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help リーダーに追加 RSS 坂井律子『ルポルタージュ出生前診断』(NHK出版)B

<<   作成日時 : 2009/09/15 09:11   >>

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優生思想から出生前診断に話は戻る。

母体血清マーカーテストによる出生前診断システムの生みの親のひとりが、
リーズ大学の教授ハワード・カックルという人物だった。

日本を出る前、このシステムの歴史を調べていて非常に気になった論文があった。それは1992年、このシステムがダウン症の検査として本格的に普及しようとする際、カックル氏ら何人かの研究者によって共同発表されたものである。そこでは母体血清マーカーテストによるダウン症の出生前診断を公費で負担する際の費用効果を計算し、こう記している。
「ダウン症の子どもの出生を1件回避するために必要なコストの見積高は、3万8000ポンドであり、この額はダウン症の人の一生の福祉コストに比べてはるかに安い」(一生の福祉コストについては、別の研究を引用し、一般の人より12万ポンド多く費用がかかるとしている)(140−141頁)


コストを計算することで出生前診断を正当化しようとしている。

背筋に冷たいものが流れる思いだ。

じつは、ここがとても重要なポイントなのである。

弱者に優しいと思われがちな「福祉国家」を考えるうえで、大事なポイントなのだ。

先に登場した社会学者の市野川容孝が、
国家と優生学、国家と健康管理について、次のような重要な視点を指摘している。

「ぜひ付け加えておきたいのは、西洋社会で優生学が確立されていく時期と福祉国家の枠組みが形成されていく時期とは、実は重なっているということです。福祉国家というのはすべての国民の生活、あるいは生命を保障する義務を負っているんですが、しかしそれは同時に国家がすべての国民の生活や生命を丸抱えにする以上、国家が人々の生活、あるいは人々がどう生まれるべきかといった問題について直接、間接に介入してゆくことを可能にしてしまいます。検査費用をすべて負担したほうが、障害者の生活を支えるための財政コストを考えれば結果的に安くつくというカックル教授の発言は、まさに福祉国家という枠組みのなかでこそ可能なものだろうと思います」(156頁)


福祉国家というのは、一般的に言われているほど「弱者に優しい」わけではない。

冷徹なコスト計算を行ない、「守るべきひと」と「そうでないひと」を峻別するのである。

国家の外部に対しては移民の流入を厳しく管理し、
国家の内部に対しては国民を選別するシステムでもあるのだ。

たとえば、テレビによく出演する経済学者の森永卓郎は、
社会民主主義的な福祉国家を主張する論者であるが、
彼は同時に「移民排斥論者」でもあることをここで想起しよう。

著者はイギリスでカックル教授に直接インタビューを行なうのだが、
ここでは、著者が行なったある団体へのインタビューを紹介しよう。

その団体とは、
イギリス二分脊椎・水頭症協会(Association for Spina-Bifida & Hydrocephalus=ASBAH)。

母体血清マーカーテストの対象となっていたのは、
ダウン症だけでなく二分脊椎も含まれているからである。

ここは、患者の支援団体なのだが、なんと「スクリーニング」を支持しているらしい。

ピーターバラのASBAH本部で私たちは、協会の衛生施策担当のローズマリー・バチェラーさんにインタビューした。……
「……典型的なのが、例えば健康な体の持ち主であるあなたが車椅子の人と一緒に店に入るとしますよね、すると店の人は必ずと言っていいほど、車椅子の人ではなく、あなたに話しかけます。この人は何を買いたいのでしょうか? とか、砂糖は必要ですか? とか。」(161―162頁)


なぜ世のなかのひとは、車椅子のひとに話しかけるのか?

それは、「障害者はバカだ」と健常者が考えているからだ、という。

そして、「車椅子を通して障害を見るのではなく、
人そのものを見るような社会にしてゆくことが大事です」と言う。

こうして社会に存在している障害者への偏見・差別の克服をこの団体は目指す。

だが、同時にスクリーニングを支持している。

実際にこの協会がどのような理屈で「スクリーニング」を支持しているのかは、
直接本書を読んでみていただきたいのだが、
簡潔にまとめると、次のようになる。

「出生前スクリーニングを受けるというのは、選択肢を与えることである」

「社会の差別や偏見とは闘うが、それと予防は別の話である」


このようにして、出生前診断を広く行なうことをこの団体は支持しているという。

しかし、当然のことながら、著者はこれに不安を抱く。

ASBAHの出生前スクリーニングに対するスタンスは、あくまでも個人の選択権の保障である。そして「予防」と「偏見との戦い」は両立する。これは序章に書いた、まさに「ダブル・スタンダード」である。「苦しい障害だから予防されるべきだが、予防してもそれが障害者自身の不利益にはつながらない」という考え方である。(165頁)


「予防」と「偏見との戦い」が両立すると考えるなら、
「予防」は障害者差別ではないということになるだろう。

しかし、なぜ「予防」するのかと突き詰めて考えれば、
「予防」を進める動機が「障害者に対する偏見」と無関係であるとは思えない。

「予防」と「偏見との戦い」は本当に両立するものなのだろうか?

