(零)

煌々と輝く満月の下で———。

二つの影が向かい合っていた。

一人は天の月を背負い、剣を手にした少女。

一人は母なる大地を背に、月と少女を見上げていた。

二人は対になる存在であった。

同じ日、同じ時に生まれ、

同じ神のしるしを刻まれ、

十五歳の誕生日に、同じ故郷を離れ、

唯一にして無二なるさだめの星の下に生まれたのだった。

月の少女の右手には剣が握られており、その切っ先は、地に倒れた少女の胸元に突きつけられていた。

剣の切っ先がゆっくりと動き、地の少女の服の胸元を切り裂いていく。

年頃の少女にしては薄い胸が露わになる。

そこには淡く輝くトキ色のしるしが刻まれていた。

「あなたが『御神娘(みかみこ)』のしるしを刻まれしもの」

「……」

地の少女がこくりと頷く。

「私もそう。もう一人の『御神娘』」

「……あなたが」

「他の誰にもあなたを傷付けさせない」

「……」

「我が『御神娘』の名において、私があなたを殺す」

その声には、なんの気負いも、躊躇いもなかった。

朝起きたら顔を洗うかのように、毎日当たり前に繰り返してきたことを、ただ行うだけ。

それはまるで寒々とした冬の夜空に浮かぶ月の光のような、この世のものではない冥府から響いてくるかのような…。

そんな静かな底知れぬ冷たさがあった。

無論、それは言葉遊びなどではない。

月の少女の足下には、人影———少女の同胞———が倒れ伏しているのがその確かな証だ。

しかし、死の宣告を受けたはずの地の少女の瞳には、畏れも、憎しみも、哀しみもなかった。

ただ真っ直ぐに、ただひたすらに、月の少女の姿を捕らえていた。

その瞳は感激に潤み、その頬は羞恥に赤く染まっていた。

その眼差しと、その雰囲気と、

月の少女の纏った『冷たさ』とは全く対照的な何かが含まれていた。

木漏れ日の暖かさと、無邪気さと、

地の少女がゆっくりと口を開く。

「うん……判った」

「……?」

「それでいいよ。あなたが私を殺していいよ」

月の少女の瞳が驚きに見開かれる。

「その代わりね…お願いを一つだけきいて欲しいの」

「お願い?」

「いいかなぁ?」

そう言って、少女は少女に微笑んだ。

(壱)

