【萬物相】朝鮮独立運動を擁護した日本人弁護士
1923年9月1日、関東大震災で廃虚と化した東京に、「朝鮮人が井戸に毒を入れ、日本人を襲撃している」というデマが流れた。日本人らは竹やりを手に、数千人の朝鮮人を虐殺した。そんな中、弁護士の布施辰治は、追われていた朝鮮人留学生たちを自宅にかくまった。そして「警察がデマを流した」と当局に抗議した。3年後の26年、布施は本紙と東亜日報に、「一人の日本人として自責の念を覚える。すべての朝鮮人たちに心から謝罪する」という謝罪文を寄稿した。
布施は1919年、東京で「2・8独立宣言」を発表し逮捕された朝鮮人留学生たちの弁護を担当し、独立運動家たちと縁を結ぶことになった。その後、23年に予定されていた(関東大震災で延期)皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の結婚式場に爆弾を投げる計画を立てた朴烈(パク・ヨル)や、翌年に皇居前で警察官らに爆弾を投げつけたキム・ジソプの弁護も担当した。また、23年には朝鮮総督府の前で、「朝鮮の独立は朝鮮人だけの問題ではなく、世界平和のためになすべきことだ」として、日本の植民地支配を批判した。日本の刑事が制止したが、布施は演説をやめようとしなかった。
26年、布施は東洋拓殖(日本が朝鮮の植民地経営を進めるために設立した会社)に奪われた農地を取り返そうとした、全羅南道羅州の農民たちを支持し、「合法的な詐欺事件だ」と激しく抗議して、朝鮮総督府との交渉を主導した。当局から目の敵にされた布施は、2回にわたって投獄され、弁護士資格も3回はく奪された。布施の活動を支えた息子も獄死した。敗戦後の46年、布施は日本にいた独立運動家たちに「朝鮮建国憲法草案」をプレゼントし、抱き合って涙を流したという。
布施は明治法律学校(現・明治大)に在学中、義兵運動をテーマにした論文『朝鮮独立運動に敬意を表する』を発表し、検察の取り調べを受けた。1903年に検察官になったが、息子を道連れに心中しようとして失敗した母親を殺人未遂罪で起訴した後、「検事はトラやオオカミのように残忍だ」といって辞職した。20年には『自己革命の告白』という文章を発表し、「社会運動に徹する弁護士として生きていく」と宣言した。
53年に他界した布施は、その後長い間存在を忘れられていたが、99年に息子の著書『ある弁護士の一生』を発掘した、「歴史教訓実践運動」のチョン・ジュンヨン代表によってスポットが当てられた。そして2004年、韓国政府は建国勲章(愛族章)を追贈した。日本でも伝記の出版や、記念碑の建立など、布施を偲ぶ活動が繰り広げられた。最近では、日本の弁護士たちと在日韓国人たちが、ドキュメンタリー映画の制作に取り掛かった。大韓弁護士協会もその制作費を支援する方針を打ち出した。同協会は「同じ法律家として、祖国の迫害に遭いながらも、朝鮮独立運動を擁護した布施の精神をたたえる活動に賛同する」と発表した。布施はユダヤ人を助けたドイツ人オスカー・シンドラーよりも献身的な人物だった。これまで、われわれは恩人をたたえるということを、おざなりにしていたのではないだろうか、という反省の念を抱かざるを得ない。
キム・ホンジン論説委員
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