私には大きな計画があります。計画の内容は段階的に公開していきますが、計画を実行に移す前に、皆さんに公開しておかなくてはならないことがあります。それは信仰に至った経緯であり、今日はこのことについて記したいと思います。
最初になぜ、個人的な経緯を公開しなくてはならないのかという疑問にお答えします。それは私が、キリスト教が極めて科学的であると考えるに至ったからです。もちろん宗教ですから「霊的エネルギー」も受け入れています。それでも、キリスト教には科学的に証明できる教えがたくさんあります。このブログではその一つを明らかにしたいと思います。
7月12日の日曜日のことでした。私は召されるかの様に教会に足を運んでいました。教会は米軍横田基地に隣接する横田インターナショナル クリスチャン アッセンブリー(Yokota ICA)です。プロテスタントのメソジスト、ペンテコス派(Pentecostalism)の(Assembly of God)教会です。
教会で一人のクリスチャンC氏とお会いしました。C氏は私の「身の上話」を丁寧に聞いてくださり、このように話されました。
「人間には3つの脳があります。本能の脳、感情の脳、理性の脳です。あなたは今、感情の脳が怒り、恨みで満杯の状態です。このままでは、前向きで正しい行いを生み出す理性の脳には進めません。感情の脳を空っぽにしなさい。礼拝が終わった後の礼拝堂で、一人で怒りや恨みを大声で叫びなさい。礼拝堂内のドラムスや物をたたいてもいい、すべての悪い感情を発散しなさい。そうすれば・・・覆っている雲の上を見ることができます。覆っている雲が取り除かれるわけではありませんが、必ず(理性の脳に進む)効果が表れます。怒り、恨んでいる者の名前を出して叫んでもかまいません。全部出し切りなさい。」
私は叫び回りました。ティッシュの箱を床に投げつけ、イスをたたき、全身全霊を注いで怒りと恨みの念を礼拝堂にぶつけました。
「(サンクチュアリ出版の)○○、裏切り者!金の亡者め!」
「読売新聞の○○は人間のクズだ!」
「ネットで私を苦しめる奴らはテロリストだ!」
「なんで、私が世間から白い目で見られなくてはいけないんだ、私はやましいことはなにもしていない!」
「私は本気で社会貢献に金を費やすつもりだった。なんで分かってもらえない、バカヤロー!」
15分くらい経ったころでしょうか。次第に何かが変わってきました。私の頭に今まで考えてもいなかった「一言」が飛び込んできました。
それは「哲らせる(悟らせる)」という言葉です。
「そうだ、私を苦しめている人たちを悟らせればいいんだ」という気持ちに変わったのです。
私は、C氏に気持ちが変わったことを告げました。雲の上に立てたような気持になったと話しました。C氏は満面の笑みを持って喜び、私に、キリスト教の入門書のような冊子をくださいました。
そして、このような話をされました。
「感情のぶつかり合いでは何事もうまくいきません。ドメスティックバイオレンスに悩むご夫妻が、同じ方法で不満を発散したところ、お二人は手をつないで帰られたこともあります。」
私は、翌13日の朝、やはり導かれるように秩父の山中にいました。そして、いただいた冊子パワー・フォー・リビングを静かに読んでいきました。すると以下の聖書の言葉に出会いました。
恐れるな。わたしがついている。取り乱すな。わたしはお前の神だ。私はおまえを力づけ、おまえを助け、勝利の右手でしっかりと支える。
イザイヤ41章10節
「羊が泥穴に落ちたら、出してもらおうと鳴く。豚が泥穴に落ちたら、泥の中で転げまわるだけだ。」
チャールズ・アレン パワー・フォー・リビングより
私は、私に襲いかかる見えぬ敵や経済苦に怯え苦しみ、豚のように泥の中を転げまわっていたのです。暗黒の下降気流の中で、地上にたたきつけられる恐怖に恐れおののいていたのです。
そして、このように書かれているページにたどりつきました。
