*はじめに

 太古の昔から、人々は遺体に対してタブー視する傾向があるにも関わらず、遺体の保存については世界中至る所でさまざまな方法が生み出されてきた。ただ乾燥させるだけのもの、植物油を使って化学的処置を施すもの、人工の薬品処理を行うものなど多数ある。
 ここでは、遺体を「腐らせない!」ことを主題とし、心臓死以後に身体を保存するための処置法で、現在主に行われている「エンバーミング」「プラスティネーション」「クライオニクス」を中心に述べたい。
 ただし、クライオニクスに関しては、その技術者にとっては心臓の停止状態が「生物学的には生きている」状態と解釈するべきものであるので、遺体を「腐らせない!」というテーマとは少しずれているように感じられるかもしれないが、法的死と認められた後に行われる保存行為とみなし、あえてここで触れておきたい。


*第一章 人が死ぬと

 現代医学では、人の死は客観的事実と認められ、死亡の根拠は三徴候、すなわち呼吸の停止、心拍の停止、瞳孔反射の消失とされる。人が死ねば、血液循環・新陳代謝などが停止し、環境によってさまざまな変化が起こる。

 死体現象は個体死直後から始まる人体の物理的・化学的・生物学的変化の総称であり、早期死体現象と晩期死体現象とに大別される。その区別は必ずしも厳格ではないが、一般的には自家融解および腐敗が関与して生ずる現象を晩期死体現象という。

 死体現象は、個人の体重・体格・脂肪・蛋白質含有率・PH・生前服用していた薬・外傷などで現れ方に差異がある。また、安置場所の温度・通気性・保温状態によっても違ってくる。



第1節 早期死体現象

1−1 死斑

 血流停止後、重力により血液は血管内を就下する。これが体表面から観察される。発現するのは、死体がおかれた姿勢における下面である。硬い面に接触している部位、あるいはきつい衣服を着用している部位などでは、血管が圧迫され、血液が入りこめないので死斑は発現しない。また海の中で死亡し、そのままの状態で発見されない場合、体全体を圧迫する力が各部に均等に加えられるので、死斑は出ないか弱い。

 死斑の主な色調は以下の通りである。
  1.暗紫赤色:一般的 ヘモグロビンの色素
  2.鮮紅色:一酸化炭素中毒・青酸ガス中毒・凍死・麻酔薬中毒
  3.褐色:塩素酸カリウム中毒・亜硝酸ナトリウム中毒→メトヘモグロビン形成
  4.暗緑色:硫化物中毒→硫化メトヘモグロビン形成
 死斑は、最短で死後数十分で発現する場合もあるが、通常は死後2時間前後で発現しはじめることが多い。発現状態は、初期は斑状でしだいに融合して広がる。12時間以内は指で押すとその部分だけ死斑は消える。それはヘモグロビンが血管内にとどまっているということで、体位を変換すれば、重力に従って移動しうる(死斑の移動)。時間の経過とともに血液の濃縮が起こったり、さらにヘモグロビンが血管外に漏出したりするため消退しにくくなる。24時間以内には定規など先の尖ったもので押すとその部分は消える。24時間以降は外から圧力を加えても消色しにくい。一般に急死遺体では死斑の発現が速くかつ強い。ただしうっ血性心不全のような病態では生前にも血液就下が生じていることがある。また老人や小児では死斑の発現は比較的弱く、時にほとんどみられないこともある。失血死などにより体内の血液量が減少している場合も当然発現は弱い。死斑は内部臓器にも現れ、とくに肺などでは顕著にみられることがある。

死斑の強弱は以下の通りである。
強い死斑;急性心臓死・脳血管障害・窒息・向精神薬中毒・農薬中毒等
弱い死斑;大血管の破綻や損傷による失血・白血病・敗血症・慢性肝障害・腎不全・頭部外傷などで
      長期入院中のもの・著しい貧血・新生児・老人等



1−2 死後硬直

 死後時間の経過とともに骨格筋は次第に硬くなり、関節を動かすのに抵抗が生ずる。これを死後硬直といい、完成すれば関節は固定される。その後筋肉は弛緩しはじめるが、これを硬直の緩解という。
 硬直の成因には諸説があるが、一般的にはATPの減少が原因と考えられている。また、緩解は自家融解(タンパク分解酵素による)によるとされる。
 *ATPとはアデノシン3リン酸(Adenosine Tri Phosphate)の略で、生物の細胞中に必ず存在する、すべての生命活動をつかさどる重要な化学物質。神経細胞が興奮したり、筋肉が収縮したり、肝臓が物質を合成したりする時に消費される。
 環境温により硬直の進行は異なるが、20℃前後では死後2〜3時間後に顎関節から始まり、大関節、末梢関節へと進む。これを一般に下行型硬直というが、この現象の本態については議論がある。近年の報告では筋のタイプ(いわゆる速筋・遅筋)により硬直の発現に時間差があることが示されている。その後8〜12時間で完成し、24〜30時間までは持続する。緩解時期は、夏は死後2日、冬は4日位とされている。硬直は人為的に緩解させることが可能であるが、死後非常に早い時期(4〜5時間以内)であれば再硬直が起こりうる。筋肉質の青壮年者で経過が速く、老人・小児等では遅い。一般に気温が高い場合には経過が早く、気温が低い場合あるいは冷蔵した場合には遅くなる。心筋の硬直は骨格筋より速く発現するとされる。激しい筋肉疲労・精神的衝撃・脳幹機能の即時的停止等により、死亡直後から強い硬直(電撃性硬直)が見られることがある。「弁慶の立ち往生」がこれにあたる。


1−3 死体温

 死後、熱生産の停止により、死後死体温度は低下し、環境温に落ち着く。

1.体温度に影響を与える因子

 1.外気温・天候
 2.その他の環境:風通し等
 3.着衣:厚着であれば遅い
 4.体格:太っていれば遅い
 5.死因:感染症・焼死・凍死等、死亡時の体温に異常がある場合や、外傷・失血等により
   熱が体外に逃げて死亡した場合など

2.直腸温降下

 死体温は通常直腸内温度で表現する。室温であれば1時間に0.5〜1℃前後低下する。



1−4 乾燥と角膜の混濁

 死体の体表から水分が蒸発するため、特に角膜・陰嚢・口唇等で顕著に現れる。死後一見爪や毛髪が伸びたように見えることがあるというが、これは皮膚の乾燥によるとされる。角膜の混濁も主として乾燥によるもので、当然開眼した状態で放置しておくと速く進む。夏季ならば1日で瞳孔の透見が不能になる。


第2節 晩期死体現象

 自家融解および腐敗が主な過程である。
複雑な有機物 ⇒ 簡単な有機物 ⇒ 無機物 ⇒ 消失


2−1 自家融解

 死ぬと腐敗とは関係なく、臓器組織中の酵素による嫌気的な分解が進行する。これを、自家融解といい、その進行は消化酵素を保有する臓器・器官では早く、0℃以下の低温や酵素の活性が失われるほどの高温ではほとんど進まない。典型的には膵臓で進行が速い。子宮内胎児死亡でみられる浸軟現象もこれにあたる。


2−2 腐敗

 バクテリアあるいは微生物による組織の分解の過程をいう。
★腐敗の順序
 炭水化物→粘膜などの蛋白質→脂肪→筋組織の蛋白質→カルシウム
 ※鼻、口粘膜、乳幼児の脳、妊娠中の子宮は腐敗しやすい。
 ※妊娠していない子宮、動脈は腐敗しにくい。
キャスパーの法則;腐敗の進行時間 気中:水中:土中=1:2:8
 地上の1週間の腐敗程度は、水中の2週間、土中の8週間のそれに相当する。
 すなわち、空気中が最も腐敗の進行が速く、土中が空気中の8倍進行速度が遅い。

1.腐敗性変色…死後1〜2日後に下腹部暗緑色の変色。

   ・下腹部 ⇒ 上腹部 ⇒ 胸部

 ○体内から分解された硫化水素 + ヘモグロビン → 硫化メトヘモグロビン

2.腐敗網…死後2〜3日前後すると、血液は腐敗溶血して血色素が血管外に浸潤する。
  皮下の静脈の走行に沿って褐色調に樹脂状あるいは網状に変色する。

3.腐敗性水疱…腐敗の進行が進むと、中にヘモグロビンを含む液と腐敗ガスが貯留した
  腐敗性水疱が生じる。これが破綻すると表皮が剥離し、真皮が露出する。

4.ティシューガス及び腐敗ガス
 ティシューガスには諸説があり、実際その原因・過程を特定するまでには至っていないのが現状であるが、アメリカのエンバーミングの教科書をみると主にクロストリディウム菌が原因であるとされている。死亡後はいうまでもなく、死亡する前でさえも腐敗の元となるガスを出し始めることがあるという。死後、腸管からのバチルス菌によって汚染された部分から全身に広がることになる。そのガスによる膨張は通常まぶた、首、男性の陰嚢等の柔らかい組織に顕著に現れる。急速に全身に広がり、水疱が表面上に形づくられる原因となる。その状態が進行するにつれて、水疱は増大して破裂しガスと腐敗させる液体を放出し、表皮剥奪状態に陥ることも少なくない。臭いは鼻をつく。時間がたつうちに、遺体がどんどん大きくなり、巨人様観を呈する。