柱の前に立つ媛子

東京某所。

小さな私鉄の駅が建っている。

改札口からすぐに右に折れた先、三本目の柱の陰に、一人の少女が立っていた。

女子校の制服らしいブレザーに身を包み、亜麻色の髪を大きな白いリボンで結んでいる。

低目の背、なだらかな肩、丸い顔と相まって、全体的に子供っぽい印象がある。

美人でも不美人でもない。まあ可愛らしい容貌なのだが、この人込みの中にいると、まるで目立てない感じだ。

時折、紫陽花色の瞳で腕時計を覗きながら、そわそわと視線を動かす。そんな仕草も何処か森の小動物じみて見える。

「媛子(ひめこ)」

靴音を響かせて現れたのは、古風な面持ちの黒いセーラー服姿の少女だ。

濡れ羽色の黒髪と、すらりと伸びた手足、制服の上からも判る豊かな胸。

未踏の成層圏の如き輝きを称えた藍色の瞳。

媛子と呼ばれた少女とは対照的に、道行く誰もが振り返り、見とれる美貌…何処かこの世のものではないような幻想的な雰囲気を纏っている。

「千華音(ちかね)ちゃん」

媛子が嬉しそうな声を上げて、パタパタと千華音へと駆け寄っていく。

まるでご主人を出迎える子犬のように。

「ごめんなさいね。遅くなって」

千華音が口を開く。

霊峰の空気さながらの凛と澄み切った声だ。

「そ、そうじゃないよ。私が早く来すぎちゃっただけで……」

モジモジと媛子が応える。

「ならいいけれど……行きましょう」

「う、うん」

二人は肩を並べて歩き出す。

電車の中でも二人は他愛ないおしゃべりを続ける。

といっても話しかけるのは主に媛子の方だ。

学校で撮った写メのこと。

新発売のリップが高くて買えなかったこと。

クラスの女の子たちが星占いサイトの話題、今週のラッキーカラーの話で盛り上がったこと。

とりとめのないおしゃべりを、千華音は時折あいづちを挟みながらにこやかに聞いている。

電車内の千華音と媛子

「千華音ちゃんは何座生まれだっけ? 私もそのサイトを調べてきたんだよ」

得意気に携帯を取り出し、操作を始めるのを見て、千華音は言う。

「一緒でしょう? 私たち」

「あ、そ、そうだよねぇ」

媛子は恥ずかしさに頬を染めて俯く。

そんな媛子を見るたびに千華音はあるものを思い出す。

今はしゃいでいたかとおもうと、ちょっとしたことですぐにしょげかえってしまう。

くるくるとめまぐるしく変わる表情は、まるで———。

幼い頃、祖母の部屋にあった玩具——そう『万華鏡』という名前だった。

色とりどりに着色された細片たちが廻りながら様々な色彩や模様を形づくっていく。

にぎやかで、華やかで、そして———。

「それから? 何」

「え?」

「今日の運勢はどうなってるの? 私たちの」

「え、ええとね…あのね」

慌ててデータ画面を覗き始める。

万華鏡がまたくるくると回り出す。

そんな姿を見守りつつ、千華音は思う。

私たちは、周りからは、どう見えるのだろうかと。

はたから見ている分には、仲の良い姉妹か、長いつきあいの幼なじみのようにしか見えない。

誰が自分たちを見て思うだろう?

爽やかな笑顔も、弾む会話も、全て偽り。

ただのお芝居なのだと。

互いを殺し合うさだめの星の下に生まれた少女たちの束の間の『ままごと』なのだと。

本当になんなのだろう?

この奇妙な関係は———。

全てはあの日あの時…月光の下での誓いから始まったのだと。

(弐)

