2009-11-16 Carchemishさんへの私信。その2。

Carchemishさんから書き込みをいただいたので、返信を1エントリーにしますです。
Carchemish 2009/11/16 06:01
おはようございます。……って、時差考えるとそちらはまだ真っ昼間ですっけ。
返答ありがとうございますです。前回のコメントですが、私のマズい点が出てしまったみたいですみません。私の捉え方が耳蝉さんの主観からすると必ずしもしっくりいかないどころか、時と場合によっては不快感すら催させかねないということは重々承知しているつもりではあるのですが、ハイになるとどうもその辺の配慮がおろそかになる、というか、どうでも良いものとして投げ捨ててしまう、というか。一昨日の私は本性を明け透けにしてしまっていた。ロクなことにならないので、他人と関わりあうときにはなるべく抑えるようにしているはずなんですが、それだけ耳蝉さんのエントリはパンチが利いていたということではないかと。
ただ、私がウォールストリートだとかラスベガスだとかいったセンセーショナルな部分を「素晴らしい文章だ」と見て取ったわけではないことは分かってください。前回の耳蝉さんの文章から感じられる耳蝉さん像というものは、なんていうか誠実で、そして素直だったと思うんです。こんなチープな表現しか思いつかない自分が歯がゆいのですけども。
今まで耳蝉さんはエントリのなかで、たとえばドリームキラー的な人種に対する非難というか、嫌悪感のようなものをしばしば表沙汰にされてましたよね。正直その手の感情の色合いは見ていて辛かったんです。以前ウォール伝のコメントで私がドン・キホーテを引っ張り出したことがありましたが、耳蝉さんの未来が果たしてどういうものになるのかを思い描くとき、その姿は「風車に突進するようなある種の滑稽で純粋な行動力のあるドン・キホーテ」ではなくて、「病床に臥せって妄執に取り付かれながら徐々に徐々に衰弱していく見るも無残なドン・キホーテ」なのではないかと思えてならなかった。後者のような人間を見つめざるを得ないときほど居た堪れない気持ちになることはありません。今までの耳蝉さんのエントリからは、にじみ出るようなそういった匂いが鼻についていた。しかし先日のエントリはそうではなかった。だから私は「いい文章」だと思ったわけです。「明け方の雲ひとつない空」だとか、「幕が揚がる」だとか。なんだか大げさな言葉を弄してしまっていますけど、概ねあれは正直な感想です。
そして、ドン・キホーテが本当の騎士であるか、それともただの“ごっこ”に過ぎないのかはどうだっていいことです。重要なのはその姿勢であり、語られる言葉であり、一貫性であり、つまり正しさであり美しさなのですから。
数学的な用語については意味が取れているか今ひとつ自信がないのですが、イデアな世界の話についてはもっともな話だと思います。私自身、耳蝉さんや数学者の彼クラスにはとうてい及ばないけれど、そういう抽象的な思考もやれないことはありません。そしてそのような世界の重要性、あるいはそれが魅力的な世界であることも理解しているつもりです。だけど私の生まれ持った“好み”はそこにはない。私は耳蝉さんの区分で言うドクサの世界にいるのだろうし、そもそもそういった(イデア、ドクサという)切り分けそのものに対しても、表面的にならともかく根っこの部分では、肌に合わないものを感じてしまう。ありのままに捉えたい、ありのままに見たいと思ってしまう。根源的にそうであるのか、結果的にそうなったのかは分かりませんが(マァ、前回の書き込みでは「精神的に盲目っていうのは、私の重荷だと思っていたけれど、もしかすると私の基礎に位置づけるべき属性なのかもしれない」などと大言壮語してしまっていますけど(苦笑))、一種の偏執的なまでの拘りがここにはある。
