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ヤマさんへ

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年11月11日(水)04時06分27秒
  ヤマさん………
素朴実在論(カント的にいえば、あるから見えるのだ。という立場。科学においては
最初の信念。)の人ですか?

それなら、俺が触れる世界があるのに世界が失われるわけがないだろ。と思うのは当然
です。

でも、そういう人にはこう言うことにしています。
「親子の絆は目に見えない。じゃあ、親子の絆はないんだね。」

…もちろん、素朴実在論なのに彼らは
「何をいう。見えなくたって、あるものはあるんだ。」とおっしゃられます。

「じゃあ、どこに?」と問うと…
頭のいい人は黙ってしまう。(そりゃそうだ。)
頭の悪い人はこういうんです。
「親と子の間にだよ。」

「待ってよ。親と子ってどう決めるのさ」(←ここ重要。決め方はどう決められるでしょう。)

…以下延々と観念にいきつくまでの議論になるので割愛。

ヤマさん。ここで世界といわれているのは、まさにグローバルにグローバルなあり方を
さししめす原理のことです。国や地域さえもそれに従って存在するような。理念とよん
でもよいでしょう。

 造反有理ということばはこの世界理念に基づくことばなのです。

(説明しなければわからないことは説明したってわからない…かもしれないが。)
 

(無題)

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年11月11日(水)00時43分19秒
  >ならば意味を知りたいと書けばよいのに

失礼しました。

>どーぞ。

了解ありがとうございます。
 

>このやり取りを下記へ転載しても宜しいでしょうか。

 投稿者:たみ象  投稿日:2009年11月11日(水)00時27分31秒
  どーぞ。  

ならば意味を知りたいと書けばよいのに

 投稿者:たみ象  投稿日:2009年11月11日(水)00時25分51秒
  >誰につけるべきなのでしょう

流れから逝くと論争?相手のケンジさんを放置したように見えたのですが。

>あしからず

威嚇する動機は全くないです。
ヤマさんとやり取りするのは初めてではないという意味です。
これ以上説明できません。
あしからずw

>自爆テロ

では、現実的にこの私が危険なわけではないのですね。
それはさておき、自爆テロに至らざるを得ないような境涯の人に、永井均の文章が影響力を持つとは思えません。
まあ「自棄」になるのを助長するように読めなくもないかなw
 

たみ象さんへ

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年11月11日(水)00時15分3秒
  このやり取りを下記へ転載しても宜しいでしょうか。


創価学会とマルクス

http://6816.teacup.com/3426/bbs
 

意味不明(思わせ振り)箇所

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年11月10日(火)23時57分31秒
  >「あ」さん登場。
「あ」さんがレスつけるべきはその方ではないと思われ・・・ry


それでは誰につけるべきなのでしょう。(僕?)


>仰山板の管理人さんがその他の掲示板の人と通じているとしたら、管理人さんにはわかるのですが、「はじめまして」ではない、のですw
(以後このことは話題にしませんので意味不明でもあしからず)


あしからずと言われても・・・。

なにかの威嚇かとも考えられます。

例えば、<いまだに>tamo2さんからのご返答がありません。

合わせて推察するならば仰山板再開時に僕の居場所はないとも考えられます。


期待しないとのことでしたがあしからず。


また、なにが危険かと言えば、自死に至る筋道をつけてしまう。

現世ではなく、神の御霊のもとで・・・(自爆テロなどの観念を支えます。)


取り敢えず。

たみ象さんへ。
 

猫さん、ヤマさん

 投稿者:たみ象  投稿日:2009年11月10日(火)23時09分23秒
  猫さんへ

>>「哲学」「思想」
>何が違うんですかw

ではw引用

「もしも哲学が科学的学問でも歴史的学問でもなく、“個としての精神が世界を明らかに見ようとする努力”であるとすれば、そのような哲学における知は本来内発的なものでなければならずそれがそのまま他人に伝達できないのは当然のことである」(佐藤徹郎『科学から哲学へ』)“”で強調したのは私です。

私は内発性なくして多くの哲学的な概念は理解できません(でした)。ですので、いまだによくわからない哲学概念がたくさんあります。
浅田彰がそのむかし本屋をうろつくのが好きで「本のほうから呼んでくる」みたいな言い方をしてました。それはつまり、内発性を刺激する言葉に出くわすことなのかなと理解してます。
デカルト「我思うゆえに我あり」で哲学終わっている大学生にカントの「超越論的観念論」など説明できないですよねw
(「説明しなければわからないようなことは、説明したってわからない」の解題でした)

