2009年11月20日

「新しい公共」を理解するための一つの歴史観

鳩山総理の「新しい公共」

 
<引用開始>
「私が目指したいのは、人と人が支え合い、役に立ち合う『新しい公共』の概念です。『新しい公共』とは、人を支えるという役割を、『官』おいわれる人たちだけが担うのではなく、教育や子育て、街づくり、防犯や防災、医療や福祉などに地域でかかわっておられる方々一人ひとりにも参加していただき、それを社会全体として応援しようという新しい価値観です」
<引用終了>
http://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/2009/10/post_410.html 


「新しい公共」とは小沢一郎幹事長も以前から語っているように「身のまわりのことは(国が関与せず)自分たちで行いましょう」ということです。 


日本は昔から「となり組」「くみあい」などの、最小単位の「助けあい組織」が存在してきました。しかしながら、その互助会的「組合」は、戦後破壊されつくされたと言っても過言ではないと思います。


結論的に言えば、友愛政治とは、人と人が横の関係を築く「組合づくり」であると私は考えます。このブログでは、戦後の組合つぶしを5W1Hの手法で明らかにしたいと思います。 

1、  何を(どうした)

政治家や実業家に都合が悪い人と人との連帯(結びつき)である組合を、弱体させることにより日本人を「サイレント愚民」にした。

2、誰が

政治家や実業家やマスメディアが。

3、どこで

企業内、団体内、地域社会など、日本中のあらゆる場所で。

4、いつ

学生運動が盛んだった1960年代(安保闘争や全共闘運動時期)以降、国鉄の民営化頃まで。

 
5、なぜ

@組合は労働者の賃金引き上げなどの労働条件の向上を目指すため、使用者側に都合が悪い。

A一部労働組合のストライキ権の行使は、経営を圧迫するとともに、一般市民から見ても「迷惑」であり、社会的な問題として位置づけられた。

B農業従事者の「となり組」は、トラクターなどを自動車同様に「一家に一台」販売しようとする戦略の障害になる存在であった。

6、どうやって

@農業従事者に対しては、「となり」との競争主義を植え付けるとともに、農協と農家という個別関係を構築させることにより、農家間の協力関係を分断。

A労働組合に残った学生運動の「過激主義者」を淘汰するための国鉄民営化によって。 
このように単純化すると、経過と思惑が理解いただけると思います。ウィキペディアの情報によりますと、国鉄民営化の隠れた目的は組合つぶしだったそうです。 

<引用開始>
巨額の累積債務を、民営化して経営改善したJR各社の負担や国鉄資産の売却、これに国からの税金投入などで処理することは、国鉄分割民営化の大きな目的であった。ただし、中曽根首相はその後、国鉄分割民営化の真の目的は、労働組合の解体にあったと述べている。 

<中略>

国労組合員を余剰人員であるとして「人材活用センター」(人活)に隔離した。「人材活用」という名称とは裏腹に「教育」と称してまともに仕事もさせず飼い殺しにするという実体(廃レールでの文鎮作りや草むしりなど)が社会問題化したため、のちに「要員機動センター」と改称したが、このときの手法などが後のJR福知山線脱線事故の遠因となった日勤教育に取り入れられたといわれる。
<引用終了>

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%84%E5%88%86%E5%89%B2%E6%B0%91%E5%96%B6%E5%8C%96


 
私は最近、国鉄の民営化に対して疑問を抱きはじめています。道路のように、税金で生み出した公共財を管理運営する団体を営利団体にしたことは、公共サービスの低下が生じることは明白であり、実際に地方の足であるローカル線は弱体化しました。 


うがった見方をすれば、鉄道社会であった日本を、アメリカ同様に車社会にするための決定的な「手段」が国鉄の分割民営化と考えられなくもありません。そうであった場合のこの計画の目的は、車を売ることと道路をつくり続けることです。 


大前研一氏は著書で政府ぐるみの「愚民化政策」に言及しています。 

<引用開始>
大前研一氏の著書(「知の衰退」からいかに脱出するか?)によると偏差値教育とは学生運動に危機感を覚えた政府が国民を愚民化するために意図的に導入したと書かれています。
大前氏が昔、首相経験者に直接聞いたそうです。

大前氏;「このままなら国民も立ち上がりますよ」

首相;「そんなことがないよう愚民化教育を施したから大丈夫だ」
<引用終了>http://okwave.jp/qa5376783.html 


国鉄民営化を断行した中曽根元総理は、「日本人は粘土から砂になった。砂は粘土には戻らない」と発言しています。自戒の念を込めての言葉かどうかは分かりませんが、私は、砂になった国民を粘土に変えることは可能であると信じています。 


その手法は、戦後政治で分断されてきた人と人との横のつながりを再構築すればいいだけです。そのためには、日本中に大小さまざまな「助けあい組合」を無数に生み出す必要があります。 


幸いなことに、困難の今の日本には「団塊の世代」という、戦後の日本社会をここまで築き上げてきた素晴らしい「人財」が約700万人もいるのです。 


この人たちを中心に「新しい公共」を生み出せば、この国に暮らす全ての人の「居場所」と「役割」が明確化します。 


私は、これからは「サイレント愚民」ではなく、「ポジティブ賢民」が活躍する国民的運動が必要であると考え、行動に移していく覚悟でいます。