*クロストリディウム菌(ウェルチ菌)
 ヒトのガス壊疽の主な原因菌である種。腸炎、虫垂炎、産褥熱に関与することもある。この細菌は、土壌、水、乳汁、ほこり、汚水、ヒトや他の動物の腸管内に見られる。
 アメリカでいうところの「ティシューガス」と日本でいうところの「腐敗ガス」が同じものを指しているかどうかは、様々な文献を読んでみたが、はっきりしない。それは、「ティシューガス」「腐敗ガス」それぞれの定義そのものと意味と実体とが明確でないところから来るものであろう。公益社エンバーミングセンターでも、約200体に1体の割合で、ティシューガスが充満した状態の遺体が入ってくるが、こんなに早くガスが発生し腐敗していくものなのか、とその腐敗進行速度の速さには、いつも驚かされる。死後10時間もたっていない遺体でも全身にティシューガスがまわっているようなケースも少なくない。
 そうしたとき、私は「ティシューガス」と「腐敗ガス」とをあえて別のものとして考えたい衝動にかられる。「ティシューガス」は「腐敗ガス」よりも速い速度で遺体を腐敗させる、と。しかしながら、これはあくまで自論に過ぎない。

5.死体の損壊…死後に外部から死体が受ける損傷や破壊

  1. 犬・猫・鼠・カラス・トビ・アリ・ゴキブリ・サメ・カニ・エビなどによる咬傷あるいは損壊
  2. 岩石・船のスクリューなどへの接触
  3. ウジ虫…死臭がすると、ハエは速やかに遺体に飛来する。眼、鼻、口、肛門、陰部、創傷部などの湿り気のある部位に産卵。まもなく孵化し、遺体を蚕食して成長する。ウジ虫は最大1〜2cm前後になり、サナギになる。成虫になったハエはさらに産卵してウジ虫を生じ、数代にわたって繰り返しご遺体を食い尽くす。※ハエの飛行可能気温―――10〜20℃

 公益社エンバーミングセンターでも、この種の遺体はたまに搬入される。海や川で死亡したケースで魚などに食べられていた場合もさることながら、自分がとてもかわいがっていたであろうペットの猫に食べられているおばあさんの遺体を目の当たりにすると、とても切なくなる。

6.白骨化
 白骨化に要する期間は環境により大きく異なり、これには気温だけでなく、前項で述べたような、遺体を損壊させる生物たちが果す役割が大きい。生物による損壊が高度でなければ白骨化するためにはひと夏を超えることが必要と考えられる。南西諸島では3ヶ月前後で完全に白骨化することがある。昨年の葬祭研究で鹿児島県の「与論島」を取材したが、そこでは基本的に土葬と改葬(白骨化するのを待ってから遺骨を掘り起こし、洗って墓にもどす)の習慣が残っているので、むしろ白骨化を推進する考え方がある。



第3節 特殊死体現象:腐敗の進行の停止

3−1 ミイラ

 どうしても、エジプトピラミッド時代のミイラが有名であるが、人為的に薬品(植物油や水銀など)と化学反応を起こさせなくても、ミイラはできる。
 日本でも僧侶や修験道の行者にその例をみることができる。現在でも全国で20人ほどの僧侶のミイラをみることが可能である。死者の原形を残したままで葬る日本の「木乃伊葬」(みいらそう)は僧侶の場合、密教の入定(にゅうじょう)思想と阿弥陀浄土への往生思想が根本にあったといわれる。入定とは、生きながら永遠の思惟に入るという考え方。その墓は、石室であり入定墓といわれる。弘法大師、実恵(じちえ)(道興大師)、堅恵(けんえ)などが入定によって葬られたとされる。
 弘法大師については、諸風説があり、実際のところは判明していないが、火葬されたとする文献が見つかったこともあり、火葬されたと考えるのが妥当だという考え方が強まってきている。
 修験道では、ミイラを即身仏として祀る習俗が、関東から中部地方にかけてあった。ただし、同じ即身仏(ミイラ)になるといってもその動機・目的は必ずしも同じではない。

@即身成仏…
真言密教の根本思想。大日如来との一体化により現身のまま仏陀になるという思想。これは、遺体を残したまま成仏する、という意味ではない。17世紀から続いた湯殿山(真言宗)と羽黒山(天台宗)の闘争で、「真言宗の湯殿山」を誇示するために、厳しい修行を耐え抜いた究極の形態として「即身成仏」を実践してみせた、と考えられている。真言宗で湯殿山の修験者は全員「海」号がつく。
A弥勒信仰…
弥勒菩薩が56億7千万年後にこの世に下生し、菩提樹の下で3度の説法を行う。この結果、釈迦の救済できなかった282億人が救済される、という思想に基づいた信仰。「仙人になって待ちたい」「弥勒の下生するときまで体を残したい」という考えでミイラになった。
B薬師信仰…
「わが身を留めて薬師如来たらん」自らが薬師如来となって人々の病気治癒のためになろうとした。そのようなミイラの周辺では、現在でも「ミイラの衣が病に効く」といわれ、絶大な信仰の対象となっている。
C阿弥陀信仰…
法華経に基づく信仰。念仏を唱えることにより、極楽往生を願う。阿弥陀如来の石仏の中で入定した舜義上人は有名。
D富士信仰…
富士山を霊峰とし、信仰の対象とした考え方。江戸初期に角行が開いた富士講などは有名であるが、そのなかの行者も実際に何人か入定している。

 最近でも、大阪梅田の繁華街の路上でミイラ化した遺体が発見されたように、「ミイラ」は昔話ではない。条件がそろえば、ミイラになる。高温・低湿で風通しのよい環境下で乾燥が急速に進めば、ミイラができる。成人で3ヶ月程度を要するといわれる。一般に腐敗と同時に進行することが多いので、乾燥進行速度が腐敗進行速度を上まわると「きれいな」ミイラができる。



3−2 屍蝋化

 高湿度風通しの悪い環境化で起こる。すなわち、遺体が水中や湿潤な土中などに放置された場合にできる。未完成なものは軟らかくチーズのようだが、完成すると硬く脆く石膏のようになる。灰白色あるいは淡灰褐色。高温では死蝋形成が早く、2〜3週間でできたというものもあるようだが、一般には皮下に見られるのは2〜3ヶ月、筋層に及ぶのは4〜5ヶ月、全体を死蝋化するのは少なくとも1年で通常2〜3年ともいわれている。子供や肥満した人は死蝋化しやすい。殺人事件などで森林内や山中の土中に遺棄された場合、このような状態になることが多い。


3−3 第3永久死体

 朱(水銀化合物)による腐敗の抑制。人為的・非人為的いずれでも生ずる。遠い昔から中国では、朱(色)は神聖な命の色と考えられていた。この朱色の元は硫化水銀(HgS)といわれており、毒性があり、防腐剤として効果があるとされていた。また、この朱は不老不死の薬とされ、仙人になるという意味で「神仙丹」といわれた。そこで古代人は、この朱を遺体の防腐剤として使用した。しかし、実際には防腐どころか人体の細胞を破壊する作用があったようだ。現存する日本の古墳のなかにも、遺体は分解されてしまい朱の塊が多く出てきているものがある。岡山県楯築古墳の木棺の中からは30kgを超える朱が出土し、奈良県の茶臼山古墳からは朱がバケツ2杯分出土した。「朱」というものに対する昔の人々の敬愛は、並々ならぬものがあったらしい。


*第二章 エンバーミング

 エンバーミングに関しては、公益社葬祭研究所編著『新しい葬送の技術 エンバーミング』(現代書林2005)を読んでいただくと、非常に分かりやすく、詳しい。ここではエンバーミングの概要を述べたい。
 エンバーミングとは、遺体に対して洗浄・消毒・顔の整えを行い、腐敗防止・感染防御などの衛生保全のための薬液を注入し、それに伴う体内の血液・排泄物の排出処置を行い、化粧・着付けを施すことである。


