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今日のブログは長いよ! 覚悟してね! 『英語青年』という、英語学・言語学・英米文学・英語教育など、英語関係の学問をひっくるめて扱っている雑誌がありまして。「青年」という名前ではありますが、実は明治31年の創刊、総号1920号、110年もの歴史と伝統のある雑誌で、相当な「老年」ではあります。 ちなみに、この雑誌、我が釈迦楽家では祖父の時代から何十年にも亙って講読し続けており、それをすべて私が引き継いでいるので、実家の私の書棚のかなりの部分はこの雑誌を製本したもので占められております。私にとってはそれほど大事な雑誌、ということになりましょう。 で、その伝統ある雑誌が、来月に刊行される2009年3月号をもって休刊になる、と。ま、出版元は「今後はWeb雑誌として継続する」と言っていますが、110年もの間、紙媒体の雑誌として刊行され続けていたものが無くなるとなれば、それは休刊というより、事実上の廃刊でしょう。 110年の伝統を持つ雑誌が廃刊になる。100年を越す伝統を持つ雑誌など、この国には幾つもないと言うのに。 で、実際、先月末に朝日新聞にこの雑誌の休刊が報じられた時、私も相当ショックを受けまして、すぐに所属学会の恩師や先輩、同僚、友人たちにメールを出し、何か休刊阻止のための行動を起こせないかと思ったのですが、意外なことに、私が相談したどの方も、この件に関して割とクールな受け止め方をされていることが分かった。 つまり、この雑誌の休刊は起こるべくして起こったことであって、それが時代の流れであり、また出版元が既に休刊を決めている以上、外部の人間が干渉できるものではない。と、まあ、そういうご意見の方がほとんどだったんですな。 うーん・・・。そ・う・で・す・か・・・。みんな、案外冷たいねえ。皆さん、この雑誌と共に、この雑誌と並走しながら、英語関係の先生になってきたんじゃなかったの? ま、この雑誌の恩恵を受けてきたはずの英語関係研究者の皆さんが、「あれはもうダメ」と思っているのであれば、もうダメなんでしょうな。 で、そうこうしている間に、つい先日、この雑誌の「2月号」が出版された、と。これはつまり最後から2番目の号でありまして、そこには来月号すなわち最終号の予告が書いてある。 で、それを見ていささかガッカリ。そこには何も書いてなかったんです。つまり、来月号が110年の歴史の幕を閉じる特別な号であることを伺わせるような特集っぽいものが何もなかった・・・。 ひゃー! 研究者だけではなく、出版元自体、この雑誌に対してやけに冷たいですな・・・。平然と、何ごとでもないかのように、幕を閉じるというわけか・・・。 いや〜。私としては、緊急特集でもいいから、何かやって欲しかったなあ。英語関係の主だった研究者たちにインタヴューするなど、『英語青年』110年の歴史を跡づけることをして欲しかった。「『英語青年』とわたし」的な緊急大特集でも組んで、せめてこの偉大なる雑誌の最後を華々しくして欲しかった。 だって、110年続いた雑誌が今、終わろうとしているんですよ! 巨木が倒れるんですよ! 110年の歴史を持つ雑誌をこれから作ろうとしたら、この先110年間かかるんですよ! 大体、本当にこの雑誌、休刊(=廃刊)を避けられなかったのかしら。そこが、私としてはいま一つ、納得できないんだよなあ。 現状『英語青年』はB5版で本文64ページ。これに12ページほどの広告がつきますが、それでも76ページ。薄い雑誌ではあります。で、その薄い雑誌にして「1200円」という値段は、果たして適正なものといえるのか。私の周囲でも、「『英語青年』、薄い割に高いよね・・・」という声は随分前から聞こえていました。 もちろんもう少し安くすれば売り上げが劇的にアップするだろう、などと短絡的なことを言うつもりはありません。ありませんが、しかし、たとえば雑誌の紙質を2段階か3段階ほど下げ、製本方法を今より簡略化し、表紙も2色擦りにするとか、さらに論文や記事の筆者に対する原稿料をぐっと下げるなどして雑誌の製造コストを下げると同時に、もう少し沢山の(異業種も含めた)広告をとってきて雑誌の値段を1000円未満に、できれば700円台くらいに下げることはできなかったのか。 で、その一方、雑誌の内容ももう少し考える、と。 もともと『英語青年』という雑誌は、ジャパン・タイムズが創刊に関わっていたことからも分かるように、英語を勉強したい人のための雑誌だったんですな。その伝統はその後もずっと残り、後に英米文学の研究や紹介のための雑誌に変わっていく中でも、たとえば「英文和訳」や「和文英訳」のコツなどを伝授するコーナーが引き継がれたりしていた。