「悪いのは私ではない症候群」などという新語をつくり、香山氏独特の価値観を押し付けることでは決してないのです。 


「本物の救い」の宗教であるキリスト教も理解せず、自分の独特の価値観を押し付けるのが香山氏のカウンセリングであるとするならば、それはまさに「偽物の救い」であり、オウム真理教の教祖、浅原彰晃が信者に対して行った「極めて危険な救い」と同じです。 


有能なカウンセラーからは「オーラ(天皇陛下の愛のような霊的エネルギー)」を感じます。表情にも力強さを感じます。 


テレビからではありますが、それをまったく感じさせない香山氏のカウンセリングや精神科医としての治療を受けた人は、果たして本当に心から救われたのでしょうか。 


香山氏が考えたのかどうかは知りませんが、「ハッピーな孤独死」という言葉が検索できます。もし、香山氏が生み出したのであれば、この言葉は神に対する明らかな冒涜です。

 

神は、香山氏に対し「ハッピーな孤独死」「ハッピーではない孤独死」について論じる権利を与えていません。 日本国憲法前文にある「普遍的崇高な理想」をも否定するものであり、人類として決して容認される言葉ではありません。


香山氏に忠告いたします。

 

20億人が信仰するキリスト教を正しく理解しなさい。

 

そうでないと、あなたの独特な「教義」により、神の子である「迷える子羊」たちが、人間としての限界を超え「正しくない行動」「自暴自棄の行為」を選択してしまう危険性があるのです。