第1節 歴史

 エンバーミングは、古代エジプト(紀元前3200〜紀元650年)から始まった。その当時、なぜエンバーミングすることが必要とされ、どのような処置が施されたのであろうか。

★古代エジプト
 @宗教的理由…「死からの復活」を外形上実現するため。
 A公衆衛生的理由…砂漠に放置される遺体が、ナイル川の氾濫で漂流し感染症が蔓延するおそれがあったため。
   古代エジプトのエンバーミング方法⇒「ミイラづくり」ともいわれる
 1.脳を摘出:多くの場合鼻の穴から金属製のフックを差し入れ、かきだす。
 2.内臓を摘出。
 3.ネートロン塩の中に遺体をつける。
 4.塩を取り除く。
 5.布で遺体を巻き、内臓はカノーピックジャーといわれる壷におさめる。

 そして、エンバーミングは医学とともにヨーロッパで進化する。

★中期ヨーロッパ
 17世紀にエンバーミング界に激震を起こしたオランダの3人

  1. ヤン・スワンメーダム(1637〜1680)…小動物や昆虫の研究家。昆虫等にラム、ワイン、アルコール、テレビン油を入れ、防腐していた。
  2. フレデリック・ライシュ(1638〜1731)…ヤン・スワンメーダムの方法を人体へ応用した。オランダ政府より依頼を受け、1666年に勃発したオランダ沖の海戦で戦死したイギリス海軍指揮官ウィリアム・バークレー伯爵の遺体をエンバーミングしたことは有名。アルコール、テレビン油、砒素が使用された。
  3. ステファン・ブランチャード(1650〜1720)…解剖学者。ワインとテレビン油を使用。口から水を流し込み、消化器内に残っている食物類を肛門から強制的に流しだす。次に、口から消毒・防腐の目的でアルコールとテレビン油を流し込み、直腸の部分で目止めをして漏れを防ぐ。そして、太い静脈・動脈を切開し、排血を流水等の力を利用して行い、防腐剤を注入した。

 この後、ドイツでも遺体の胸腹腔の中に、アンモニア塩・酒石の水溶液を入れ、さらに6〜8週間その水溶液につけることで防腐処置を施していた。(クラウンダーズ[17世紀後半])
 この時代には、ヨーロッパで様々な方法によって遺体の防腐処置が試みられた。医学・解剖学の研究・教育が主な目的だったようだ。

★後期エンバーミング〜アメリカ〜
 葬儀・儀式に対する尊厳性を重視し、「見た目」を重視した、現代のエンバーミングの原形。頚動脈や大腿動脈を利用して薬液を注入し静脈から排血を行った。内蔵に対するエンバーミング処置は行われなかった。エンバーミングを一般の人が依頼できるオフィスをニューヨークで構えた。
 トーマスホルムズ(1817〜1900)…アメリカにおけるエンバーミングの父。エンバーミングに使う様々な器具を発明した。4000件以上のエンバーミングを施した。皮肉なことに、自分自身が死ぬ際には、エンバーミングを希望しなかった。

 1927年、エンバーミングの教育において全国的な基準が統一され、その頃からエンバーマーライセンスを取得するのに必要な教育内容・教育施設・教育者の基準が決められた。
 防腐の薬品にホルマリンがよく使われるようになったのもこの頃で、それまで防腐薬として使用されていた砒素や鉛などの害について騒がれていた時代にとても歓迎された。




第2節 エンバーミングの目的

@防腐…
「以前のようにドライアイスを当てなくてもいい」ということで、喜ぶ遺族が少なくない。顔や体の周りにドライアイスで防腐処置をするとき、多くの場合でそれらを目立たなくするために、「綿」などで仰々しく装飾される。それが「うるさく」みえたり、冬のような寒い時期に小さなお婆さんが大きなドライアイスに押しつぶされそうに囲まれて休んでいる姿を見るのは忍びない。しかしながら、エンバーミングをすれば、ドライアイスは要らないので、上記のような問題は起こらず、顔は「まるで普段と同じようにただ眠っているかのように」見え、体は生前好きだった衣服が着られ、それを着ていることをアピールすることができる。公益社エンバーミングセンターで処置した遺体も、男性ならスーツ、女性なら着物を着せることが非常に多く、葬儀場で凛として見える。なかには、思い半ばにして亡くなった新婦がウェディングドレスを着て、旅立っていくケースもある。そのような時、エンバーミングをしていれば、ドライアイスを使う必要がないので、衣装全体をアピールすることができる。
また、親戚が遠隔地や外国にいる場合、火葬場がいっぱいになっているときなどは、葬儀までしばらく時間があるので、エンバーミングは非常に有効である。日本で亡くなった外国人を母国に送るときも時間がかかるので必要となる。
A殺菌…
無作為に抽出した病理解剖500例のうち、65.2%の326例になんらかの感染症が認められたという記録がある。エンバーミングの最も大きな効果の一つに外部への感染症防御がある。MRSA・結核・肝炎などの蔓延を防げる。会葬に来る病弱な年配者や免疫力の弱い子供たちが顔を故人のすぐそばまで近づけてお別れしても危険はなくなる。
B修復…
目や口を閉じたりすることをはじめ、長い闘病生活でやせこけた方を少しふくよかにすることもできる。また、交通事故や自殺で亡くなった方の修復も手がける。


第3節 エンバーミングのプロセス

  1. 全身を消毒液で拭き、清潔にする。髪を洗い、口ひげ・あごひげを剃る。
  2. 顔を整える。
  3. 動脈から衛生保全液を注入し、静脈から血液を排出。
  4. 全身・髪を洗う。
  5. 着付け
  6. 化粧
  7. 納棺


第4節 日本エンバーミングの現在と未来

4−1 日本のエンバーミング

 1988年埼玉県で、日本において日本人に対するエンバーミング処置が初めて行われた。日本においては、エンバーミングに関する確固たる法律がないために、IFSA(遺体衛生保全協会)という団体が1994年自主基準を制定。厚生労働省に働きかけている。1994年、エンバーミングが死体損壊罪に当たるのではないかとして、千葉県で告発を受けるが千葉地検はその告発を、遺族の宗教的感情を法益として、不受理とした。これは、エンバーミングが死体損壊罪には当たらないと公に認められた証である。
 2000年、日本においてのエンバーミング処置件数が年間1万件を突破した。2005年は、年間14,000件を超えると試算されている。公益社エンバーミングセンターでは1年間で3,000人以上の方をエンバーミング処置している。
 警察庁は、平成15年度予算で、犯罪被害者で司法解剖した後の遺体に対して、遺族の精神的苦痛を和らげるために、エンバーミング(遺体衛生保全)して遺体修復処置を行い、解剖による切開痕を目立たなくするために5千4百万円を予算化し、処置を行うことを決定した。


4−2 海外搬送

 公益社エンバーミングセンターでは、海外搬送の対応も行っている。2005年11月現在までにスリランカ・インドネシア・カメルーン・韓国・イギリス・タンザニア・オーストラリア・アメリカ合衆国・パキスタン・中国・ウクライナ・フィリピン・タイ・ベトナム・ドイツ・ペルー・ボリビア・トルコ・台湾・マレーシア・グルジアの方の母国までの搬送を行った。それぞれの国の風習や宗教感情・経済事情が異なり、また書類等を扱う大使館・領事館の人々の考え方も国によって全く違うので、対応には細心の注意を要す。
 海外搬送の場合は、エンバーミングをすることが多い。というよりするべきである。海外の航空会社のなかには、エンバーミングを行っていない場合はご遺体を載せること自体を拒否しているものもあるらしい。1つ目の理由は、エンバーミングをせず、ドライアイスを防腐の処置として柩のなかに入れると、飛行中の気圧の変化により、柩の周囲の気圧が下がり爆発もしくは遺体に傷をつけてしまうことがあるからだ。2つめの理由は感染症予防のためである。受け入れ国によっては「非感染症証明書」の添付が必要な国もある。エンバーミングを施せばそれが発行できる。柩は多くの場合、コンテナに入れて飛行機の貨物スペースに搬入され空輸されることが多いが、専用のコンテナに入れない場合もある。そのようなときは、他の貨物と並べて空輸されることがあるので、柩の密封性には注意を払う必要がある。遺体からの体液漏れ・血液漏れが柩の外に及べば、賠償問題にもなりかねない。公益社エンバーミングセンターでは、以下の写真Aのような密封性の高い柩(スチール)で送ることが多い。