「概念や思考の属性の違い」というとまさしくその通りで、好んで住む位置が違うんだと思うんです。ただし「変わるもの」ではあるかもしれませんが、「変えようとすればいくらでも変えられるもの」であるとは私にはとうてい思えません。何故なら変えようという試みが過去私の内面において幾度も行われたにも関わらず(以前のコメントで少し触れましたが、私の身体的な適性がどちらかというと抽象的思考にあるように思え、そちらに転向しようとして足掻いていた時期があるのです)それが成し遂げられることは一向になかったからです。もちろん、ただ私の意志が弱かったということかもしれません。でも今では私にとって「変えてしまうこと」は「私自身を捨て去ってしまうこと」とほとんど同義になってしまっています。私はあらゆるものの中心としての私を捨てられない、捨てるつもりがないのだから、変わることもまた有り得ません、少なくとも当面のあいだは。
正直この辺りには、言い方が悪いかもしれませんが、耳蝉さんの傲慢さのようなものをいくぶん感じました。いえ、まあ、私の言説が箴言まがいで、意味を取りづらいのがマズかったのだとは思うのですが。そしてまた、傲慢さというのは必ずしも悪徳ではないとも思っているのですが。気を悪くしないで頂けたらと思います。
無論、ありのままに、だとか、正しさだとか美しさだとか、そういった物言いのなかにはいくつもの欺瞞が含まれていることは分かっています。今このときにだって南ダルフールでは凄惨な虐殺が起きているのだし、苦痛にのた打ち回っている人間は星の数ほどいるだろうし、それどころか今私が住んでいる部屋から壁をふたつかみっつ越えたところに、想像を絶するような苦しみが横たわっている可能性もなくはない。反面私は庇護を受けている。家族の連帯や、両親からの金銭的な援助、最先端の医療、国からの補助制度、エトセトラ。もしこのうちひとつでも目の前に広げられれば、あるいはひとつでも取り除かれてしまえば、今のスタンスを貫ける自信がまったくないことを私は白状しなければいけません。私は弱い。生は素晴らしいものだといくら言ってみたところで、そんなものはちょっとしたアクシデントで挫かれてしまうような甘っちょろい意気込みに過ぎないわけです。
でもそのような甘っちょろい美的観念に私はベットしたいと思うし、自分が正しいと思う通りに振舞いたいと考えている。可能な限り。そういう点で、前回の耳蝉さんのエントリような、伸び上がるような態度で書かれた文章というのは励みになるんです。あの文章に貫かれていた独特の調子は、私にとっての正しさを、ありのままにという姿勢を、体言しているように思えるからです。ようするに、前回のコメントの「世の中のあらゆる人々が〜生きていられればいいのにね」という部分は、「世の中すべてが私と同じやり方で生きればいいのに」と言っているも同然であって、実際のところ酷く自分勝手な物言いだったというわけです、はい(苦笑)
ギャツビーが昼メロなのは、まあ一点の曇りも無く昼メロなのでフォローしようが無いしする気もないんですが(笑)、乾いた感じの文体とか、女性陣のある種シニカルな言説とかが私はわりと好きでした。クラシックっていうか、古臭くてお堅い文章が私には性に合うみたいで。あとあんまり文学にストーリーを求めてないっていうのもありますね。もちろん、お話が面白いに越したことはないのですが、それよりも文体だとか登場人物の心情だとか書き手の意図とかを目当てなことが多くて。ただ、三つか四つ前のエントリで耳蝉さんが「数学なんて一般教養で要らなくないか」というようなことをおっしゃってましたけど、あれはまったくその通りだと私も思います。社会常識である政・経・法・商あたりの基礎を除いた高校の教育っていうのは、正直まるまるぶっこ抜いて大学に投げちゃって構わないんじゃないかと。私は高校に実質五年いましたけど、あそこで学ばされたことで役立った知識はほぼ皆無ですから。
とは言うものの、社会適性が高い人間をふるいにかけるための選抜装置として学校が位置づけられてしまっている現状、中々難しいんだとは思いますが。
異性……耳蝉さんがどうなのかは分かりませんが、っていうかたぶん違うんじゃないかと思うのですが、私は異性関係での問題というのを、人間関係の問題と完全に同じではないにせよ、かなり重なる部分があると考えています。興味の持てないやり取りに付き合わされる不快感です。そして、私も性的な欲求みたいなものはそれなりにあるので、変にそちら側に“本能的に向かわされる”ことによって、不快感はより勢いを増すということなのではないかな、と。