「(ある見解を哲学としてではなく)思想として受け取るとは、それを正しいと信じることで悦ばしく生きられると思う人が、“批判的吟味ぬきに”その見解を受け入れることである。」(永井均『<魂>に対する態度』)“”部分は原文では傍点です。

「悦ばしく生きられる」というと安穏な感じがしますが、強迫的に信じなければならない場合もあるでしょうね。あるいは、自分ではその強迫的心理に無自覚だったり。


ヤマさんへ

>思わせ振りのたみ象さんへ

これまた思わせぶりですね。どんな風に思わせぶってしまたのでしょうかw

>ここを無批判に受け入れては危険です。

どう危険なのか、もっと言えば危険とはどんなことか、を説明していただけると、
単なる「大乗仏教的な脅し」にならずに議論が膨らむかと思います。

とはいえ、上のどちらもレスを期待しているわけではありません。
 

知床旅情 - 加藤登紀子

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年11月10日(火)22時09分59秒
  http://www.youtube.com/watch?v=T40Tx2WS6Ag  

思わせ振りのたみ象さんへ

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年11月10日(火)21時54分15秒
  >現に今、われわれは、世界から断ち切られて、おのおの文化の特定領域の細部の知識をもってその代用とする、総オタク化の世界に生きている。

ここを無批判に受け入れては危険です。

世界から断ち切られるはずはありません。

自然の罠に陥っています。

まさに、自然から切り離された西洋的な「神」の創造に他なりません。

自然から切り離される存在などありません。

言葉自体自然の中で生まれるものだからです。

西洋的「神」同様、オタクも世界から断ち切られてはいません。

世界はどこまでいっても世界です。

繋がっているものを断ち切れるならば、永遠の生命を否定することもできることになります。

それとも、生命は一回限りで無から生じて無に帰するものなのでしょうか。

無から有は生じません、また、有は無にはなりません。

現前としているか埋没しているかの違いです。
                       様相が変化するだけで断ち切られてはいません。

断ち切れると考えての自死も推奨できません。

断ち切ってはいません。

繋がっています。


ゲシュタルト崩壊 - Wikipedia 投稿者:ヤマさん 投稿日:2009年11月10日(火)03時53分34秒
返信・引用


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%88%E5%B4%A9%E5%A3%8A


欺瞞あるいは正当化の功罪 投稿者:ヤマさん 投稿日:2009年11月10日(火)03時44分21秒
返信・引用


自壊と構築(再生)

むず。

自壊できず巨大化あるいはパーキンソン。

(整理・整頓)あるいは(掃除)。

総括・・・

否定(贖罪)

肯定(正当化)

両義性のバランス

天秤

相対的な中心・・・

そして、自壊→構築(再生)



創価学会とマルクス

http://6816.teacup.com/3426/bbs
 

わたしはわたしの仕事をしてまいりましたよ。

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年11月10日(火)04時27分58秒
  なぜか、組合の(どう考えても人選ミスだろ)研究大会で発表、討議をしてまいりました。

どうして、私の「こんな考えでこうしたら、子どもたちはこう育ちました。…なんていうのは
嘘ですよね。せいぜい、子どもたちとこう関わりたい。だから、これをした。こんな封になった
と。ぐたいがせいぜいですよね。というか教師はそれしかできないでしょ。」という提案を
発表しなければならないのか不思議でした。

組合的な価値観の押し付けにしろ、新指導要領の道徳的価値観の押し付けにしろ、現実からの
反動にすぎず、現実の中から生み出されてきた価値観ではないことからそんなものを美術、図工
教育の目標にされては困ると美術という教科の発祥から学校は国民を作る装置であるということ
などを援用し、おそらく、組合的な規定のまとめ方ができないようにぶち壊して来ました。

現場で子どもと苦泥している方は、もっと実践を知りたかったのだろうと思います。
でも、その実践の交流こそが一番危ういということを知ってもらいたかった。
美術、図工畑でもなければ、酒井式指導法がなぜいけないか。はきちんと指摘できないだろうと
思う。しかし、酒井式が全国に広まったのも<実践の交流>なのです。
手短な手前の問題に苦泥することこそ大事であり、そこにしか本当の実践はなく、そして、本当の
実践は<必然的に>失敗することになっているのです。