写真A
写真A

 逆に、海外から日本への遺体搬送は以下の写真Bのような木製の枠に囲われた形の柩が多いが、もちろん日本から海外への搬送にも使える。木枠のなかには、金属の柩が入っており、さらにまたその中に木棺が入っている。ただし、このような木製の柩の場合、受け入れ国によっては、木への害虫や卵の混入を防ぐ処置をしたという「燻蒸処理証明書」が必要になることがある。そのときは、柩の製造業者に問い合わせて発行してもらう必要があるので、急ぎで本国へ搬送する必要があるときはあまりお勧めできない。

写真B
写真B

 また、海外搬送には必ず所定の書類が必要である。受け入れ国によって必要書類も異なるが、大使館・領事館が要求する書類を揃え、大使印もしくは領事印をもらって完了となる。留意すべき点は、遺体の日本からの海外搬送を経験したことのない受け入れ国の在日大使館・領事館の場合、必要書類が分からない事が多く、逆に聞かれることがある。また、必要書類を受け入れ国の政府に確認するために、時間を費やすことがある。

★海外遺体搬送に必要な書類(※国によって異なる)
 ◎死亡診断書
 ◎故人のパスポート
 ○外国人登録証
 ◎現地引受人の住所・氏名・電話番号
 ○火葬(埋葬)許可書
 ○記載事項証明書
 ○死亡診断書英訳
 ◎防腐処置証明書
 ◎梱包内容証明書
 ○非感染症宣誓供述書
 ※◎はほとんどの国で必要になるもの。○は国によって要らないことがある。



4−3 日本でエンバーマーになるには

 2003年、日本において日本人エンバーマー(エンバーミング技術者)の養成が始まった。
 公益社フューネラルサイエンスカレッジもその一つである。私もそこを卒業した。以下の項目を2年間かけて学ぶ。卒業試験に合格すれば、IFSA(遺体衛生保全協会)認定のエンバーマー資格試験を受ける権利が得られる。

一般教養
 
  • オーラルコミュニケーション…話し言葉におけるコミュニケーションが円滑にかつ効果的に行われるために必要な基礎知識や技術を学ぶ。遺族や葬祭関係者とのやりとりで欠かすことができないコミュニケーション能力を高める。
  • 英会話…日本においてエンバーマーといえば、外国人が圧倒的に多い。外国人エンバーマーから直接学ぶ機会も多く、最低限エンバーミング関係の英語は必要になる。
  • 一般接遇マナー…社会人としての基本姿勢、ビジネスマナー、冠婚葬祭マナー、国際儀礼マナーなど幅広い接遇マナー実習と心得を学ぶ。   
葬祭学
 
  • 葬儀概論…葬送の歴史的変遷、意義、宗教宗派、葬祭に関わる手続きや相談などを学ぶ。
  • 葬儀実務…遺体の搬送、経帷子についての諸知識、納棺を行う際に必要な知識や心構え、技術等の取得。伝統的もしくは宗教的な葬儀・儀式を行う上で、プロとして不可欠な職業倫理観や、顧客に対する接し方などを学ぶ。さらに、顧客の視点に立って、ニーズを引き出し、満足のいくお別れを実現するために必要な知識・技術について学び、さらに、実際の葬儀現場で研修を行う。
  • 葬儀マナー…故人と接する際のマナーや遺族への説明時における葬儀担当者としての心構えや言動について学ぶ。
  • グリーフサポート…人の悲しみの構造を心理学的見地から学び、悲嘆を癒す心理学的技法を考える。
遺体衛生保全
 
  • 医学概論…エンバーミングに必要な人間の死を中心にした基礎医学を学ぶ。
  • 公衆衛生…死後の体の変化やターミナルケア及び感染症について学ぶ。
  • (体表)解剖学…エンバーミングを行う上で不可欠な解剖学について学ぶ。特に体表解剖学を中心に学ぶ。
  • 微生物学…公衆衛生の見地およびエンバーミングの観点から微生物学についての知識を学ぶ。病理学を理解するうえでも不可欠な微生物についての知識・理論を学ぶ。
  • 病理学…エンバーミングを行う上で必要な病理学の知識、特に病気の進行が与えるエンバーミングへの影響を学ぶ。
  • エンバーミング化学…エンバーミングを行う上で不可欠な薬品について化学的な知識を学ぶ。
  • 復元術…修復が必要な遺体のために必要な技術と理論を学ぶ。
  • エンバーミング理論…エンバーミングについてその歴史的な観点から実際にエンバーミングを行う上で、必要な技術と理論について具体的かつ実践的に学ぶ。
  • エンバーミング関係法規…エンバーミングを日本で実施する上で、理解する必要のある法律について学ぶ。
実習
 
  • エンバーミング実習…エンバーミングの実務を実際の現場に出て、エンバーマーの助手として実務に従事することでこれまでに学んできた知識や技術の更なる向上を目指す。
  • 化粧・着付け…エンバーマーに必要な化粧や着付けについての知識・技術を身に付ける。着付けは経帷子だけでなく、神道の白丁やスーツ、着物、チマチョゴリなども学ぶ。
  • 修復術実習…修復術の理論に基づき、その基礎技術の更なる向上を目指す。

 これらを履修したからといって、エンバーマーとして完成するわけではない。2つとして同じ遺体はなく、そのときどきで適切な判断が要求される。故人の状況と遺族の気持ちを察し、少しでも遺族の悲しみを癒す一助となるように、日々向上心をもって、邁進して行かなければならない。
 現在多くの外国人エンバーマーが日本で日本人のエンバーミングを行っているが、全国のエンバーミングセンターで日本人の日本人による日本人のためのエンバーミングが実現する日もそう遠い未来ではない。



*第三章 プラスティネーション

 (この章はプラスティネーションの第一人者グンター・フォン・ハーゲンス氏のホームページを引用もしくは参考にしている。)

 プラスティネーションとは、プラスティック(ポリマー)を解剖標本に浸透させ、耐久性があって手で触れることができるものに変えてしまう方法である。


第1節 歴史

 “plastination”という言葉はギリシャ語のplassein(=形作る、形成する)から来たとされている。しかし、プラスティネーションは、ドイツのグンター・フォン・ハーゲンスが作ったものである。ちなみに、”plastification”はすでに高分子化学分野で固定の意味を持ち、1977/78のオリジナルの特許で使われる。その表現(傷みやすい生物学標本の高分子注入)は覚えにくいため、新しい科学技術、特に海外に広めていくには全く不十分なものだった。
 1990年、全身のプラスティネーションが初めてできた。


第2節 方法

2−1 目的

 プラスティネーションの目的は、医学生及び一般の人にとって人体を視覚的に分かりやすくするためとされている。もともと、医学生は解剖などで皮膚・筋肉・諸臓器などを次々剥離することによって人体に詳しくなる。その考え方にならい、遺体をプラスティネーションによって新しいタイプの標本をつくれば、体が成分まで解剖され、それをあらゆる方向に引き伸ばすこともできるので、隠されたままの構造的関係を明らかにすることも可能になる。人体の立体的構造についての情報を非常に多く伝達できる。そういう点において、プラスティネーションは未処置の解剖標本以上に多くのことを語る。例えば組織の薄い一片で観察者は体の奥深くの最も小さな神経さえもたどることができる。これらのことによって、拡大レンズ、外科用メスやピンセットを使わないで、自然生命体の構造と機能との関係を解明できるようになる。その体は生命の本質を捕らえた生命のレプリカへと変化する。
 また、人間の標本を公的に展示することによって、体全体や器官を見て、肺癌や心臓発作のような病気のプロセスがどのような経路をたどったかを調べることができる。自分の体を軽視する尊大な態度と身体的なもろさを知り、健康意識を高めるきっかけにもなりうる。
 身体的、化学的プロセスが適切に行われれば、たとえ小さくても細胞の微小の束はその原型をくずさない。視覚的に人目を引くプラスティネーションは、体の構造の機能を解明しながら保存した体を展示する理想的な手段だといえる。さらに体全体のみならず、遺体から取り除かれた個々の組織や器官の保存を可能にする。


2−2 方法

 プラスティネーションの理論は、標本を永久的なものにするために、腐敗を止めなくてはならないということ。プラスティネーション処置によって、組織から水分や脂肪を除去し、その代わり高分子化合物を入れることによって、腐敗を進行させるバクテリアを除去する。しかし、化学的特性上、体液を直接高分子化合物に取り替えることはできない。
 そこで、グンター・フォン・ハーゲンスがみつけたこの問題の回避方法とは…