いえまぁ、私の場合生理的な問題の割合もかなりあるとは思うんですけどね(苦笑) 他人の体臭が堪えられないとか。声が耳障りだとか。この辺は、なんていうかもう過敏症の域ですね。
ああそれと削除に関してはまったく妥当だと思います(関係者が見たら99%バレますよねアレ)が欲を言えばせめて一言説明が欲しかったです。もし仮に耳蝉さんに精神的な意味での揺り戻しが来ていたとしたら、ようするに持ち上げられたあとに派手に叩き落されてしまうようなことがあったとしたら、私の書き込みっていうのはその「持ち上げ」に幾分加担する性質のものだったわけで、正直かなり青ざめてましたよ、とまぁ、恨み言でした(笑)
では。また来ます。
いや、謝ることは一切無いと思います。むしろCarchemishさんの主観をそのまま説明してもらったほうが変な話、僕のためにもなるというか、変に気を使われるより思ったままのことを書いていただいたほうが客観性が得られるといいますか、僕がどう見えているのか?というのが他者の主観によって分かるので、僕にとってもそれは凄く有益なことであるので、むしろ意見には感謝しています。なので批判だとは捉えていません。
で、センセーショナルな部分ですが、Carchemishさんがそういった表面的なことだけを見て返信をしていないのは理解していますし、返信を見た時にそれは理解をしていました。むしろチープなことを書いていたのは僕のほうで、それが僕の反省でもあったわけです。彼との関係をセンセーショナリズムという意味でとらえ過ぎていて、そこに埋没し過ぎていたわけですね。自分の薄っぺらさとか打算が効いているところとかが自分で見えてきてその醜さに改めて閉口してしまったわけです。それも削除の理由の一つです。
ドンキホーテの話に関してはまさしくその通りで、重要なのはその姿勢ですね。ドンキホーテがダメになったら「病床に臥せって妄執に取り付かれながら徐々に徐々に衰弱していく見るも無残なドン・キホーテ」ですし、ドンキホーテが上手くいったら「風車に突進するようなある種の滑稽で純粋な行動力のあるドン・キホーテ」になりますね。ただプロセスにおいては態度という意味での「ドンキホーテ」というところでは共通していますね。結果とはプロセスによって得られるものですから、プロセスそのものを見ているだけでは結果は分からなかったりもします。
ただまぁ人生って常にそのプロセスの連続なので、その時々の状況や心身状態のみでは全体は判断できませんよね。病んでいるドンキホーテが突進するドンキホーテに見えることもあれば、その逆もありますよね。ただそれはプロセスやその時々によって見え方や一時的な結果やあり方の違いなのであって、根本の「ドンキホーテ」という意味では同じなんですよね。
実際、その葛藤は僕の中で常にありますよね。自分がただの純粋なバカなのか突進するバカなのかどういう種類のバカなのかも分からないし、それは主観では規定できないことですが、そのあり方の正しさといいますか、自分で納得できる根拠の一つに物事との関わり合いというところがありますね。それは僕が人と接している時や、何かをしているときでも、こういった自分の態度を一貫し続けることで割と上手くいっているといいますか、信念に従って動いていればとりあえずオッケーという自分の行動原理がいつでも結果的に良い結果を生み出しているので、世の中ではどうかは分かりませんが、少なくとも僕の中ではこれは黄金律なんですね。それでも「このままじゃダメかもなー」とかって思うこともありますが、この行動原理を失ったら人間的に終わりだと思っているし、自分を捨ててまで人生をやっていこうとは思わないので、まぁどの道いつでも玉砕覚悟という感じですね。