次に著者は、プライス一家に会いに行った。

二分脊椎の娘エリザベスちゃんを育てる母親アンジェラさんに会いに行くためだ。

イギリスでは、障害者に対する保障は日本よりずっと手厚い。エリザベスちゃんに対しては、医療費や歩行具など全額無償である。また、本人への手当の他にケアラー手当としてアンジェラさんに、日本円にして月額6万円程度が支払われる。またエリザベスちゃんは、近くの地域のプレイスクールに通う予定だが、そうした施設や保育園に通う場合、介助員が行政の負担によってつくことになっている。またこの取材の直前に、教育に関する教書によって、障害があっても原則として地域の普通学級にいくことが望ましいという方針がイギリス全土に出されている。その場合の学校での介助員も、もちろん公的につけられることになるだろう。(167頁)


先のASBAHの相談員が、定期的にこの家を訪ねて相談に乗っているという。

母親は、次のように述べた。

「健康な肉体は確かにすばらしいものですが、いくら見た目が良くても、卑劣な性格の持ち主だっているではないですか?」(168頁)


母親は、妊娠中に受けた超音波診断で娘の障害を知ったという。

出生前スクリーニングについては、
事前に障害が分かったことで準備ができたのでよいことだ、と述べている。

だが、病院のスタッフから言われたという次の言葉は、どう考えればよいのか?

「エリザベスが髄膜炎で非常に容態が悪かったとき、私たちは医療スタッフと一緒にいました。エリザベスは顔色が悪くてもう死ぬかもしれないと、みな思っていました。そのとき助産婦の一人が言ったのです。『こういう子どもを産んだあなたに罪の意識はないのか』と。その人は、またこうも言いました。『二分脊椎はもう撲滅されているのに』と。とても愚かな発言です。私は悲しくなりました」(169頁)


出生前診断という技術が広まると、ひとびとの考え方も影響を受ける。

障害が発見され、多くの人が中絶を選ぶ社会では、少ない方の選択はどんどん難しいものになってゆく。(170頁)


だから、この医療技術はたんに「選択肢」を増やすだけ、というものではないのではないか?

プライス一家の取材は、スクリーニングによる中絶が当たり前になった社会が少数の決定者に対して冷たく厳しい対応をすることを、私たちに痛感させるものだった。(170頁)


「予防」と「偏見との戦い」は本当に両立するのだろうか?

そういう疑問が拭いきれない。

もうひとり二分脊椎の患者であり、
障害児のための活動を行なっている女性に著者は会いに行った。

アリソンさんという名の彼女は、出生前診断についてこう述べている。

イギリスでの出生前スクリーニングの普及について、アリソンさんの意見は次のようなものである。
「赤ちゃんが障害を持っているかどうか検査できるという発想は、理にかなっているように思われがちですが、実際にその検査の結果は中絶に結びついています。それは障害者に対する決定的な差別の現れだと思います。」(174頁)


さらに彼女はこう言葉をつづけた。

「二分脊椎の子は手術するにあたらないとしたローバー氏の考え方とスクリーニングの技術躍進によって、ニ分脊椎の赤ちゃんの数は減ってしまいました。そして、赤ちゃんの数が減ってしまったことに伴って、手術を引き受ける医師や、実際にその技術を持ち合わせる医師は、ほとんどいなくなってしまったのです」(195頁)


ここで出てきた「ローバー氏」については説明が長くなってしまうので、
省略するが、思わぬ影響である。

ある病気・障害がスクリーニングの対象とされると、
その専門家も同時に減っていってしまうというのである。

「死の、殺しの技術の開発に膨大な資金とエネルギーがつぎ込まれる一方で、生の技術――命を尊重し生活の充実を図り、それぞれの潜在能力を開発する道――はおろそかにされています。これは実に情けないことだと思います」
 アリソンさんは、医学者の考え方やその開発した技術によって、明らかに二分脊椎の人たちに「不利益」、それも「いま生きている人たちの命をも脅かす不利益」が降りかかっているというのである。患者の数が減ることによって、医学の主流ではなくなり、新人医師が育たなくなっているという。(196頁)


こうして、「福祉の充実」と「予防」を両立させるという福祉国家の「善意」は、
早くも裏切られていくことになるのである。

いまや出生前診断はイギリスや日本だけでなく、世界中に広がりつつある。

そして世界的広がりで見れば、現在ヨーロッパ各国(フランス、ドイツ、オランダ、北欧各国など)、アメリカ、カナダの他、シンガポール、香港、台湾、韓国で普及しているといわれている。(205頁)


これを見ると、プロテスタント系の国々と経済成長著しいアジアが目立つ。

何か関係があるのだろうか?