千華音と媛子は日本海に浮かぶ離れ小島、杜束(とつか)島生まれの少女である。

その杜束島には門外不出の伝承が伝えられていた。

島の中心に鎮座する神峰、美和山には大いなる祟り神、大蛇神(おおかみ)が封じられている。

封じられた祟り神が目覚めるとき、その怒りは山を揺るがし、海を割り、島を飲み込むと伝えられている。

恐るべき祟り神を鎮めるために行うのが、『御霊鎮め(みたましずめ)』の祭である。

島の一族の中で、ある時、同じ日、同じ時に、身体の何処かに証を持った二人の『御神娘』が生まれる。

大蛇神に選ばれし娘、『御神娘』の使命はただ一つ。

十五歳の誕生日から命を賭けて闘いあうこと。

そして、勝った『御神娘』は、敗れた『御神娘』の命を、十六歳の誕生日に、大蛇神に奉じ荒ぶる魂を鎮めなければならない。

その儀式の名を『奉天魂(ほうてんこん)』と言う。

この度、大蛇神に選ばれたのは、日之宮(ひのみや)家の娘、媛子と皇月(こうづき)家の娘、千華音であった。

二つの家は総力を上げて、娘に極秘の大特訓を施す。

『御神娘』の身体には人智を越えた大蛇神の力が分け与えられているが故に鍛えれば鍛えるほどにその力を増していく。

自家の娘が勝てば、家の者は晴れて島の支配階級である長老衆の一門と認められ、栄誉と特権を手に入れることができる。

皇月家の大特訓のかいあって千華音はめきめきと腕を上げていった。

十歳を超すころには、風の速さと、刃の鋭さを併せ持つ超一流の戦士へと成長した。

その手で『御神娘』を倒すことを心に誓いながら。

そして二人の十五歳の誕生日に、一つの事件が起こった。

『日之宮家』の『御神娘』、媛子が突然、島から姿を消したのだ。

この闘いにおけるタブーは二つしかない。

『島民以外の者に伝承の秘密を漏らすこと』

むやみに第三者を巻き込んで事件を大きくしてしまうこともこれに繋がる。

『十六歳の誕生日を前に、相手の『御神娘』を殺してしまうこと』

それ故に、いつの間にかだまし討ち、目くらまし、待ち伏せなどの策略を立てることが当たり前のことになっていた。

むしろ一年間でどれだけ相手にダメージを与えられるかが『御霊鎮めの儀』の勝負の分かれ目なのだ。

させはしない…と千華音も追って島を飛び出した。

高校生として転校を繰り返しつつ媛子を捜索、ついに東京の某高校に潜んでいることを突き詰めた。

喜び勇んで千華音は、夜の東京を走った。

物心が付いた頃からの標的。

肌を裂き、血を流し、その身に痛みと技を刻み込み、

燃える闘志と凍てつく冷徹さを心と頭に叩き込んで、

夜の月に、その姿を重ね、

瞼の裏に、その技を浮かべ、

焦がれるよう、滾らせるように、疼くように、ただひたすらに想ってきた。

心の中で、千の出会いと万の闘いを繰り広げてきた運命の相手に。

やっと……やっと会えるのだ。

待ちに待った出会いの予感に、千華音は胸が高鳴っていくのを感じる。

いけない———。

千華音は引っさげた太刀を握る手に強く力を込める。

鋼の堅さと、冷たさが千華音の心をひんやりと鎮めていく。

熱くなりすぎてはいけない。熱は力にもなるが、また隙にも繋がるのだから。

千華音は己に言い聞かせる。

私は夜空に浮かぶ月だ。

熱を持たない冴えた輝き。

それが私なのだと。

何千、何万回と繰り返してきた己への戒め。

ついに、夜の東京のあるビルの屋上で。

千華音は媛子の姿を捕らえたのだ。

それは異様な光景だった。

ビルの屋上に見える三つの人影。

床に倒れた媛子を見下ろすツインテールの髪型の娘と、セミロングでメガネの娘。

ツインテールが刃をちらつかせながらせせら笑っている。

メガネの娘が呆れたように首を振っている。おそらくツインテールの油断を諫めているのだろう。

媛子の制服のあちこちが切り裂かれ、下着と白い肌が覗いている。

その生地がうっすらと赤く染まっている。

あれは———日之宮の『御神娘』、媛子の血だ。

考える前に、思う前に千華音は奔っていた。

音も無く、気配も立てず、つむじ風のように二人に迫る。

必殺、必勝の間合いまで、十歩、五歩…。

「!?」

やっと二人が振り返る。

大きく床を蹴って、夜空へと飛び退る。

同時に、メガネの娘の手が翻り、銀光が次々と迸る。

メガネの娘が投げたのは忍びが使っていたと言われる『鏢(ひょう)』に似た刃物だ。

かなり投げづらいが、刃が目標に刺さらなくとも、その重さでダメージを与えることができる。

しかも、十数本の『鏢』を上、中、下に散らし、タイミングをずらして投げている。

これでは一つの『鏢』を避けても別の『鏢』に当たってしまうだろう。

最悪でもツインテールの娘が体勢を立て直す時間は稼げるはず…それを狙ったのだ。

息のあった良い連携だ。二人での闘いに成れているのだろう。

並の『使い手』、いや『手練れ』を相手にしても充分通じる技ではあった。

しかし、千華音は『御神娘』だ。

千華音は更に速さを増し、ツインテールの娘に肉薄する。

ツインテールの娘の手刀が唸る。