「変えようとすればいくらでも変えられる」というのは僕の失言でしたね。これは僕が常々批判している成功者の法則といいますか、成功者の言動と一緒ですね。僕が成功者というわけではなく、成功者が無責任に「僕はこうやってきた。こうすればみんな変われるし成功できる」と言うのは下手をすればまさしく傲慢ですよね。自分では薄々他者との違いを理解しているのにも関わらず、その他者とは違う自分の行動原理や信条などを成功のアーキタイプとして提供するのは無責任ですよね。僕が前に茂木さんを批判したエントリーで書いたことと一緒ですね。ああいうのは茂木さんだからできるんであって普通の人には無理だと言うのが、今回の「概念や思考の属性の違い」にも言えるというわけですね。普通の人と言う言い方は悪い言い方ですが、やはり普通の人にはできないことってありますよね。そこを理解せずに謙虚に「自分は特別な人間じゃない」と言いながら何かを言うのは傲慢にもなりかねません。もしくは理解してるのに理解していないというか、自分も普通の人間であるフリをするのは悪い印象を与えかねませんよね。金持ちが「そこまでリッチでもないですよ」と言うのと一緒ですね。「いやーそれほどでも」という謙遜が傲慢な態度に見えるということですね。今回のことで言えばまさしく僕がそうだったわけですね。
そういう意味で今回の彼との出会いは大きなターニングポイントであったと思います。僕もやはり本当に普通ではないんだというのが良く分かったといいますか、それは自分が偉大であるとか知的に特権的であるということを意味するのではなく、ただ単に思考や頭の構造の違いを完全に理解できたと言うわけですね。知性では彼には到底及びませんが、ただ似たような属性を彼に感じるということはまぁつまりはそういうことですね。
そもそも思考というのは状況や時間や身体状況など様々なものが混在して確立されているものなので、その諸構成要素が変わったら思考も変わるかもしれないという蓋然性はある意味で当然だと思います。僕が今こういう風に思えるのも今の状況があるからなのであって、違う状況にいればこうは思えないし、信念を貫くなんてことも言えなくなるかもしれません。ただ逆説的に言ってしまえばその信念を貫けなくなるような状況というのに陥ってしまって、それでそこから一生抜け出せないと分かったらそんな生に価値があるとは思えないので、僕はそこから降りるということですね。信念とか自分の行動原理と生とかがまぁ直結しているわけですね。なので信念や行動原理を貫けなくなるというのは生きていられなくなるということと同意義です。で、これは構造的な問題なので、弱さとは違うと思うんですね。構造の中で生み出される信念や行動原理があり、その諸構成要素が変わると思考や行動の属性なども変わる可能性がある。そこにawarenessをいかに払うか?ということがソクラテス的な吟味なんだと思います。
吟味が無い人生など生きる価値が無いというのがそのまま僕の人生にも当てはまります。なのでまぁ僕はかっこよく言ってしまえばソクラテス的な信念を持つドンキホーテというわけですね。あまりに行動原理や思考がナイーヴ過ぎるが故にいつでも崩れさる可能性がある。ただまぁこういった生き方しかできないというのが僕なので、かっこよさとかは全然関係無いですね。まぁただの事実といいますか、あとはまぁそういった生き方ができないということがただひたすら苦痛であるように思えるので、まぁ消去法でも能動的に選択するという意味でも、こういう生き方をするしかないわけです。だからまぁ変に器用じゃないのが逆にアドバンテージになることもあるわけですね。これしかないということでこれをやるしかないので他にやれることがないのでその分、下手に無駄なエネルギーを無駄なことに費やすことが無いわけですね。これは僕の行動原理とかあり方とか思考そのものと直結しているダイナミズムです。
力学的に見ても構造的に無駄が無いわけですね。エネルギーのほぼ全てを有用なことに費やすことができる。これがあるからこそソクラテス的ドンキホーテのような行動原理が可能になっているわけですし、ソクラテス的ドンキホーテのような行動原理がこのダイナミズムを保っている諸要素の一つでもあるわけです。ようは全てがパッチのような形で繋がって行動とか僕の人生とか思考という形で出力されているわけですね。その全てが僕であるし、数学で言えばまぁ集合ですね。その中からまた補集合などに分けられることもできますが、基本的には全部で一つというわけです。全ての部分はそれの全体であるというのはプラトンが言っていたことと一緒です。