「神様、私は今まで自分自身のやり方で人生を生きてきました。今、私はあなたの方法で生きていきたいのです。私にはあなたが必要です。今、人生の支配権を喜んで明け渡します。あなたの御子(みこ、子ども)であるイエス・キリストを私の救い主として、私の主(しゅ)として受け入れます。」
私は、「自分流」のやり方で人生を生きてきたために、成功を手にすることはありませんでした。そして、前述のような人生最大の試練が与えられました。
私には神が必要である、人生の支配権を喜んで明け渡したい、私は心の底からそう思いました。そう思うと、目の前に広がる大自然が美しく、そしてとても頼もしく思えてきました。今から思うと神が創造されたものであったからでしょう。
以上が、私がクリスチャンになった経緯です。キリスト教とは、「いかに人を許すか」の宗教と言えます。聖書は「490回、相手を許しなさい。」と教えていますが、悔い改めた私も、私を苦しめたすべての人を許しているのは言うまでもありません。(キリスト教徒の使命としての「背後にいるサタンとの戦い」は続きます。)
9月6日には正式に洗礼を受け、「証明された」クリスチャンになることができました。長兄であるイエス・キリストをはじめ、全世界20億のクリスチャンが私の兄弟姉妹になってくれたのです。こんな私のために祈りをささげてくれたのです。こんなにうれしいこの日のことは、決して一生忘れないでしょう。
さて、私に覆っていた雲は、礼拝堂で感情の脳を空っぽにしてからすぐに晴れました。今から考えると覆っていた黒い雲は、「自分の心(感情)がつくり出した黒い雲」だったのです。自分の心が変われば自分がつくり出した雲は消え去るということは、実に理にかなっていると私は考えます。
礼拝堂で感情の脳を空っぽにしてから4ヶ月後の11月14日の東京新聞に、芸術企画「不平の合唱団」の活動を紹介する記事が掲載されていました。文字通り、「大声で不満を歌う♪」のだそうです。
「大声で不平を叫び、負のエネルギーを前向きなエネルギーに変える」のが目的だそうです。
賢明な皆さんは、私が何を言いたいかもうお分かりでしょう。私の体験と同じなのです。感情の脳(日本では「情動脳」と呼ぶ」から理性の脳へ進むには、感情の脳に溜まっている負のエネルギーを放出することが有効であるということを。
「うっぷんを晴らす」という言葉がありますが、私たち人間はみな、感情の脳に溜まっている「うっぷん」を相手にぶつけても、決して「晴れない」ようにできているのです。覆っている「黒い雲」を晴らすのも自分の心の変化であるように、「うっぷん」を晴らすことができるのも自分の心の変化だけなのです。
そして、「うっぷんを晴らす」唯一の方法は、私憤(公憤の反語で「個人的な憤り」)を消滅させるために「相手を無条件に許す」ことです。これ以外の方法はありません。
その上で、公憤(公の正義をものさしにした憤り)を表する「不平の合唱団」のようなデモ(demonstration、抗議や要求の主張を掲げて集会や行進を行い、団結の威力を示すこと 大辞泉)に参加するしかないのです。
(この「不平の合唱団」では、「すべての就活者に内定をください」と叫ぶなど、私的な不平ではなく公憤を叫ぶ人が多かったようです。この行動は香山リカ氏の著書「悪いのは私ではない症候群」の内容と180度異なると考えますが、皆さんはどう思われますか)
「不平の合唱団」で検索すると画像も見られます。
今日は、私の信仰について記しました。弱肉強食の競争社会に別れを告げ、友愛溢れる社会づくりを選択した私たち日本国民は、今後、人を紳士淑女にする理性の脳に、誰もが「移行」しなくてはなりません。
キリスト教には、確かに「霊的」で理解しづらいところもあります。しかしながら、20億人が信仰している宗教を「何も知らない」では済まないのです。ディズニークリスマス・キャロルで示されたように「無知」では人に迷惑をかけるだけです。
私の提供する「情報」が、「無知」からの脱出の一助になれば幸いです。