@ 初期の液体交換段階…組織の中の水分(人間の体の約70%から成る)と脂肪組織は、すぐに気化する溶媒であるアセトンに置換される。
A 第二段階…アセトンが高分子溶液に置換。
※これを成就させるための2つの秘訣
   A. 「強制真空注入」
標本を真空部屋に置き、溶媒が沸騰するところまで圧力を下げることによって、組織・細胞の隅々まで置換が促される。隅々まで置換されるためには、薄い一片に2、3日間かかり、体全体は数週間かかる。
  B. 適切な高分子化合物
反応性高分子化合物(光や熱、特定のガスなど、特別な状況の下で保存する高分子化合物)が使われる。粘着力が低く、黄ばまないようなもの。もちろん人間の組織と相性が良いもの。高分子化合物の選択が完成した標本の外観や感触を決定する。
   
  1. エポキシド樹脂(加熱養生により透明になる)
    人体切片を作成するための選択材料
  2. 光重合型ポリエステル樹脂
    脳の切片に使用。
  3. 高分子乳剤(Polymerizing emulsion)
    脂肪組織がもっと自然に見えるように、主に厚い人体切片に適している。
  4. シリコンゴム
    相対的に柔らかく柔軟なままなので、標本を生きているように見せることができる。粘着性が非常に低いシリコンは、臓器系の仕上げに良い。シリコンベースのプロセスは現在40以上もの国で最もよく使われている。

 その他の画期的な方法は、例えばかん流プラスティネーションといって、血液の臓器系を清め適所でそれを修復し、初めはアセトン、次にシリコンを浸透させる。脈管系は空なので、そのプラスティネーションはプラスティックで飽和状態になっているだけであるから、柔軟で軽量。

プラスティネーションのプロセス
プラスティネーションのプロセス


2−3 申し込み方法

 プラスティネーションされた遺体の主用途が展示もしくは閲覧である以上、プラスティネーションへの献体には、本人の意思が尊重される。

◎申込書
 
  • 2人の保証人の立会いのもと2枚の申込書に署名。
  • 保証人も2枚共に署名。
  • 献体者身分証明書に署名。
  • もし家族がプラスティネーションへの献体に反対した場合、弁護士立会いのもと2枚に署名。

    ☆申込書は…
  • 確認書として、2枚のうち1枚の申込書にプラスティネーション会社が連署をして返送される。この連署済申込書を申込者は保管または親戚またはかかりつけの医者に渡す。また身分証明書はラミネート加工され返送される。献体身分証明書はいつも携帯しなければならない。
◎やっぱり止めたくなったら…
 
  • いつでも献体同意を取り下げることができる。
  • 申込者の署名が入った同意を撤回する内容を書いた文書を郵送。
  • 同意を取り下げる理由を書く必要はない。
◎同意書には…
  同意書の中身は次の通り。
 

 保健法の解剖のための贈与統一法の規定により認可されている通り、私は、私の身体を望ましくはプラスティネーションによる解剖学研究と教育のために、プラスティネーション協会(IfP)に提供いたします。教育には学生およびとりわけ一般市民への解剖学的教示を伴わなければならない。私は火葬も土葬も希望しません。私はこの贈与を自由意志で自発的に行います。いかなる臓器被提供者団体からの義務なしに。また私の家族または私自身に対するいかなる報酬も賠償もありません。

 私の死後24時間以内に、私の遺体は、グンター・フォン・ハーゲンスの監督下にある最寄りのエンバーミングセンターに移送されるものとする。私は、グンター・フォン・ハーゲンス監督下にあるエンバーミングセンターへ、私の遺体を移送する際の費用をIfPが支払わないことを了解しています。なぜならこれは、献体申込書が受理された時点では、IfPは死亡場所とエンバーミングセンターまでの距離、もしくは将来のIfPの財政的・組織的なことに関する変動を予見することができないからです。IfPは保証いたします。遺体が世界中の指定されたエンバーミングセンターへ到着した後は、献体者の遺言執行人にかかる費用は一切ありません。

 IfPは、科学部責任者グンター・フォン・ハーゲンスの指導の下、私の身体の利用方法について計画します。私はIfPが私的な機関であることを知っています。この機関の目的は、研究と教育目的のために人体見本のみを使用することです。そしてその人体見本を、大学や病院、博物館といったような教育施設に直接贈与するためです。個人に渡すことはありません。プラスティネーション見本の準備には高額の費用が必要です。それゆえ、私の身体で作られた見本は、IfPの事業に資金を提供されるよう教育機関に販売されることに同意します。購入した教育研究機関への請求書には、以下のような記述を掲載します。『この見本は、プラスティネーションの為にIfPに献体されたものです。提供者に感謝いたします。この見本に対する料金はありません。準備費用のみいただいております。』収入は遺体保管費用と、準備費用、プラスティネーション費用、プラスティネーションの開発のための研究費そしてプラスティネーション博物館を設立するための費用を賄います。

 この同意書は、解剖のための贈与統一法または同等の法律に従って、私によって(または私の指示による他人によって)署名された法律文書であると理解しています。私はいつ何時でもいかなる理由づけなしに、私の身体をプラスティネーションのために使用する同意を撤回することができます。しかしこれは書面によって2人の証人の署名をもってされなければなりません。IfPもまた、プラスティネーションのための身体を授受する同意を撤回する声明を発行することができます。

 ここに署名をし、私は上記に関し理解をし、完全な同意をしたします。

  日付            名前            献体者署名
  日付            名前            証人1署名
  日付            名前            証人2署名
  日付            名前            フォン ハーゲンス(IfP)

書類管理:この贈与が効果的に行われるよう、他の重要書類と共に保管するか、家族、法廷後見人または近しいお友達に預けることをおすすめします。

献体者は健全で18歳以上でなければなりません。この書類は18歳以上の2人の証人の立会のもと署名されなければなりません。

 以上が、同意書に書かれてある内容。自分の体が惜しげもなく展示されるのであるから、これくらいの意思表示は最低限必要であろう。

 その他、次のような質問をIfPから献体者に問うている。

(1)
もし必要なら、あなたの死後に連絡を取ることのできる信頼している親戚や人物がいるか?その人物の名前・住所・連絡先・続柄など。
(2)
よりよい保存のために献体者の医療履歴を閲覧してもよいか。
(3)
献体者のプラスティネーション標本およびその一部が、外国の機関での医療研修のために使用されることを許可するか。
(4)
献体者の身体が、医療研修や訓練のために使用されるのであれば、いかなる目的にも使用されることに同意するか。
(5)
献体者のプラスティネーションされた身体を、一般の人々の医学の啓蒙のために使用され、この目的を達するために一般に展示(例えば博物館など)されることに同意するか。ただし、献体者が誰だかわかるようなものは解剖見本作成中に変わっていく。内部解剖に基づく過程において、顔や身体は新しい外観になるので、プラスティネーション見本はその外見からは身元がわからない−これには複雑な復元技術が必要。
(6)
献体者の身体をプラスティネーションのために提供すること、また私の身体を使用して作成された永久見本は匿名とされることに同意するか。
(7)
プラスティネーション標本、特に全身プラスティネーション標本は、ときには解剖学上の芸術作品と見做される。献体者の身体が解剖学上の芸術作品として使用されることに同意するか。
(8)
一般の人々が献体者のプラスティネーション標本に触れることを許可するか。
(9)
献体者は臓器提供者か。ただし、移植のための臓器提供は、プラスティネーションのための身体提供と両立できる。身体は、一度臓器が取り除かれてもまだプラスティネーションに利用できるので、臓器提供はプラスティネーション提供よりも優先される。
(10)

献体者が自分の身体をプラスティネーションに提供しようと考えた動機は何か。
―選択肢は以下の通り。
□私は私の身体を大義のために提供する
□後世まで永遠に保存されるという考えに興味をもっています
□在来の葬式、たとえば火葬や土葬などは不快に感じる
□プラスティネーションによって、土葬の必要がなくなるので、私の親族は墓参りに行く心配がなくなる
□私が死去した後にお墓を訪れる親族がいない
□葬式代を節約したい
□プラスティネーションの将来性にワクワクする
□一般展示に興味がある



第3節 日本でも見られるプラスティネーション

 最近、日本でも毎年好評で全国で定期的に開催されている「人体の不思議展」。並んでいる人体標本の全てが本物だという。ここにあるのが、「プラストミック標本」。2005年4月2日から5月22日まで京都文化博物館で行われた「人体の不思議展」を取材し、関係者に話を伺うことができた。