鋭く早い空気が焼け付くような一撃だ。

しかし、千華音は難なく身をかわす。

鍛え抜いたこの身には、そよ風に舞う羽根も同然、当たるはずもない。

千華音は体制の崩れたツインテールの手首を掴み、引き寄せる。

迫る『鏢』への楯としたのだ。

夜空にツインテールの娘の悲鳴が響く。

着地した千華音は無造作にツインテールの娘の手首を放す。

意識を失ったツインテールの娘が力なく床に崩れ落ちる。

身体の数カ所に『鏢』が当たったのだ、たとえ致命傷ではなくても、しばらくは立つことも叶うまい。

数メートル背後に着地したメガネの娘が『鏢』を構えている。

息づかいと殺気に剥き出しの感情を感じる。

圧倒的な力の差を前にした驚愕と畏れ…そして相棒を倒された怒り…だろうか。

千華音はゆっくりと振り返る。

夜の月がその美貌を照らし出す。

メガネの娘の表情が驚きに強張る。

「『み、御神娘様』……」

その手から『鏢』が床に墜ち、鈍い音を立てる。

やっと自分たちがどこの誰を相手にしているか判ったらしい。

「も、申し訳ございません。まさか…『皇月の御神娘様』とは思わず…お手向かいを」

メガネの娘が慌てて跪く。

この二人は皇月の家に仕える『九蛇卵(くだら)』だ。

探索や闇討ちなどの裏仕事を生業とした技能者で、何度か千華音の訓練の相手をしたこともあった。

だが千華音が命じていたのは。『日之宮の御神娘』の捜索のみ。決して手を出してはならないと厳命を下していた。

おそらくは、闘いを有利にしたい皇月家当主の密命か、手柄を立てたいこの二人の勇み足だろう。

この娘に手を出していいのは、十五年間、数多の地獄をくぐり抜けてきた自分だけだ。

髪の一筋、血の一滴まで『御神娘』の千華音のものなのだ。

それを———。

千華音の瞳が怒りに冴え冴えと輝く。

その威に打たれた、メガネの娘は顔を上げることすらできない。

その背が震えている。

千華音は手を振って、『立ち去れ』と合図する。

このような愚かな輩となど、口を聞くのも汚らわしい。一瞬でも早く、目の前から消え去って欲しかった。

「ぎ、御意」

メガネの娘は、弾かれるように飛び退るとツインテールの娘の身体を抱え、瞬く間に消え去っていく。

闘いの後始末は朝までに皇月の『九蛇卵』が片付けてくれる。

闘いは終わり、そして、静寂が訪れた。

ここにあるのは夜と月、そして対峙する二人の『御神娘』だけだ。

これで良い。これこそが私たちに相応しい舞台だ。

千華音は床に倒れ伏したままの媛子に向き直る。

そして、媛子に剣を突きつけて、胸のしるしを確認すると、容赦なく死の宣告を告げた。

「あなたを誰にも傷付けさせはしないわ。あなたは、私が殺す」

と———。

二人と月

しかし、媛子は怯えもしなければ、抵抗もしなかった。

それどころか、千華音に『降参』してしまったのだ。

姫子は言った。

私を殺していい。その代わり、たった一つだけお願いがあると…。

「十六歳の誕生日まで、私と仲良くして欲しいの…」

千華音の眼が驚きに見開かれる。

あらゆる闘い方のパターン———それこそ、言い争いまでも含めて———を想定し、全ての対処法を考えてきた。

何があろうと、態勢は万全。

そう信じてきた千華音の意表を突く、あまりに意外な一言だったからだ。

この娘は、何を言っているのだ?

『御霊鎮めの儀』は遊びではない、島に生を受けし者に架せられた絶対の宿命だ。

たとえ、闘いを恐れて逃げ出したところで無駄だ。

一族と長老衆がそれを許すはずがない。

いや、島の神代の掟がそれを許さない。

どう見ても千華音の油断を誘うための罠だ。

なんて見え透いた小細工を——。

千華音の心に立った驚きのさざ波が収まっていく。

「あなた…どう言うつもりなの?」

千華音は媛子の胸元に突きつけた剣にゆっくりと力を込めていく。

磨き上げられた刃の切っ先が白く軟らかい肌に押しつけられ、真っ赤な血の玉が浮かび上がる。

「まさか、そんな嘘で私を欺けるとでも思っているのでは無いでしょうね?」

殺しはしない。決して殺さない。今は。

でも、これ以上ふざけたことを言うなら…。

相応しい罰を、耐え難い苦痛と辱めを与えてやることに、なんの躊躇いもない。

たとえば一生消えない傷を刻むことも。

心を粉微塵に打ち砕くことも。

意地も誇りも放り出したくなるような、そんな非道なやり口とて、千華音は教え込まれているのだから。

炎の気迫と刃の殺気を込めた千華音の眼光が、媛子の瞳を見据える。

歴戦の勇士だろうが、闇に生きる獣だろうがこの威と鋭に耐えられる者などいない。

隠しおおせるものなら隠してみるがいい。

しかし、媛子はゆっくりと頭を振る。

「ホントだよ」

その瞳にあるのは、相変わらずの憧憬と切望の輝きだ。

まるで、吹き荒れる死の嵐の中でさえ、さざ波一つ立てない水鏡のように。

流石の千華音も絶句するしかない。

不可避の絶望が目の前に迫って来ているというのに、どうしてこの娘はこんな風に無邪気に笑えるのだろう?