私も大学院を受験する時には、山田和男さんという和文英訳の鬼みたいな人が担当していた時代のこのコーナーを使って英作文の修行をしましたもん。 で、だからこそ、この雑誌は日本中の中学・高校の英語の先生も購入したんですな。そういう先生たちにとって参考になることが書いてありましたからね。 しかし、その後1980年代くらいからかなあ、この雑誌がどんどん専門性を高めて行ったのは。1990年代になったら、もう中学・高校の先生が読むところはほとんど無くなってしまって、大学の英語関係研究者プロパーの雑誌になってしまった。つまり、読者が急激に狭まって行ったんです。 でも、1980年代の頃はまだよかった。というのは、この雑誌に執筆していた方たちのほとんどが、いわゆる「大御所」だったから。大先生のお書きになったものが読めるということで、他大学の先生方や、院生レベルまでこの雑誌を買って、斯界の大物の声に耳を傾けたんですな。 が、その後この雑誌は、善きにつけ悪しきにつけ、どんどん若向きになっていった。執筆者の顔ぶれも、かつての大御所連ではなく、30代、40代の新鋭・中堅どころに変わっていった。 もちろん、この現象をもって「若い人のパワーで雑誌を活性化した」と見ることもできます。しかし、若い人は自分の研究の発表で精一杯ですからね。勉強したての難しいことを書く。で、それを見て奮起した他の若手が、これまたさらに難しいことを書く。で、それを見た他の若手がさらに難しいことを書く・・・。 そうやってこの雑誌は、ただでさえ狭くなっていた読者層をますます狭めてしまった、と。 大体、1980年代くらいまで、この雑誌で誰か特定の作家の特集を組むとしたら、たとえば「シェイクスピア」とか「ディケンズ」とか、そういう作家の特集でしたよ。つまり少なくとも英語関係者なら誰でも知っている作家を取り上げていた。それが今ではどうでしょう。このところのこの雑誌の特集連載は「レイモンド・ウィリアムズ」ですからね。普通の人からしたら、「それ誰?」ってなもんじゃないですか。 これじゃ、読む人がいなくなるのも無理ないよね〜。 ですからね、先程述べた「とりあえず販売価格を下げる」ということもそうですけど、内容的にも、もっと大きな読者層を狙うべきではないのかしら。若手研究者の先鋭な論文だけでなく、お年を召した大御所の先生の昔話を載せたっていいじゃないですか。そういう大御所の教え子というのは、少なくないんですから。 また、中学・高校(あるいは小学校)の英語の先生も興味を持てる記事を沢山掲載すべきだったんじゃないですかね。また、今でも結構「翻訳」に興味のある人は多いのですから、今はなき『翻訳の世界』という雑誌が担っていたようなジャンルも取り込むとか。あるいは、もう開き直ってこれも今はなき『蛍雪時代』的なところまで拾って大学受験を狙って英語を勉強する高校生でも読めるよう雑誌にするとか。もともとこの雑誌はそういう側面もあったんですから。 とにかくね、何でもいい、どんなスタイルをとってもいいから、私はこの『英語青年』という雑誌に生き残って欲しいんです。 何故なら、世のあらゆる雑誌にとって、究極の目標は「存続すること」だからです。 私は、この雑誌の出版元が、本当に最後の最後までこの雑誌の存続のための努力をしたか、ということを疑いますね。まだまだ存続させる手段はあったと、本気で思っています。 もし本気でこの雑誌を存続させるつもりがあったら、雑誌の中から呼びかけますよ、読者に。「この雑誌、赤字なんです。このままじゃ、110年続いたこの雑誌は廃刊です。それでいいんですか?!」と読者に呼びかける特集を組みます。とにかく買ってくれと。講読をやめた同僚がいたら、もう一度講読してくれるよう頼んでくれと、恥も外聞もなく昔からの読者に呼びかけますよ。 ところが、ところが、ところが! この雑誌の来月号(最終号)には、そんな最後のひと暴れすらもない! 嗚呼! 私がガッカリするのは、そこなんだよな! かくして、『英語青年』は来月号で事実上の廃刊になります。これから先、日本中の英語関係の研究者たちは、生まれて初めて「『英語青年』のない時代」を生きることになる。 この雑誌を愛してきた私は、とても悲しいです。
釈迦楽さん