注目すべき点であるように思われる。

……母体血清マーカーテストは、はじめは二分脊椎症発見の技術として、そして1980年代からダウン症やいくつかの染色体異常のスクリーニング技術として、世界の広い地域に広がっている……。(205−206頁)


本書の紹介の初回にも書いたことだが、
もうひとつ遺伝子診断という医療技術もある。

遺伝子診断の技術は、病気の遺伝子が特定されると理論上はその数だけ増えてゆく。もちろん、すぐに診断技術に結びつかないものもあるが、単一の遺伝子が引き起こすと考えられている病気の場合、遺伝子の発見は診断へと結びついてゆく。さらにこれまでに開発された技術と結びついて、新たな展開をする。それが不妊治療技術の「体外受精」と結びついた受精卵着床前診断だった。(219−220頁)


じつは、この受精卵着床前診断の方が、
出生前診断で選択的中絶を行なうよりも母体の負担が少ないという理由で、
着床前診断が着々と進められているのである。

ちなみに、ここで起き得る「多胎」の問題については、
以前このブログで取り上げたことがある。

そしてこれも驚くべきことだが、
母親の尿検査でダウン症を発見しようとする出生前診断技術も研究されているという。

「障害の早期発見」がより簡便になっていくのだろうか?

個人個人の決定に支えられ、結果として「障害を持った人」、「病気の人」の生命を減らしてゆく社会。カックル教授は、血液によるスクリーニングは「優生学である」と語った。いま、遺伝子の解明と同時に進展していこうとする「遺伝医療」が進んでゆく先が、かつての「優生社会」とどう違うのか、それは「優生学」がイギリスで発祥して実に100年を迎えようとする今日、世界的な議論のなかにある。(229頁)


では、このような問題についてWHO(世界保健機関)はどう考えているのだろうか?

1995年にWHO(世界保健機関)の指導・協力のもとにつくられた
「遺伝医学の倫理的諸問題及び遺伝サービスの提供に関するガイドライン」草案
というものがある。

見出しにはこう書かれているという。

“Prevention is not Eugenic”(予防は優生学ではない)……。(232頁)


そして、このガイドラインの序文には、次のような文章があるという。

「各個人は自らの遺伝的リスクやその子孫へのリスクについて知る権利を持つべきである。すなわちこれらのリスクについて教育をうけることができ、胎児が罹患していた場合、両親が希望すれば安全に妊娠中絶ができるというような選択を含めた、知識に基づいて行動できるサービスが提供されるべきである」(小児病院臨床遺伝懇話会有志訳 以下同)
 これは、いま読むと前章の最後でまとめた現在の医療現場の姿と重なる。遺伝医療の成果を「家族計画」にどう生かすか、そこに求められる倫理とは何か。この草案はそれをテーマにしているようである。(233頁)


このまま医療のサービス化が進んでいくとき、
ちょうど企業に「良質な商品の提供」が求められるように、
出産は「良質な子ども」を生産する「場」になっていくのだろうか?

冒頭の一般原則は、
「世界中で何百万という家族が遺伝性疾患に悩まされている。全妊娠の約3%は重篤な遺伝性疾患あるいは障害を有する子どもの誕生という結果につながっている」
 という文章で始まり、障害者の存在によって、
「相当な経済的負担が社会にかかっている」
 という言葉で終わっている。(233−234頁)


障害者の存在は社会的な負担になっているという露骨な指摘に、言葉を失う。

あらゆる人間が安心して暮らしていける社会をつくるのではなく、
社会のお荷物になるひとをあらかじめ「選別・排除」しようというのである。

これは何のための、誰のための社会なのだろうか?

本当に減らしてしまっている、そして、減らされた疾患の人たちが不利益を受けているという指摘に衝撃を受けて帰ってきた私だったが、WHOは世界でいくつも「減少した」例があることを肯定的にとらえているように読めた。(235頁)


こうしたことが「国家による強制」という形ではなく、
個人の自己決定(自由意思・自由選択」を通じて実現されていく。

ここでもう一度、ナチスの優生政策を振り返っておくことも重要だろう。

そして1939年、ポーランド侵攻と同時に決定的な計画が動き出す。それは計画が練られた「ティアーガルテン通り4番地」にちなんで、「T4計画」と呼ばれた障害者の安楽死の実行であり、ヒトラーは医師に宛てた手紙の形で、その遂行に関して「治癒見込のない者に、慈悲深い死を与える権限を特定の医師に拡大する」という事実上の命令を下したのである。この計画以後、精神障害者7万273人が精神病院の地下に作られたガス室で殺されていった。ガス室はまず精神障害者のために開発され、やがてユダヤ人など民族の虐殺へとつながっていったのである。
 計画を終えた後、障害者たちの死で、どのくらいの経費が浮いたのかを計算した書類が係官によって残された。ジャガイモ、パン、肉、それぞれの品目ごとに、もし障害者が生きていたらどれだけの費用がかかったか、1年にいくら、10年ならいくらかが計算された。表の欄外には、この人たちの命が絶たれたことを「消毒」と記し、「消毒」によってこれらの費用が節約されたと結論したのである。(246−247頁)


これを読んでどのような感想を持っただろうか?

これは過ぎ去った過去の出来事なのだろうか?

「障害者の生命」のコストを机上で冷徹に計算して、
「無駄を省く」ことに血道をあげる官僚の姿は、
徹底的に「労働者を削減する」企業経営者たちの姿とダブって見える。

アメリカのいくつもの州は現在も断種法を持っているし、強制断種も続いていた。(248頁)


優生思想は過去の遺物ではない。

いまもわたしたちの心の奥に根深く住み着いている。








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