★プラストミックのプロセス
 脱水 → 浸透 → 硬化・乾燥
 
  プラストミックとは、プラスティネーションの親戚ともいうべき存在で、防腐の概念や工程もほとんど同じであるが、プラスティネーションは−25℃の環境下で作業されるのに対して、プラストミックは常温で行われる。

★「人体の不思議展」プラトミック標本の作り方
 エンバーミングをした標本は、ホルマリン・水・体液・脂肪などで満ちているという前提で、水分・脂肪を除去して防腐するという概念で行われる。それはアセトン水槽によって行われる。

 @濃度70%アセトン水槽…1週間
 ⇒A濃度80%アセトン水槽…1週間
 ⇒B濃度90%アセトン水槽…1週間
 ⇒C徐々に濃度を100%に近づける
 
  これらの作業を通して、ホルマリン・水・体液・脂肪などを除去する。このように多くの時間をかけて行われる理由は、標本の収縮を避け、原型を保つためである。
 この後、この標本はシリコン(エポキシ・ポリエステル)槽に1日浸けられ、硬化剤の効果が充満された部屋の中で2週間安置される。この間に、標本中水分があったところは、シリコンに置き換わる。この時点でも深部には十分には浸透していない。そこで、真空ポンプで安置場所の気圧を徐々に下げアセトンを急速に気化させ、深部にまでシリコンを浸透させていく。このときも、標本の形が崩れないよう徐々に時間をかけて減圧していく。気圧は4ヘクトパスカルから0ヘクトパスカルへと1ヶ月あまりの時間をかけて下げ続け、水槽中に泡が出なくなるまで浸けておく。
 この時点でも、まだ完全に固まらない。表面のシリコンを軽く叩くようにして拭きとった後、密閉した部屋に入れ珪酸S6のガスを充満させかつ乾燥剤をおく。こうして重合を促進させ乾燥させる。その間数回にわたり、浮き出てくるシリコンを軽く叩くようにして拭き取る。シリコンの場合はガスを使用するが、その他の樹脂の重合を促進させるために光および熱を加える。
 完全に樹脂が固まり乾燥した標本は、水分を全く含まず無臭で容易に取り扱える。

 「人体の不思議展」で展示されている標本は主に中国で造られている。私は、「人体の不思議展」に展示してある脳を見て、中国人の脳は日本人の脳に比べてこんなに小さくて密度の濃いものなのかと、関係者の方に訊いた。すると、プラストミック処置をする過程で、脳だけは原型のままでは残せず縮んでしまう、という。理由は、脳の持つ特異性によると考えられているそうだが、実際の厳密なことは分っていないらしい。
 なかには、驚くべきことに血管の標本がある。しかも、きれいに赤色や青色で着色されて、淡く光っているように美しくみえる。これは、血管のなかに硫酸・珪酸には溶けない薬品をいれ血管のなかをプラスティック様に固定し血管壁及びその周辺の器官は硫酸・珪酸によって溶かす、という手法が用いられる。
 中国でプラストミックをされる場合は赤十字を通じて事前に献体の意志が確認された者のみが標本にされる。



*第四章 クライオニクス

(この章は、アルコー財団のホームページを引用もしくは参考にしている)
 クライオニクスとは、最も短絡的な表現を使えば、人体の冷凍保存のこと。医学が進歩する未来で、再生復活を期待して行われる。アメリカでクライオニクス業界最大手「アルコー財団」のホームページを元に、クライオニクスの世界を垣間見てみたい。アルコー財団はクライオニクスを「従来の医学でもう体を保てなくなった時に、その体が死んでしまうのを防ぐ為に低温で保存する処置法」と定義している。


第1節 アルコーとは

アルコーの宣伝は以下のとおり。(アルコーホームページの日本語訳)

  • アルコー社は、冷凍するかわりに脳のガラス固化を提供する最初で唯一の団体です。
  • アルコー社は、心停止後いつでも可能なときに心肺補助を行う唯一の統合団体です。他のクライオニクス団体は心肺補助は必要ないと主張しています。なぜなら低体温患者は心停止後長期に渡って生き延びることができるからです。これは極めて誤りです。なぜなら、心停止後長期に渡って生き延びることができる低体温患者は、心停止前に低体温になった患者に限られるからです!
  • アルコー社は、低体温の迅速な誘導(心肺補助が可能にできるのです)を施行できる唯一の統合団体です。血流を回復した患者は、循環停止の患者よりも、氷浴によって10倍早く冷却することができます。
  • アルコー社は、脳虚血(脳への血液循環の不十分)から脳を保護するための心肺補助の間に複合薬物投薬を施行することのできる唯一の統合団体です。
  • アルコー社は、閉鎖循環式かん流(心臓手術や臓器凍結保存研究に使用されるのと同じタイプのかん流です)を施行する唯一の団体です。ある団体は閉鎖循環式かん流は時間を長引かせるだけだと主張しています。これは反対です。長いかん流時間は、抗凍結剤をすみずみまで行き渡らせるために必要です。彼らはこれを評価していませんが。
  • アルコー社は、抗凍結剤かん流中に、温度・かん流圧そして抗凍結剤濃度(動脈と静脈中の)を監視し、管理し、記録している唯一の団体です。
  • アルコー社は、高速窒素ガス冷却を使用している唯一の団体です。そうすることで、神経凍結患者を約2時間以内にマイナス80度以下まで冷却できます。他の団体では、この温度まで冷却するのに2日必要とします。これでは、冷却前にかん流時間を短くすることで得ることのできる毒性軽減のメリットを完全に無駄にしてしまいます。
  • アルコー社は、詳細な技術的事例報告書を発行している現存する唯一のクライオニクス団体です。他の大手のクライオニクス団体は、我々の知りうる限り過去30年間、温度やかん流圧や静脈内抗凍結剤濃度などの基本的なパラメーターに関する技術的事例報告書を1冊も発行していません。
  • アルコー社は、液体窒素より温かく管理された温度のもとで保存することによって、凍結患者の破砕を徹底的に取り除く研究プログラムを持った唯一の団体です。他の団体の主張に反して、破砕はガラス固化特有の問題ではありません。事実、クライオニクス患者が冷凍されて、破砕問題が最初に報告されたのは、ガラス固化が発明される何年も前です。
  • アルコー社は、長期間管理と運転資金の相互混和と利害対立を避けるために、患者管理信託を持つ最初の団体です。アルコー社の長期最低額資金調達は、他のどの団体よりも低い想定利率で計算されています。


第2節 方法

2−1 目的

 クライオニクスの目的は、病気の治療法が見つかるまで生命維持される為だとされている。
 2005年の初めでは、アルコーではクライオニクス済みの方が67人安置されている。
 クライオニクスは、もし成功すれば、それは現在治療することが不可能な老化や末期病が治療できるようになる。例えば、足の不自由な人が未来の進歩した医療を受け、マラソン選手になれるかもしれない。そんな願いで、クライオニクスは成立する。


2−2 前提

 今まで冷凍保存されている遺体が氷点下の温度から蘇生したことはない。クライオニクス処置された体は、将来の技術、特に*ナノテクノロジーが発達して復活させることができるようになることを期待して保護される。この技術は一世紀後、もしくはもっと先の将来に実現されるかもしれない。
 クライオニクス処置は心臓が停止した瞬間から始められる。しかしながら、クライオニクスを行う会社はクライオニクスされた人は法的に死亡しているが、生物学的に生存していると考える。
 また、クライオニクスを施すこと自体が法的に問題ないのかどうかも気になる。アルコーは研究目的の為に同一解剖贈与法令(UAGA)やアリゾナ贈与法令の規定の下で施行される、解剖贈与受入公認の非営利組織で、これらは医学学校や神経病学的研究バンク、その他の組織提供の科学的使用を統治する同じ州法である。またいくつかの裁判所では、故人や彼らの親戚が故人の意向を選択する権限を持つという法に基づいて、クライオニクスを選択する権利があるという判決を下している。
*ナノテクノロジー…
分子レベルでの生産や操作を行う新生技術。この概念は1959年にリチャード・ファインマン氏によって提案された。分子ナノテクノロジーの基本理論は1980年代と90年代にエリック・ドレクサー氏やラルフ・マークル氏らによって発展された。ナノテクノロジーの専門家によると、21世紀の中頃から後期にかけて、傷ついた細胞組織の分析と修復に関して驚くべき可能性がもたらせるだろうと考える者が少なくない。これらの可能性には、ある種の基本的情報が無傷のまま残っている損傷であれば、ほとんどの場合、後で細胞組織を修復したり再生したりする方法が含まれている。