沈黙する千華音をよそに、媛子の唇は明るく言葉を紡ぎ続ける。

「じゃあ、こういうのはどうかな?」

「……?」

「あなたがいやだって思ったらいつでもやめていいよ。その時は私のこと好きにしていい」

「!!」

「お家の人たちは私から頼むから…ね、それならいいよね? だから」

媛子は千華音の顔を見上げ、

「あなたは私の一番大切な人になって下さい」

媛子の瞳には、千華音と夜空の月だけが映っていた。

そして、千華音は———。

「それでね、千華音ちゃん」

媛子の言葉が千華音を現実へと引き戻す。

朝の小鳥の囀りのように快く耳に響く声。

千華音はふと思う。

このままずっと耳を傾けているのも楽しいだろう……。

しかし、そう言うわけにもいかない。

「媛子」

「え?」

「話の続きは降りてからにしましょう」

「あ!!」

我に返った媛子が慌てて駅名を確認する。

前にも媛子が話に夢中になって、目的の駅を乗り過ごしかけたことがあったのだ。

チケットを無駄にしたらまた媛子はしょげてしまうだろうから。

二人は慌てて駆け出した。

(三)

二十分後、二人は目的の映画館にいた。

映画は禁断の恋に苦しむ恋人たちのラブロマンスだ。

残念ながらあまり人気作ではないようで、ミニシアターでしか上映していない。

ただ媛子が好きかも知れないと思ってチケットを取ったのだ。

そう言えば、媛子と二人で初めて出かけたのもこんな悲恋映画だった。

そう、あの時は———。

千華音は頭の中で反芻する。

媛子との初めての『お付き合い』———。

正直、退屈で退屈でたまらなかった。

主人公とヒロインが結ばれようが、引き裂かれようが、それがなんだと言うのか?

その後のラウンジでの口にした菓子———媛子はスイーツと呼んでいた———も。

観覧車から街の夜景を眺めたのも。

確かに千華音にとって、初めての体験だった。

でも、ただそれだけのことだ。

千華音にとっては、壁を眺め、砂を噛み、崖っぷちに立っているのと大差ない。

媛子は、これがフツーの女子高生の遊びなのだと言っていたけれど、千華音にはなんの刺激も無い、無駄な行為としか思えなかった。

帰り道で嬉しそうにニコニコしている媛子がとても信じられない。

だから、その帰り道で、

繁華街の夜道で、千華音は媛子に問いかけてみた。

「ねえ、一つ聞いていいかしら?」

「何?」

「こんなことして、何が楽しいの?」

媛子は不思議そうに小首をかしげる。

そんなことを聞かれるとは夢にも思っていなかったとでも言うように。

「楽しいよ」

媛子は等々と語り始めた。

あの島にはこんな風に遊べるような所なんてなんにもなかった。その上、私はしるしがあって、よその家の子と遊んだりもできなかったから。

だからずっとやりたかった。

お出かけするために待ち合わせしたり、放課後に寄り道して遊んだり、お泊まりしていろんなこと話したりとか、

そう言うのずっとずうっとね、憧れてたの。

ベットに入ったとき、

その日にあったいいことを思い出して、

明日に会えるいいことを空想して。

ウキウキして、ドキドキして、ワクワクして、だからね…。

「ああ楽しかった。明日も楽しみだなって。

そう思えたらどんなにいいだろうって」

と媛子は笑った。

千華音の眉が微かに曇る。

そんな理由なのか? と。

『私の一番大事な人』になる、とはそういうことだったのか。

なんて、下らないんだろう。

千華音は媛子の申し出を受けた。

『御霊鎮めの儀』ヘ向けての闘い。

その決着が、この程度の代償で済むなら安いものだと思ったことはたしかだ。

しかし、本当の理由は、千華音の能力に及ぶべくもない筈の、こんな幼そうな娘の中に、千華音には無い、異質な『何か』を感じとったからだ。

たとえば千華音の力は、鋭く研ぎ澄まされた抜き身の刃だ。

激しく撃ち合い、火花を散らし、最後には切り裂く。

それが今まで千華音が接してきた『相手』に感じた力であった。

しかし媛子のそれは違った。

それはふうわりと柔らかく、形も色も持たないものだ。むくむくと形を変えながら、まとわりついて離れない。無理に例えるならとてつもなく重い綿か何かのような、そんなものだ。

千華音はその力の源にほんの少し興味がわいたのだ。

鍛錬と言う言葉からはもっとも遠い。白くて柔らかいぷにっとした身体の奥には何が潜んでいるのか?