なぜって、指導する側は自分の意図が達成されることを<成功>と考えます。しかし、授業は結局
は学習者のものです。学ぶ側はそれぞれ勝手に自分に応じて学んでいきます。その学びは意図的で
はありません。本当の実践ほど失敗しなければならないのです。

酒井式原則
http://www2.ocn.ne.jp/~sakushu/sakaisikigenrigensoku.htm
原則が実践になると…
http://homepage1.nifty.com/NOBUHIRO-UEKI/sakaisiki/index.htm
実践を広めるための定式化が行われ…
同じような<作品>がひりだされる。まさに<生産>されていく。

近代を手に入れなければ近代が批判できないのだろうか…?

まあ、教師が教えるというコミュニケーションのあり方をとらえられないのが一番の問題
なんだけどね。教えなきゃいけないものは教えなきゃならないが、教えたからといって
身につくつかないは相手側の事情。相手側の事情によっては、どんなに指導法を変えたって
身につかない。分かれ分かれ、覚えろ覚えろと関わるだけ、<関係性>は悪くなっていく。
<関係性>しか教室にはないという認識ができれば、そんなことはしなくなる。

準備ができてるかどうか、余力があるかどうかがとても大事な見極め。これができるかどうか
がプロかアマチュアかの分かれ道だと思う。結果にこだわるのは実は教育においては<アマチュア>
なのだ。二十歳過ぎればただの人でよい。ただの人の価値こそ本当は尊ばれるべきなのだ。

できないよりはできた方が。だまされないように、わからないよりはわかった方が。
教師や社会のこのような思いこそが、<能力による分配>の正当性を裏打ちしていく。
勘という論理化できないもので生きているのが本当なのに。

(学校という場所にいてこの論理を否定するのは非常に難しく、すすんで使えない先生に
なっていく覚悟がいる。でも、犯罪的な偽善に手を染めるよりはよっぽど気楽だろう。)
 

余談

 投稿者:招き猫  投稿日:2009年11月 9日(月)22時30分49秒
  サイアス
これって売れなくて廃刊(長ーい休刊?)してもうた。

みんなで買おうっていう運動wがあったりしたが、結局ダメ。

NHKの科学番組とかの嘘インチキを叩いたりしてけっこう面白かった。
あれがなくなってから、おいらは自然科学はますますアカンようになったかもしれない。


猿かあ
 

そう、オイラは酔っぱらってるかもしれんな

 投稿者:招き猫  投稿日:2009年11月 9日(月)22時24分18秒
  >須原は溺れてはいけないと思っていたようですw

酔った人間が口にする典型ですね。
正確には、酔いが冷めたときに言うのかな。

大事な点は、こういう奴はまた酔うw これは間違いない。

キツーイ二日酔いの、あの不愉快さ、これって自分でも実際体験してみないと分からん。
もう二度と飲むまいと思うけど、おてんとさんが沈みかけたらまた飲んでるw

本当に飲まない奴はいるもんで、そんな奴に二日酔いの苦しさなんて口にするのは無様w

ま、そういうことですわ。その須原さん、十分最後まで職業哲学人やってますやろw

>「そうでしかありえない」という「論理が強いる仕方なさ」によって考え抜くことです。

そんな言い方をするもんですよ。
オイラもそういう言い方をするよなあぁ。それって、一つにはそのような型にはめることで考えることが風雪に練磨されるように思う。次に、なんだか客観性をまとえる。

須原も永井も十分に酔っ払いだよ、たみ像さんw

酔ってない人が身近にいないのかな?ww

>>
「批判」とはカントの概念で、もとは実証主義と形而上学の「原理的な不可能性」について考察することをいいました。
>>

難しく言いすぎ。
経験主義と合理論の弁証法的止揚、あるいは折衷?w

経験の限界と理性の限界を同時に示し、かつ同時に相補的な不可欠さの構造を解き明かした。あるいは、その構造を 構 築 した。

>批判

吟味
ま、弁証法的解消ということですね。
発展や進歩とは、基本的にそうならざるをえない。

>>
複雑な社会では真理性は文脈に依存してしまい真理性の要求を貫けばカルト化していまいます。
>>

というような相対主義が何でも味噌糞にするということで揺れ戻しもけっこうあったりします。いわゆる構築主義[構成主義]とは、そういう文脈から出てきました。

構築主義とは構造主義と全然違うものです。

>浅田彰

あいつは、戦後で一番できる奴だろうね。
小林秀雄なんて白痴だろう。単に神秘主義で粉飾したあたりが受けただけ。

>自明性の消滅

というのも過去のもの。
自明性こそが今のキーワード。自然収奪的実存形式なんて、相対化できるもんではないし趣味嗜好に還元されえない。何も食わない、水も空気もいらない、ウンコもしないなら話は別ですけど。