2−3 方法

 クライオニクス処置は心臓が停止してから1、2分以内、遅くとも15分以内には始めることが理想的で、遅れれば、脳を安全に保存することが困難になるという。心停止後数分以内に心肺援護、投薬、冷却をはじめる。他の社員が患者を氷づけにし、冷却を早めるために胸部圧迫して、血栓を防ぐためにヘパリンを投与する。遅延は脳内の情報の損失の可能性を増加するだけでなく、その後の抗凍結剤をかん流させにくくし、冷凍損傷をまねく結果となる。
 良い凍結保存を保証する最も良い方法は、危篤状態に陥った時にフェニックス・メトロ地域に移転すること。アルコー社は、フェニックスに拠点を置く大手の定評ある非営利ホスピス組織と提携している。利用できるホスピスサービスは多岐にわたり、必要なケアのレベルによってオプションが選べる。最も自立した患者のための、その多種多様なサービスの1つに、指定集合住宅がある。患者は集中的な交流や、介助や介護施設が必要になる。アルコー社が手配を行う。

★抗凍結剤を使用
 抗凍結剤は小分子で、細胞内部に簡単に浸透し水の氷点を下げる働きがある。グリセロール、エチレングリセロール、ジメチルスルホキシド(DMSO)などがある。クライオニクスでは、抗凍結溶液を患者の脈管を通して投与する。そうすることで抗凍結剤が身体のほとんど全ての細胞に行きわたる。この過程は0℃に近い状態で数時間に渡って行われる。その間に抗凍結溶液の濃度は序々に8モル濃度まで上昇していく。
 組織がゆっくりと冷却されていく時、氷は最初に細胞の間にできる。増殖する氷の結晶によってその周りに残っている溶剤の濃度を高くし、細胞の浸透脱水を引き起こす。もし抗凍結剤が存在すれば、未凍結溶剤の氷点は遅かれ早かれ降下し、形成される氷の合計量は制限される。温度がマイナス40度以下に下がると、まだ残っている未凍結の溶剤の中の抗凍結剤の濃度はとても高くなる。細胞は氷の結晶の間に残っている未凍結溶液の中に漂いながら生き続ける。温度がマイナス100℃以下に降下したとき、細胞を含んだこの未凍結の溶液はガラス固化する。通常の凍結過程では、氷の結晶間の抗凍結剤濃度はとても高くなるので、最終的には氷の増殖はストップする。氷が全く形成されないように抗凍結剤の濃度を最初からとても高い状態で始めれば、ガラス化という現象が起きる。胚、卵子、皮膚、膵臓ランゲルハンス島、血液細胞、血管そしてその他の細胞組織は無事にガラス化に成功している。腎臓全体では、ガラス状溶液で保護されている場合、完全に再生した状態でマイナス50℃まで戻る。
 細胞組織をガラス固化で保存するにしろ、または冷凍で保存するにしろ、細胞は未凍結の抗凍結剤の中にとどまる。この溶液は、ガラス転移温度と呼ばれる温度にまで冷却されると粘性(シロップ状)をどんどん増す。この温度に達すると粘性が急激に高まり、溶液はガラス固化し、全ての分子を所定の位置にロックする。ガラス転移温度は、通常の内臓ガラス化溶液ではほぼマイナス120℃。これ以上の温度でも、薬液の反応はゆっくりと起こる。これ以下の温度だと、分子の並進運動は停止し、化学反応はこれ以上起こらない。生物学的時間は止まる。
 アルコー社では現在、凍結患者を保存するのにマイナス196℃の液体窒素も使用している。液体窒素は安定しており、確実で比較的安価である。液体窒素の欠点は、ガラス転移温度がより低いことだ。
 液体窒素の補給は2、3週間ごとに必要だが、電気は現在の患者ケアシステムには必要ではない。

★神経保存
 脳は小さくて、保存するのに身体全体を保存するよりはお金がかからず、移動させやすく、凍結保存手続きを行うのに完璧に最適な1つの臓器だと考えられている。
 人間の脳を保存するために可能な限り最適の措置を行うことに焦点をあてた凍結保存を「神経保存」という。脳は壊れやすい臓器なので、損傷なしに頭蓋から取り除くことはできない。したがって、倫理的および科学的理由から、脳はその保存と貯蔵がなされるときには頭蓋内に残しておく。実際問題として、頭部は第6頚椎の離断手術を行う。非凍結保存組織は会員の要望にしたがって処理される。
 2005年現在、ガラス固化は神経保存を選択した会員のみ利用できる。全身保存を選択した会員は冷凍されるが、ガラス固化はされない。全身保存するか、神経保存するかは基本的にクライアントに選択権限がある。しかし、もしアルコー社が神経保存した方がよりよい脳保存をもたらすと判断した場合に神経保存を施行する権限をアルコー社に与えるという契約もできる。ほとんどの状況下で、アルコー社はこのような契約がなされた会員には神経保存を実行する。アルコー社は、全身をガラス固化できるような技術を開発し取り入れていきたいとしている。



2−4 息を吹き返す

 息を吹き返す時期は低温保存される時期による。クライオニクスは年々進歩を続けている。2003年の技術の方が、2000年より優れており、2000年の時の技術は1960年の時よりは優れているといわれる。おそらく21世紀半ばにいずれは仮死状態の人間が完成される時が来る、という推測がアルコーではされている。言い換えれば、医療タイムトラベル、スペーストラベル、また他の目的で定期的に人を「オン・オフ」に切り変える事が可能になる。
 「進歩」がキーワードになる。医療・ナノテクノロジーの進歩が人間の生死をも決定づけることに将来なるという観測でこのような処置が行われている。確かに、今日の医療技術の発達は凄まじい。19世紀ではパリに住む30%の人が「肺結核」で亡くなった。しかし今日では先進国のほとんど誰もが「肺結核」が何なのかさえ知らない状況にまで、医療の発達によって改善されている。そのような実態を鑑みれば、21世紀後半までには、老化自体が治療可能となり、医学が分子レベルで人間の体を完全支配し、かつ状況が改善されれば、クライオニクスの処置を受けたクライアントを生き返らせる事ができるようになるやもしれない、という推測がなされても不自然ではない。

しかしながら、アルコー社は必ず効果があるとは言っていない。
★クライオニクスに起こりうる2つの失敗
@クライオニクス処置を施されたクライアントが、生き返るのに必要な医療技術が生まれるまで、十分に長く冷凍保存されないという可能性。
A記憶を充分に保存できないという可能性。

 クライオニクスはあくまで将来の医学の進歩を前提にしているので、このような失敗が懸念される。続けてアルコー社は次のように記している。
 「未来医学の観点から現在の保存方法によって、現在どれほど記憶喪失が引き起こされるのかを述べるのは不可能です。神経生物学の手段を使って凍結保存の効果を評価するための真剣な取り組みが行われるので、近い将来肯定的な答えが見つかるかもしれません。もし肯定的な結果が見つけられなければ、否定的な質問に対する返答には非常に長い時間がかかるでしょう。たとえ凍結保存の間に記憶が失われてしまうことが明らかでも、先進的な手法が利用できるようになるまで、その他の分子情報からそれらを推測し、再構成する可能性を除外することはできません。」

 しかし、もし息を吹き返したならば、冷凍保存の前の記憶が残っているのだろうか。アルコーは、そのような質問にも答えている。短期的な記憶は電気的活動によるものである。しかしながら、長期的記憶は、脳内での永続的な分子と構造的変化に基づいている。冷却、全身麻酔、低酸素症、虚血やその他のいかなる方法で脳が完全に不活性となっても、また再び脳が活動を開始した時には以前に蓄積されている2次的記憶は依然として維持されている、としている。現に、蘇生後の冷却と複合的な薬物を併用することで、犬の通常体温での心停止後さらに16分まで、神経系の欠損なしに回復させることができた。ようやく、猿や猫の脳では、通常体温の循環停止60分後に高圧再かん流術をほどこし、通常の電気的機能が回復させることができた。この結果は後に、脳への血流が止まってから1時間経過した一匹の猫の長期的回復にまで成功した。ただし少し、神経的欠陥は見られた。
 神経細胞再生患者は、クローニングや移植といった原始的な方法によっておこなわれることはないとアルコーでは考えられている。患者自身の細胞が、最初に身体が形成される自然な工程を繰り返すことで、脳の周りに付属する身体を再生するのを促す、といった技術が用いられるかもしれない。未来の技術ではそのようなことも可能になっているのかもしれない。