だからあえて媛子の提案に乗ったのだ。

そうでなければ、自分の血と炎と痛みに血塗られた十五年は、何のためにあったのか判らなくなってしまうから。

でも、その正体が媛子の言うものなのだとしたら、十六歳の誕生日までわざわざ付き合う気にはなれない。

無言の千華音に、尚も媛子は語りかける。

「……千華音ちゃんは、楽しくなかった?」

「ええ。少しも」

千華音は容赦なく言い放つ。

わざわざ嘘を付いてまで機嫌を取る気にもなれなかったのだ。

だいたいこの『ちゃん』なんてなれなれしい呼び方も疳に障る。

おまけに『御神娘』とも思えないほどにもたもたして鈍くさい。今日も何もないところで二回も躓いていた。

媛子は哀しげに睫を伏せる。

「……ごめんなさい……。

下調べとか、もっと上手にできたらよかったのに……本当にごめんなさい。」

叱られた子犬みたいに潮垂れながら、ボソボソと言い訳を繰り返す。

ああ、まただ。

何度目のごめんなさいだろう。

思わず舌打ちの一つも浴びせてやりたくたくなる。

「でも次はもっと頑張るから」

そう言って媛子は微笑む。

しかし、冷え切った千華音の心には微かなさざ波すら立つ気配はない。

無駄なのに…そんな風に媚びたって…と思うだけだ。

もう『力の正体』などどうでもいい。こんな遊びは何時終わらせても構わない。

そう、今すぐにでも。

千華音は適当な狩場を物色する。

たとえばあの人気のない路地はどうだろう? 丁度あの立て看板かビールケースの陰にでも引き込んで……。

それも良いかもしれない。

千華音が決意と殺意を、その爪先に注ぎ込む。風が吹くように、水が流れるように、ごく自然に。

その時、媛子が腕を組んで来た。

「千華音ちゃん、あれ!」

その指さした先にあったのは、小さなゲームセンター。

その店頭にはプリクラの筐体があった。

「最後にあれ、やっていこうよ。ね」

そう言って媛子は有無を言わせぬ勢いで、千華音をぐいぐいと引っ張っていく。

毒気を抜かれた形で千華音も付いていく。

二人は筐体の中に入り込む。

「ええとね、ここを見るんだよ」

媛子がカメラの位置を指先で指し示す。

それにしても狭い。

「フレームは何がいいかなぁ? 薔薇?

ウサギ? それとも…」

千華音は媛子の言葉を遮るように薔薇のフレームを指さす。

「何だかドキドキするね」

頬を上気させた媛子が千華音に話しかけるが、千華音は何も応えない。

ただ早く終わればいいのにと思っていた。

その時———。

媛子が千華音の身体を強く抱き寄せ、

千華音の頬に、キスをした。

「!!」

フラッシュの閃光が二人を照らす。

千華音は……。

「……何?」

惚けた眼で媛子を見る。

「何?」

「え、な、何って……?」

「今のはなんなの?」

千華音の指先がその頬に触れる。

プリクラ

千華音の様子に気付いた媛子が、慌てて両手を振って否定する。

「私も初めてで…みんなでフレームに治まるためにこうやってくっつくんだって。

あとね、クラスの娘たちもふざけて抱き合ったりとか、キスしたりとか普通にやっているから。大丈夫かなって思ったんだけど」

そう言いつつも当の媛子も、頬を真っ赤に上気させている。

「……普通?」

これが普通なのか? 千華音にはまるで理解できない。

「ご、ごめんね。き、気持ち悪かったよね」

媛子の謝罪は、千華音の耳には届いたが、その心には降りては来なかった。

千華音の意識は、自らの胸の奥で『弾けたモノ』にだけ向けられていた。

媛子のキスで『弾け』た時、千華音の中で『何か』が生まれた。

それは小さな小さな、塵のような欠片だ。

ほんの少し眼を離しただけで、簡単に見失ってしまうほどに。

形も、色も、温度も無い、もやもやと、淡々と、頼りなさげに浮いてる一片の雲のようなものだ。

それでもそれは、確かにそこにあった。

千華音が生まれてこのかた只の一度も感じたことのない———快とも不快ともつかない———不可思議な感覚だった。

千華音という寒々と輝く月に、はっきりと刻みつけられたのだ。

その『何か』は、熾火のように千華音の胸をチリリと焦がし、治りかけた傷口のようにムズムズと疼かせた。

その後のことは千華音はよく覚えてはいない。

何を話し、何を約束し、何時別れたのか。

何一つ思い出せない

ただ、その夜———。

千華音は媛子にプレゼントされたプリ帳にプリクラのシールを貼り、眠ってしまうその時まで見つめ続けていた。

始めはただの気の迷いにちがいない思った。こんな不確かなものは、すぐに忘れてしまうだろうと。

しかし、夜が明けても。

次の日も、その次の日も、

千華音の中から、『何か』が消えることは無かった。

次回更新をお楽しみに。