で、この構造は彼と会う前も後も全然変わってないということですね。まぁたまたま偶然彼と出会ったことがターニングポイントに見えるだけで全体から見ればそれもまたただの一部であるに過ぎません。なので僕が自分で揚げた幕はまだそのまま揚がり続けているわけで、劇は終わっていないわけですね。センセーショナルな出会いということで一時的に色々と舞い上がっていましたが、冷静になって考えてみると舞い上がるようなことでもないわけですね。もちろん彼との出会いは素晴らしいものですが、だからといってそれによって全てが上手く行くというわけではなくて、あくまで軸は自分にあるということですねってまぁ前に書いたことと同じようなこと書いてますね。
で、いきなりギャツビーの話になりますが、やっぱあれは昼メロですよねー。舞台を日本に変えて日本の俳優を起用してやればそのまま昼メロになりますね、で、一般教育なんですけどね、それには全く同意しますね。数学なんて中学レベルぐらいで十分だと思います。ただその一方で僕みたいに嫌でも取らなければいけないという機会があることで面白さに目覚めるということもあるので、一概に否定はできないのですが、僕の場合はまぁ特別でしょうね。それは別に特権的ということではなく、まぁ特殊な例であるということですね。集合論とかに異様な興味を示すというのは哲学に異様な興味を示すのと同じことで、まぁ普通ではないですよね。ただその一方で哲学や数学といいますか、特にロジックを学ぶことで得られるものは多いとは思いますが、それは人によるので全ての人に適応できるかは分かりませんよね。必要なのは教育パッケージですね。それを与えれば誰でも自ずと何かが身に付くというような、まぁ適当な言い方ですが、無駄にならない教育の方法ってあると思いますね。一般教養がつまらないのは教師や教育システムによるところも大きいと思うんですね。リベラルアーツという概念はそのままでシステムや構成要素を変えればそれが化ける可能性もあります。日本の場合、リベラルアーツが特に最低なものと成り下がっていますね。受験文化がその典型です。あれはただの学問のコラプションですね。あんなシステムの中で何かを学べるわけがありません。まともな人間ならみんなやめるでしょうね。僕みたいに。あんなものに追従してしまう因子をガンガン生産し続けているという現状が現代のシステム化された奴隷制そのものに思えますね。
むしろそういった選抜装置からこぼれ落ちるような不確定要素にこそ可能性があると思いますね。大体まぁ偉業を成し遂げてきたのってそういう特異点的な不確定要素ですからね。教育が奴隷育成システムに成り果てているという話は死ぬほどウォール伝で書いたので省略させてもらいますね。
異性に関してですが、そもそもあんまり他者に興味を持てないというのが僕の根本的な問題かもしれませんね。で、しかも物理的な性欲が無いので、だからまぁ女性と付き合う理由が全く無いわけですね。人間関係と重なる部分が多いというのには本当に共感できます。「可愛いから」という理由だけで興味の持てないやり取りに付き合わされるだとか機会費用を払わなければいけないとか、なかなかのエネルギーの浪費っぷりですよね。ただまぁ発情期の動物がメスに飛びつくように、常にそうやって異性に飛びついているというのが人生の一つなのであれば、それはそれでハッピーなのかもしれませんね。少なくとも飛びついてる間はハッピーなので、波はあれどそれが永遠と続けばまぁそれなりに楽しい人生なのかもしれませんね。僕は全く興味は無いですが、楽しそうにしている男女を見るとあれはあれでまぁ特に意味が無くてもいいんじゃないかなー?って思えたりしますね。
削除に関してですが、本当にそうですよね。で、説明なんですが、今はまだ説明できないという理由も含めてまた後日説明するというメタ説明みたいなのが来週行われる予定という前提で消したのでご了承ください。そういった説明をしますということを説明しますということをもっと詳しく具体的に書くべきでしたね。本当にすみませんでした!