★動物が蘇生したことはあるのか
 小さな回虫(線虫)やいくつかの昆虫はマイナス100℃以下でも生き延びることができる。しかしながら、科学者たちが未だに多くの個々の臓器を凍結保存することに苦闘していることから、大きな動物が今までに凍結保存され生き返ったことはないのは明らかだ。このようなことが達成されるにはまだ何十年もかかるという。
 蛙、亀やその他の動物達は、0℃より数度下の冷凍温度でも生き延びることができる。これらの動物はある意味冷凍状態にあり、身体の重要な一部分の水分が氷に変化している。しかしながら彼らは本当の意味で凍結保存されていない。氷の結晶間の体液はまだ液体であり、化学反応はゆっくりと起こっており、止まってはいない。この状態は数ヶ月のみ持続することが可能。もしこれらの動物が真の意味での長期間持続させるのに必要な温度まで冷却された場合(たとえばガラス転移温度以下)、かれらは生き延びることはできないだろう。



2−5 クライオニクス費用

 実際の価格はその人の年齢や健康状態によって異なる。アルコーは二つの選択肢がある。体全体の保存には最低限15万ドル。神経保存では最低8万ドル必要になる。またアルコーのメンバーは年会費を払わなければならない。年会費として大人料金は398ドルで、プラス会員保険として年間120ドルで合計518ドルとなる。追加の家族会員は年会費259ドルで会員保険として年間120ドルの合計379ドルとなる。18歳以下は年会費として100ドル。(未成年は会員保険は免除。)
 アメリカ国内の大手保険会社は、クライアントの要求に合った保障をするようアルコー社と協力しているので、生命保険を使うことも可能。ほとんどの人がこの支払い方法をとる。
 また、生涯会員という制度もある。それは、ある金額を支払うと約束をすればそれ以上は、景気の変動に関係なく費用がかからないという制度。退職後も、アルコー社の会員であるために、退職金に手をつける必要がないのが利点。もちろん、凍結保存のための最終費用の支払いのために資金源は維持しておかなければならない。その金額とは2万ドル。分割払いでも可;月々100ドルで20年、年4回285ドルずつで20年間、年間1100ドルで20年間。
 2005年の初めでは、710人以上の会員がクライオニクスの財政的、法的な手続きを完了している。
 アルコー社は全ての会員にIDブレスレットとIDネックレスを支給している。ステンレス製で身分ナンバーと緊急時の指示が彫られている。会員は、医療緊急時や臨床死に備えていかなる時もこれらのアクセサリーを身につけておく必要がある。
 また、アルコークライオニクス停止契約の中のオプションを選択した場合、もし凍結保存が不可能と判明した場合にあなたがどうしたいのか記載できる。(たとえば、もし遺体を回収することができない大災害にまきこまれた場合など − アルコー社は過去に世界貿易センタービルの崩壊で1人の会員をなくした。この時はどの遺体も回収されなかった。)
 選択することができるオプションの1つは、資金調達をクライアント自身の生命保険からであると仮定して、クライアントの第2生命保険受取人を指名すること。クライアントの法的死後、もし保険金第1受取人が適格でないと見なされた場合、第2受取人が保険証書の額面を受け取る。しかしながら、実際はクライオニクス希望者の親戚が、その死をクライオニクス会社に秘密にしておくといったケースも少なくないという。
 一方で、損傷の程度や時間の経過にかかわらず、どんなものであれ生物学的残存物を回復させることに焦点を置いた凍結保存方法を望んでいる者もいる。これはあくまで個人の意思決定による。


2−6 クライオニクスの仕事

 クライオニクスは過去20年間で平均10%の伸びを続けているが、まだまだとても少ない分野。アルコー社ではクライオニクスに直接携わっている様々な会社や組織で社員として雇用されている人は約20人。しかし、もっと多くの人々がクライオニクス関連の科学研究に携わっている。
 クライオニクス分野の仕事に就くことができる可能性のある道は基本的に2つある。医学分野と科学/工学分野。特に救急医療隊員、潅流(かんりゅう)技師、看護婦や医師を含む医療専門家はクライオニクスには貴重な存在で、この分野の専門家は現在のクライオニクス処置において欠かせない。アルコーでは正社員や契約社員としてこれらの専門家たちを様々に組み合わせて雇用している。
 科学者やエンジニアは、クライオニクスの方法を開発し、その正当性を立証し、クライオニクスを施行するための特別な装置を作る。クライオニクスに最も関係のある科学研究分野は、脳の蘇生(クライオニクス患者の最初の処置のより良い方法を開発すること)、臓器凍結保存(長期間保存のより良い方法の開発)、神経科学(保存方法を立証するため)。
 クライオニクスは、一般的に低温度での生命の研究である低温生物学の小さな専門分野。


2−7 死生観とクライオニクス

 キリスト教信者が多いアメリカではクライオニクスはどのように捉えられているのだろうか。
 クライオニクスは生命の尊厳を尊重するキリスト教やその他の宗教の考え方と強く一致すると、アルコーは考えている。有名なキリスト神学者ジョン・ワーウイック・モントゴメリーはクライオニクスについて好意的に書いている。クライオニクスに対して肯定的な説教があり、1969年早期に行われた冷凍保存者の内1名はカトリック神父によって清められた。否定的な意見が述べられることも少なくないが、そのような時はいつでも大体、クライオニクスが生き返りを試みているといった考えによるものがほとんどで、クライオニクスは生命維持の一つのかたちであり、生き返りではないと考えている。


2−8 ペット

 アルコー社では現在のところ、ペットやその他の動物を凍結保存する制度はない。今のところ数匹のペットが凍結保存されているが、これらは凍結保存を希望している会員のペット。飼い主がいない将来にペットだけを送っても何の意味もないという考えからだという。


2−9 所持品保管

 アルコー社の倉庫に所持品を置いてもらうことができる。アルコー社では各会員に1つずつ、カンザス州ハッチンソンの地下金庫・貯蔵庫に貯蔵するための無料の30cm四方の箱を渡している。ほとんどの会員はこの箱に、日記、写真、CDやDVDやその他の個人の大切なものを保管しているという。


最終章 最後に

 ソ連崩壊以来ロシアでは、ボルシェビキ指導者の遺体をどうするかについて論議されてきた。それが2005年に入って現実味を帯び、話題になっている。エンバーミング処置されたソビエト国家の創始者ウラジーミル・レーニンの遺体は1924年に彼が亡くなってから今までレーニン廟で一般公開され、ひとつの観光スポットになっていた。最近、サンクトペテルブルク州のマトビエンコ知事が、墓地に埋葬すべきだと主張。ロシア・カルムイキア共和国のイリュムジノフ大統領はレーニンの遺体を廟とともに同共和国の首都エリスタに移すために100万ドルを出してもいい、と主張。共産党は現状維持を要求。といったように、遺体をめぐる問題が社会問題にまで発展しうるのである。
 人間にとっての遺体は、決して怖いものであってはならない。大切な人とのお別れが安心してできる存在であったり、医学教育に貢献でき健康の大切さを教える存在であったり、まだ見ぬ未来の進歩した医学へ期待を馳せる存在であってもよいのではないだろうか。
 今回、ここに私が触れたエンバーミング・プラスティネーション・クライオニクスに関しては、そのどれもがそれぞれ多くの内容を持ち、それぞれのテーマで何冊も本ができてしまうくらいである。それを承知で、3つのテーマを一つの論文にしようと試みた。あれもこれも書きたいし、伝えたい。しかしながら、いくら時間を費やし、いくら字数を増やしてもそれが充分に適正に伝わるとは限らないと思い、このような世界があると知っていただくだけで、本懐を満たしている。かなり荒削りな内容で、読んでいただいた方には申し訳なく思いつつ、今後続編を書く機会がいただけることを祈りながら、1つ1つ研究を進めていきたい。

〈参考文献〉
『〔図説〕人体博物館』     坂井建雄ほか 筑摩書房
『臨床のための法医学』     佐藤喜宣ほか 朝倉書店
『Embalming:History,Theory&Practice』     RobertG.Mayer Appleton
『Mummy』     James Putnam Eyewitness

http://forensic.iwate-med.ac.jp/lectures/newest/
http://www.koerperwelten.com/
1http://www.univie.ac.at/anatomie2/plastination.html
http://www.alcor.org/
http://www.fukimbara.com/jmb/jmb_f.html

☆多大なるご協力をいただいた方々
 臨床医学オントロジー研究会 安宅克洋 様
 株式会社マクローズ 山道良生 様
 フォーエバー株式会社 山縣篤 様
 褐益社エンバーミングセンターの皆様
 通訳の松岡恭子さん、
    本当にありがとうございました。