「英語青年」は知っていました。ずっと以前に何度か手に取ったこともあったと思います。 僕自身は理科系人間として育ってきたので購読したわけではないのですが。 理科系の世界では、気に入って毎号購読していた「自然」という雑誌がありました。確か中央公論社から出ていましたが、これもかなり前に休刊(「廃刊」の事を出版界ではこういうようです。)してしまい、随分寂しい思いをしました。どちらかといえば地味ながらしっかりした雑誌で好きだったのですが、その後別の出版社から出た「ニュートン」のような「ビジュアル系」の雑誌に人気が移ってしまった所為かもしれません。 「自然」も随分歴史が長かったように思いますが、「英語青年」は120年ですか。勿体ない話ですよね。(January 15, 2009 18:40:23)
いかにも、明治時代に創刊された英語の本って感じの名前ですね。
>ところが、ところが、ところが! この雑誌の来月号(最終号)には、そんな最後のひと暴れもすらない! 嗚呼! >この雑誌を愛してきた私は、とても悲しいです。 釈迦楽先生の、悲しそうなお顔が浮かんできます。(想像ですが) 最終号を手にとられた時には、もう片方の手でやけ酒をあおってください♪(January 15, 2009 23:38:15)
連帯を求めて孤立を恐れるノダ!さん
3号でつぶれるカストリ雑誌を作るのは簡単ですけど、120年続く雑誌を作るなんて、生半可なことじゃないと思うんですよね。 たとえば岩波の『図書』は10万部の雑誌ですが、錚々たる筆者を抱えながら一冊100円、実質只で配っていますし、『早稲田文学』や『R25』などは無料配布雑誌として結構うまくやっています。そういうことを考えると、『英語青年』だってもっと安くできそうな気がするのですが・・・。(January 16, 2009 01:36:14)
トバモリーさん
>高いのでもっぱら大学図書館でブラウジングです。 やっぱり値段の高さは、大きな障害ですよね。もう少し安い雑誌であれば、学生・院生だって興味があれば買うでしょう? こんな歴史のある雑誌が実質廃刊だなんて、ほんと残念ですよ。(January 16, 2009 01:38:32)
藍毘尼さん
日本語のタイトルは『英語青年』ですが、英語のタイトルは『The Rising Generation』なんですよね。「まさに頭をもたげようという世代」といいつつ、息絶えてちゃいけませんって!(January 16, 2009 01:40:51)
お久しぶりです。メールいただいて、少しの時間を見て読ませていただきました。
80年代以降の英語青年批判、即その後の英文学研究(アカデミズムの謂い)批判となっていて、面白く読みました。雑誌は売れてナンボの世界ですから、狭い世界では生きていけませんよね。 作り直すには同じ年数かかるという釈迦楽さんのお話ですが、ちょうど曲がり角ですから、もう一回最初から作り直してもいいんじゃないか。Rokkuはそんなことを今、考えていますよ。(January 16, 2009 08:42:34)
Rokkuさん
>ちょうど曲がり角ですから、もう一回最初から作り直してもいいんじゃないか。Rokkuはそんなことを今、考えていますよ。 いや、作り直すのはいいんですが、休刊(廃刊)しちゃダメよ、ということなんですよ。一回休んだら、もう休刊癖がついてしまう。雑誌ってのは、継続することに意義があるんです。そこで試されるんですから。 しかし、『英語青年』の最大の顧客である大学の英語関係者が、この雑誌の休刊の報を淡白に受け止めているというところに、問題の根があるような気がしますねえ。 道義的にもね。 あの雑誌の前・編集長が、あの雑誌を維持するのにどの位苦労したか。それは少しでも事情を知っている人間からすれば明らかでしょう。おそらく彼がいなければあの雑誌はもっと早く休刊に追い込まれていたはず。 じゃ、彼は何のために頑張ったのか。やっぱり火を消しちゃいかんと思ったからでしょう。この雑誌を続けることに意味があると。 で、その火の恩恵を被っていたのは誰か。我々ですよ。 で、その彼が力尽きた時、我々は彼に向かって「ま、そういう時代だよね」って軽く言うのか。私には言えませんなあ。 我々だって、文学部が潰され、「もう文学なんて時代じゃない」って時に文学を教えるわけじゃないですか。もちろん、我々も時代に適応するために、正面切って文学を教えなくなったかも知れません。それでも、たとえば「文学論」の代わりに「映画論」をやるという形で「物語の学問」を維持しながら、サバイバルしようとしているわけでしょ。それはサバイバルする意味があると思っているから。 なら、どうして『英語青年』にも「サバイバルしろよ!」とエールを送ってやらないのか。 そこがね。どうも私には解せないところなんですよ。(January 16, 2009 15:35:13) │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |