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猫さんへ

 投稿者:たみ象  投稿日:2009年11月12日(木)12時43分14秒
  今朝見つけた本

ツレが今読んでいる本が池田清彦編「遺伝子<不平等>社会」なのですが、
今朝斜め読みしたら、最後の部分立岩さんが書いていて池田と対談してます。

ちゃんと読んでないので感想かけませんが、とりあえずご紹介。
 

ヤマさんへ

 投稿者:たみ象  投稿日:2009年11月12日(木)12時39分27秒
  ヤマさんのカキコ情報量が少ないので私にはすごく難解。

>お前は、キチガイか!
>たみさん、がっかりだよ。

なんか期待を抱かせてしまいましたか。それはどうもw
そうかもなぁ。
このような場所で妄想を書き散らかしてるって
マトモな人がすることじゃない、という気はしてます。

ついでに「気違い」について

何か根源的なことで差別し、差別されてしまう関係性の中に、「気違い」ってあると思います。
その人が発している、纏っている、「気」(オーラとか)が違うと感じてしまうと、その「気」に合せてコミュニケーションすることがその度に負担となり、「コイツに合せるの面倒くせぇ」と感じて、ためというか余裕というかがない人は、手っ取り早く排除してしまう。
 

ヤマさんへ

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年11月12日(木)07時04分32秒
  ヤマさんのいっているのも<普遍>によって裏打ちされたいってことですよ。

生きることの意味は人間には不可知なだけである。(普遍)
だから、生きることには意味がある。(個別)


人間に不可知なことに意味を求めてどうすんですか?

死にたくないから、生きる。(個別)で十分です。
死にたいから、死ぬ(個別)を許しちゃうだろって…?

死なせたくないから、死なせない(個別)がある。
殺したいから、殺す。(個別)を許しちゃうだろって…?

殺させたくないから、殺させない(個別)がある。
………以下やろうと思えば無限に。

つまり、個別に価値があると思う行為を普遍化するために、普遍なものを作り出してる
にすぎないのです。個別の行為は行為としては等価値です。

タイムトラベラーが幼い痩せたドイツ人を殺しました。彼を大勢のドイツ人は非難しまし
た。ヒットラー殺しと。

どこまでいっても<個別>があるにすぎません。ただ、自分が認める<個別>があるだけ
です。
 

いまだに…

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年11月12日(木)05時57分44秒
  唯名論の対義語は実在論。

この二つの考え方は<普遍論争>の中に現れた。
カント的にいえば<触発する物自体>に<普遍>が含まれるのか、
<認識する形式>に<普遍>が含まれるのかという論争である。

実はこの<普遍>とはカテゴリーのことである。だから、カントは
認識する形式が普遍なのだと言っていることになる。
(観念論なんだからそうだわな。)

観念論においては、常に<演繹>によって推論の必然性を確定する。

○○○である。○○○であるためには△△△でなければならない。
であれば、○○○の前に△△△は先んずる。(先験)

こうして<普遍性>を獲得しようとしている。

宇宙に対して普遍性を証明してどうなるだろう?お前は普遍だ。………宇宙は
そんなこと知ったことではない。というか、そもそも知るなんてことも知らない。
哲理は基本的に知恵の実を食べたとされる人間が神に対話を挑むことである。
生命の実を食べてない定命の者が永久にあるもの、そして、理解する意識をもって
いるはずのものに返事を求める行為である。

ただ、それだけ。だから<普遍>が顔を出す。

はたして、日本人にそのような<意識>があるだろうか?案外に日本人は命は流転し
命それ自体に限りはなく、入れ物は違っても、永久に運動すると思っているのではな
いか?

日本人が哲理を語ろうとするとき、どうも借り物の問題に借り物の答えをしようとし
ている気がする。

(あー。だから私は形式主義なんですよ。形式はそもそも普遍ですから。)
 

再掲

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年11月12日(木)01時35分33秒
  閑話休題 投稿者:ヤマさん 投稿日:2009年 6月 7日(日)05時39分25秒
返信・引用編集済


囲碁をやってて思うのは、勝ち負けに殊更拘る人間は、実は、美意識が強すぎるのではないかと、逆に、美意識に拘る人間は、勝ち負けという現実をうまく処理できないでいるのではと。

勝ち負けを利害と単純に言ってしまえば、囲碁の場合、美しければ勝つはずだ、勝てば美しい。

と、いってのけるのだが、よくよく観ているとそうとも言い切れない。

衆人監視の最たる、タイトル戦でもおよそ美的と思われない情景が現れる。

ただし、勝ち負けは誰の目にも判然とするのだが、美醜は個人差がある。

ここが厄介なのだろう。

強度から言えば、勝ち負け(一時のこと)よりも美醜と思いたいのではあるが、生きるか死ぬかでは、そうもゆくまい。

世の中には、そうまでして生きられないなどと言う人もいるが、たいていは、そんな人について行くべきではない。

どんなことをしても生きて行くべきと考える。

死んだほうがまし、などと言える人に聞きたい。

あなたは、死んだことがあるから生きている今と比べられるのですね。

死んだ時のことを教えて下さい、そして、今もそうですか?。

昔は、そうだったなんて言わないで下さいね。

今は、違うかもしれないから。

なんの話しでも、最後はこうなってしまう。

一人静か。
 

補足

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年11月12日(木)01時24分27秒
  勝ち負けなんてゲームじゃないんだから・・・。





誰にも分からないんだよ。
 

キチガイの証明終わり

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年11月12日(木)01時11分26秒
  たみさん、がっかりだよ。  

まぁ、かまわんけどね

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年11月12日(木)01時07分46秒
  猿なら、猿のままでいろ!  

たみさん

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年11月12日(木)01時04分4秒
  あんたね〜。

自分がないのか。



セクトさんが可愛そう。
 

美意識すら

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年11月12日(木)01時00分43秒
  >蓮實重彦はその美意識に関して私はものすごくシンクロしてしまいます。  

お前が判断するな

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年11月12日(木)00時57分17秒
  >私は大負けですw  

キチガイの証明その1

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年11月12日(木)00時52分8秒
  >ですから決して買いかぶらないようお願いします。  

猫さんへ

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年11月12日(木)00時43分17秒
  ようまぁ、こんなキチガイを相手にできたわ。

猫さんこそキチガイと断定して宜しいか。
 

たみさん

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年11月12日(木)00時38分30秒
  お前は、キチガイか!  

うまく説明できませんが

 投稿者:たみ象  投稿日:2009年11月11日(水)23時37分43秒
  基本的な関心事が違うような気がします。私と猫さん。

私は学者などに対して普遍的に何らかの評価は“まったく”出来ませんし、評価するという意欲も湧きません。そして“世間の評価”にもあまり関心がないです。

私が引用などすると、私にとってはまるで本質的ではないことで、その学者を貶めようとする人もいます。残念ながら、多くは感情的な吹き上がりで、積極的な意図はないようです。

私にとって重要なのは、その人が書いたことにリアリティを感じるか、大げさにいえばそれが魂の触れてくるか、または、「目から鱗」感覚を引き起こしてくれるか、或いは通念に切り込んで「宿題」を押し付けてくるか、で、そう感じるのが、残念ながらその人(作品・主張)のごく一部だけだったりもします。

それと↓で告白したように引っかかるものがないと本が読めないので、多読ではないです。
ですから決して買いかぶらないようお願いします。

>懐疑しつつ”取り合えず”選択する

政治的に行動したり、政策を決定するにあたっては、そうするしかないでしょうね。
そういうフリをすることも大切ですw

>ものを考えることではそれほど負けていはいないという自負はあります。

この界隈で話題にされているようなことについて考えることでは、
私は大負けですw

・・・こりゃ多分噛み合わないワw

話題を変えヨw

蓮實重彦はその美意識に関して私はものすごくシンクロしてしまいます。
20年近く前その表紙に目がくらんで「映画に目が眩んで」を買ってしまいました。
「凡庸なる作家の肖像」だったか?あれも蓮實の美意識だよなぁ。

最近考えているのは「恥ずかしい」とはどういうことか、ですね。
それと前ちょっと書いた「連赤」総括問題。だれも本当にちゃんと考えてないのかなぁ。
状況が特殊なのでTAMO2さんのいう「知性が足りない」っていうのも違う気がする。
問題の立て方が違うのか。
なぜ同志殺しが繰り返されたのか?
「内面の法廷」が暴走するってこととか、クラウゼビッツの「戦争論」とか・・・
歴史的な問題からいえば、敗戦によって戦前戦中の「ファシズム」に対する「反省」(=研究)がきちんとできていなかったからだと思う。「いい人」がトップだったら「ファシズム」には陥らない的な無自覚さ。
妄想ですw

ところで猫さん

>奇をてらわない

というのは今日のスローガンですか?
 

今日の花売り娘

 投稿者:招き猫  投稿日:2009年11月11日(水)22時17分23秒
  >増田先生

おおおおっ、このセンセまだ話題になるのか。
昔2ちゃんの歌旗スレでやってたときにチラ見した限りだけど、単に阿呆。

旗振る阿呆に破る阿呆

歌わせる阿呆に歌わせない阿呆

要は、阿呆が困るという実に素朴な感想でした。


裏声で歌え?
あるいは、口パクで歌え
 

訂正

 投稿者:招き猫  投稿日:2009年11月11日(水)22時05分34秒
  引用部分の訂正(重要な部分の転記ミス)

× 『普遍知の立証責任を積極的に引き受けることで、哲学はその固有の役割を担いきることができるはずである。』

○ 『個別知への引きこもりを戒め、普遍知への意志を堅持しつつ、問題局面での立証責任を積極的に引き受けることで、哲学はその固有の役割を担いきることができるはずである。』



実は、永井も個別知ではなく普遍知を語ってしまっているという点。

それとは直接関係ないけど、言語に関しては非常に無頓着であるという点。


思考なんて「文法」だと喝破したニーチェを軽んじすぎている。
本当に利口なのかなあw
 

奇をてらわない

 投稿者:招き猫  投稿日:2009年11月11日(水)21時58分32秒
  >「哲学における知は本来内発的なものでなければならず」

>私は内発性なくして多くの哲学的な概念は理解できません(でした)。

内発は外からの誘発ですね。外とは理論的な意味においての外部です。
例外はありません。

>内発性を刺激する言葉に出くわす

外部w

>>
「(ある見解を哲学としてではなく)思想として受け取るとは、それを正しいと信じることで悦ばしく生きられると思う人が、“批判的吟味ぬきに”その見解を受け入れることである。」(永井均『<魂>に対する態度』)“”部分は原文では傍点です。
>>

たみ象さんともあろう人が・・・
引用とは、まさしくそのように機能させることですね。

あるいは、「>批判的吟味」の対象として引用されたのか。

引用部分「だけ」に関しては、私はそんな薄っぺらく考えません。
昨日は絶対的信仰のように受け取ったものを翌日には平気で唾棄したりするものです。

大体においては、永井が言うような二項対立のどちらかを選択するようなことはなく、その両極の間を揺れ動くように受け取り、かつ突き放すものだと思います。すなわち、懐疑しつつ”取り合えず”選択する。その暫時の選択を一生の決意であるかのようにあえて受け取るのが若さですね。だが、その若さは別の選択を同じ決意で選択しなおしたりするものです。

非難されるような「かつて」の左翼とは、そのような決意のし直しを相互にけん制しあうことで最初の決意に実は存在した不安から逃げていたことではないでしょうか。静かに沈思黙考するとその(最初から隠し持っていた)懐疑はあっという間にふくらみ、いてもたってもいられない。だから、彼らは熱狂したのでしょう。熱狂することで不安から逃げていたというのは間違いないです。不安がないから熱狂したのではないです。

洗脳とは絶対的な不安ですしね。

>>
強迫的に信じなければならない場合もあるでしょうね。あるいは、自分ではその強迫的心理に無自覚だったり。
>>

それは、その通りですね。


では、私も引用を
「岩波 新・哲学講義」(全八巻、別巻一) 編集委員=野家、村田、伊藤、他計八名

「別巻 哲学に何ができるか」はしがき
『哲学に何ができるか。哲学を実体化しないためには、この問いはこう言い換えた方がよかろう。私たちは哲学することで何がわかり、何ができるのか、と。人は日常においてきわめて多種多様なことに携わって生きている。その一部を哲学と名づけられた特殊な知の領域に回収し、他から区別することに、どんな満足と意味を見いだせるのだろうか。
哲学は武術などの流派と同じでいいと言ったら、あまりに不謹慎だろうか。わが主張こそ真の哲学なり、そう叫ぶ人がたくさん出てきて、愛知(ピロソピア)の名分を奪い合う。渦巻くエネルギーの中で、さまざまな<流派>の離合集散が起こる。それ以上の何を求めるのだろうか。

(中略)

普遍知の立証責任を積極的に引き受けることで、哲学はその固有の役割を担いきることができるはずである。』

(編 集 委 員 一 同)


この『はしがき』が何を意識しているか、お分かりのことだと思います。


オリジナリティに走る猿が多くなった同時代に対し、蓮見は東大入学式で言いました。そういうオリジナリティを口にするのは猿だと。(「齟齬の誘惑」)
入学式という場でありながら、その口調の厳しさには感服しました。


http://www.amazon.co.jp/%E9%81%A0%E8%BF%91%E6%B3%95%E3%81%AE%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E5%8F%B2%E2%80%95%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%AE%E7%9C%BC%E3%81%AF%E7%A9%BA%E9%96%93%E3%82%92%E3%81%A9%E3%81%86%E3%81%A8%E3%82%89%E3%81%88%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%8B-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E5%BF%A0%E8%89%AF/dp/4582238041
「遠近法の精神史―人間の眼は空間をどうとらえてきたか 」で、佐藤忠良はパリの”芸術家”がオリジナリティに狂騒する様を「アホちゃうか」と言い放ってた。

ま、そんな話は枚挙に暇がない。


永井が、(一部)論壇で日本でもやっと自分でものを考えることができる人間がでてきたという世辞とともに紹介されたのは少し昔のことだったと思う。彼が、そうなのかどうなのか、そんなことは知らないが、オイラはオイラで考えたことでやっていく。

奇 を て ら わ な い。

おそらく、たみ象さんは私よりたくさん本を読んでいるだろうし、いろんなことを知ってるとも思う。まっぺんさんもそうだし、G党党首もそうだろう。

でも、ものを考えることではそれほど負けていはいないという自負はあります。

私の不安は、その自負のせいで何を読んでも「そーじゃあ、ねえだろ」という脳内突っ込みがすぐに出てきて渦巻き、その結果読めなくなるということです。だから、最近本当に読めなくて困っています。(昔の熱狂が懐かしい?w)

この前、池田清彦のことをレスした後、テレビの深夜バラエティに偶然にも池田が出ていた。彼のコメントに、隣の部屋で家族がヘラヘラ笑っていたけど疲れていてすぐに寝ました。

ヘラヘラ笑えるのが健康なんだけどね。


弱くある自由へ
自由の平等へ


大いなる永遠の肯定へ
肯定の永遠なる平等へ
 

怒りの「こころ」

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年11月11日(水)14時36分51秒
  「ある」といえば「ある」、「ない」といえば「ない」。

感情はその縁(対象)によって引き出される。

初めから有った、しかし、その対象がなければ埋没(冥伏)して無いようにも感じられる。



「猫さん」と「あさん」はお互い対象を求め合って自己の心的エネルギーを維持しようとしている。

ただし、「猫さん」は「あさん」に背中で、「あさん」はその背中に。
 

素朴実在論の人のいう世界って

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年11月11日(水)04時16分26秒
  群盲象をなでる。

における象なんですよ。世界の一部かもしれないが、それが世界の全体である証明は
不可能なのです。なぜなら、あなた=世界ではないからです。

全体性を言うためには、あなた=世界を証明しなければなりません。

しかし、あなた=世界であることは根拠となった素朴実在を否定しなければなりません。
(論理的にです。わたしは世界に対峙するという構造が認識だと言ったのに、世界は
私である。という内在論がその結論ではだめですよね。)

素朴実在によって世界を記述することはかように不可能なのです。
(科学だって、世界を記述するなんていってませんよ。科学は現象を扱うといってます。)

ヴィトゲンシュタインはこの構造を逆手にとって、素朴実在論ではなく唯名論(ノミナリズム)の立場をとって、世界=わたしであると結論づけました。これは世界は多数のもとにあるが、わたしの世界はただひとつである。私は一人であるが、孤独ではない。ということの
すぐれた表現になりました。

(政治的にはこの立場はなんら力をもたない、革命理論になりえないところも、また優れています。)
 

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