ただトピックがセンシティヴなのと匿名足り得ないという理由でその説明すらも無くすべきか?というか、とにかくウォール伝上では無かったことにしようか?とかも思ったりしています。書き込みをしてくださった方々とかブックマークをもらった方々には本当に申し訳ないんですが、まぁこれがあれですね、僕が舞い上がって勢いで書いてしまったということですね。
なので今の場合、僕がただ数学者に出会ったというだけですよね。具体的な事柄がどうとかそういうのは一切無しっていう、まぁそういうことでいいんじゃないかと思っています。下手に説明をすればするほど彼のことを説明してしまうことになってしまうので、曖昧でもとりあえず無かったことにするのがベストかな?って思ったりしています。エントリーに対して本当に無責任で申し訳ないんですけどね。「持ち上げ」に関しては全くその通りです。そういった意味でその持ち上げに加担させてしまうことにもなったかもしれない!という意味でも僕も青ざめていました。なんというか・・・本当に申し訳なかったとしか言いようが無いです。舞い上がってしまった自分が本当に軽率だったと反省しています。
えーと、弁解めいていて申し訳ないのですが、私の公的なスタンスは『>>ドン・キホーテが本当の騎士であるか、それともただの“ごっこ”に過ぎないのかはどうだっていいことです。重要なのはその姿勢であり、語られる言葉であり、一貫性であり、つまり正しさであり美しさなのですから』この部分がすべてです。その他はすべて私の好みの問題になります。耳蝉さんのこういった態度は好みで、こういった態度は性に合わないというだけの話です。ドリームキラーや市井の人や日本や社会システムに憎悪を傾けている姿は好きではない。そういった耳蝉さんは「病症に臥せって〜」のドン・キホーテ。反面、数学者の彼について明け透けに語っていた姿は素晴らしかったと思う。このときの耳蝉さんは「風車に突進する〜」のドン・キホーテです。ドン・キホーテというのが耳蝉さんに通底する信念のシンボルだというのはそうなのですが、そのドン・キホーテに掛かった形容のそれぞれは、「耳蝉さんがどうなのか」という話ではなく、「私から見た場合はどう見えるか」というのを表している……うわああ、なんでこんなシッチャカメッチャカな構図になってるんだろう。
で、にも関わらず、前々回「>>華やかだけど移り気なあだ花に過ぎないんじゃないか」こういうこと書いてる。これじゃ「ドン・キホーテが本当の騎士である=社会的に意味のある存在として認められる」という点を価値として見ていると思われても仕方ないですね。すみません、そういうつもりはなかったんです。……といっても、文章というのは本人が意識的に思っている以上のことを簡単にあからさまにしてしまうものなんだから、これもまた私の本音の一部分なのでしょうけれど。猛省。
それで、改めて思うこととしては、やっぱり私と耳蝉さんでは根本的にタイプが違うんだなあということです。私が前回耳蝉さんのことを「傲慢だ」と言ったのは、耳蝉さんがタイプの違う人間をぞんざいに扱っているように思えたからです。つまり、「誰だってなろうと思えばこういうふうになれるんだ」と面と向かって言うのは、確かに「そのようになれない人間」に対して傲慢かもしれませんが、それ以上に、「それ以外のありようを目指している人間」に対して傲慢なのではないかと思ったのです。耳蝉さんの喩えを借りれば、「金がすべてだ!」という態度は、他のあらゆる価値判断基準を不当に軽視するものではないでしょうか。もちろんこのような態度には良い面もあって、耳蝉さんはその良い面を最大限引き出していると思います。ですが、私の受けた印象は、「傲慢だ」というものでした。
耳蝉さんが耳蝉さんなりの信念に基づいて生きるように、私にも私なりの生き方があります(おそらく他のあらゆる人々も同じように)。あんまりこういうラベリングをするのは好きではないけれど、耳蝉さんをソクラテス的な知の探究者だとするなら、私はたぶん、モラリスト的な人種なのだと思います。
おそらく今回の食い違いは、そもそも私の説明がヘタだというのと、それから以前の書き込みはADHDやアスペルガーといったわりとリアルというか、肉体的な話だったのが、今回急に精神性の話に飛んだ(というか私が勝手に飛ばした)ためではないかと推測します。さらに言うなら、私が「アスペルガー症候群かっこADHD傾向」であるというのが話をよりいっそう錯綜させてますね、こりゃ。ADHD的な傾向性で言えば、私は耳蝉さんの言う「普通の人」と耳蝉さんの中間にいるわけで、第五段落の耳蝉さんの分析もその意味では正しいんですよね。
うーん……なんかほんとこれ、ただの弁解だなあ。