眠い人の戯れ言垂れ流しブログ

アクセスカウンタ

help リーダーに追加 RSS 日本の声

<<   作成日時 : 2008/05/24 21:28   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 2

画像

蒙疆地区から西北地区への日本の工作が失敗に終わった時期に、日本は南進政策へと舵を切ります。
そうなると、東南アジアに多くいるムスリムに対する宣撫工作が重要となってきます。

この時期に国内外のムスリムにとって重大な関心事だったのは、日本政府がイスラームを正規の宗教団体として認めるか否かと言う事でした。
1939年4月に、日本の宗教団体を政府のコントロール下に置く法律として公布された宗教団体法では、他の新興宗教団体と共に、宗教団体として必要な要件(教会数50、信徒数5,000)に達していないイスラームは正規の宗教団体とは認められませんでした。
この為、大日本回教教会が奔走した結果、1942年に興亜宗教同盟が結成された時には無事、イスラームもその中に入ることが出来ました。
東京モスクを日本イスラームのハードの象徴とすれば、回教公認問題はソフトな象徴であると見做すことが出来ます。

また、西北工作と並行した形になりますが、日本人ムスリムを育成する試みも参謀本部などがスポンサーになって行われていました。
そのうち、他のムスリムにも効果があるのは、ムスリムにしか入学が許されていないEgyptのal-Azhar大学に留学したり、Mecca巡礼に赴いて、ハッジの称号を得ることです。
ハッジの称号を得た最初の日本人は、1909年に巡礼に赴いた山岡光太郎ですが、この頃の巡礼者は何れも何らかのスポンサーを得て巡礼を行っています。
太平洋戦争時、Javaに派遣された鈴木剛は1934年(または1935年)を皮切りに3回巡礼していますが、このスポンサーは財閥、軍、南満州鉄道の後援でした。
また、Sulawesiに派遣された小林哲夫は、陸軍参謀本部の後援で1936年からal-Azhar大学に学び、1937年、1939年、1940年にMecca巡礼を果たしていますし、Burmaでの対ムスリム工作を行った菅葦信正も、al-Azhar大学に留学すると共に、1939年にMecca巡礼を果たしました。

こうした南方工作は、1930年代末から実施されており、1939年11月には、東京と大阪に於て、回教圏展覧会と言う催し物が開催されると共に、日本側が全面的に費用を負担して、蘭印を始めとした各イスラーム圏の代表者を招いた「世界最初」のイスラーム世界会議を開いていたりします。

とは言え、その研究は未だ緒に就いたばかりであり、先述の鈴木剛、菅葦信正らや、日本に滞在していたムスリムのクルバンガリーやイブラヒムなどが参謀本部第2部8課に出入りして策を練っていました。

この結果1941年3月に作られた『南方作戦ニ於ケル占領地要綱案』では、宗教尊重の方針が明確に打ち出されることになりました。
ただ、彼等を尊重すると言うものではなく、彼等の宗教に干渉してトラブルを起こさない様に周知徹底を求めただけで、住民宣撫には程遠い内容でした。

その後、1942年3月14日に定められた「占領地軍政処理要綱」ではもう少しマシになっており、既存宗教を尊重すると共に、イスラームを積極活用し、日本の宗教は進出させないとしています。
ただ、その活用は民心掌握の為の方策であり、国策の遂行を妨げない限りと言う前提がつけられていました。

因みに、その方針は対象宗教によって多少のブレが生じています。
イスラームはキリスト教文明に抵抗するものとして、最も寛容な政策が採られ、民心掌握でも最も有効に利用されていました。
尤も、日本人から見るとその価値観が異質である分だけ、意識的に政策関与したものと言う見方もあります。

仏教についても、日本と文化的にシェアするものとして寛大な政策が採られましたが、小乗仏教と大乗仏教の違いを理解しない無意識の干渉は有ったりした訳で。

また、キリスト教については、基本的に敵性宗教でした。
ただ、ローマカトリックについては、バチカンを中心に全世界が一つのヒエラルキーの元で固く結ばれているとして、もし、それに対する迫害乃至干渉を行えば、法王庁以下に波紋を生じる事になり、取り扱いに注意を要するとして、比較的寛容な政策を採っていました。
一方で、プロテスタントについては、「敵性発揮の事実も遙かに熾烈」として危険視し、1943年8月16日に「基督教新教諸教会取締準則」を定め、教会主管者の選任に注意する様に通牒が出されていました。

ところで、イスラーム世界に日本の宗教を進出させないとしていましたが、それも現地機関の方針によってブレる事があります。
例えば、昭南(Singapore)では、南方総軍によって1942年12月に、昭南神社が造営されましたが、この時の言い訳は、「所謂宗教政策以上に超然たる所」(つまり、神道は宗教を超えたものである)として、その建立を正当化しており、現地人には参拝を強制させないと言う立場が採られていますが、1944年5月に作成された馬来軍政監部文教科報告書では、各種学校の修身教育に宗教教育を採り入れ、昭南神社や忠霊堂参拝を実習させるべきであるとの方針が表明されていました。

日本軍の敗色が濃くなってくると、現地宗教を尊重する余裕が無くなってきたのでしょうか。

設定テーマ

関連テーマ 一覧

月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
 以前,中国で軍属として住民宣撫に当たっていた方の本を読んだのですが,戦局に余裕がなくなると,もう宣撫どころではなく収奪しまくりだったそうですから.
消印所沢
2008/05/26 22:51
基本的に、人の相手をするのは、衣食足りて礼節を知ると言う言葉にもある様に、衣と食が最低限必要ですから。
それが余裕が無くなれば、人を構う気すらありませんわな。
眠い人
2008/05/26 23:13

コメントする help

ニックネーム
本 文