化石燃料やCO2だけの問題ではない。

>マルクスから離れられず敢えてアナーキーな志向性

マルクスの”更地”は建築のためです。ただし、解体撤去は少々粗雑でもいいけど建築はそうはいかない。そのあたりが分かっていただろうマルクスは卑怯。だが、利口だったとは言えるだろう。レーニン他は勇気の人だったかもしれないが、頭は少々足りなかった。

>宮台

彼が浅田と違うのは、やはり頭のできだと思う。
宮台なんて、子どもができるとそんなことを同列に書ける程度のもの。10年もしたら、市民派になってたりすると思う。非常に不謹慎な仮定法ですが、子どもが障害者だったりするとああいう輩は先頭に立つだろう。

浅田は違う。
彼は先頭にも立たないし、後衛に位置することもない。

アレはいない。いないということはどこにでもいるということでもある。

>>
先日の引用文は、永井がようやく自力でそのことに思い至り「哲学」の「歴史的な役割」は終わった、と書いているだけです。
>>

そういう陳腐さを大仰に言ったことを恥じてるかもしれませんよw

>「哲学」とおそらくは一般的な「思想」を混同していないでしょうか。

何が違うんですかw
というか、そんなことにこだわる時点で哲学は三億光年の彼方に消えてしもうた。

「あ」馬鹿は、発作的にそういう定義を出しますね。辞書w

>>
私が紹介した須原本は「論理が強いる仕方なさ」にそって現代社会をとらえれば最低限これだけはいえることを、読者が現代社会をとらえる「キット」(道具)として使えるよう提示しています。これを皆さん(セクトNo.7さん)に紹介したのは、社会改「良」を「本気で」志向・実践するなら、そのくらいは踏まえようぜ Everybody という意味でしたw
>>

キットもいろいろあるし。
キットを卒業したい人もいるし。とにかく脳内本棚には積んどきます。読んでないから、何も言えない。

>入不二さん

これも積んどく

>池田清彦

私が彼をはじめて知ったのは、サイアス(CIAS?)です。科学朝日から誌名変更したアレ。いわゆる教科書(的生物学)をぶった切っていました。構造主義生物学

養老とゴニョゴニョ言ったりしてます。”科学的”姿勢でもって地球温暖化などに懐疑しますよね。

で、ぶった切って、構造主義生物学で何が分かるのかって、それはこれからなんだということで終了。終了したまま。多様化擁護のためだったとはいえ、今考えると論壇への足がかりだったのかもしれない。

多様化って言っても、要は趣味の昆虫だけで他はあまり興味なしw 特に人間はww

>>
永井や池田清彦の「突き放し」は、原始仏教や原始キリスト教に通じるのではないかと私は妄想しています。
>>

うーん、それはどうですかねえ。単に中途半端なボンボン。
中途半端じゃねえのは浅田だけw

>疲れた・・

もっと多弁で連投してください。
もっともっと肉声を聞きたい。

肉声っていうと勘違いするギャラリーがいるかもしれない。肉声は引用三昧から始まり終わるようなもんですけど。

とにかく言いたいことを言う。これですよね。
 

今日の妄想

 投稿者:たみ象  投稿日:2009年11月 9日(月)12時51分27秒
  「あ」さん登場。
「あ」さんがレスつけるべきはその方ではないと思われ・・・ry

アタシもすっかり釣られてるわけかw

>”真理”の要請
>酔える

永井や須原の哲学は、「〜するべき」「〜することは善きこと」という「問い」ではなく、「必然的に〜なのでは?」「〜することは不可能なのでは?」という「問い」です。
つまりそれは自分の選択や決断によって左右できるような「生き方」(人生論的なw)の問題を考えることではなく、「そうでしかありえない」という「論理が強いる仕方なさ」によって考え抜くことです。
彼らはそうした行為(=哲学)に没頭しているとは思いますが、私には酔っているようには見えません。須原は溺れてはいけないと思っていたようですw

私の至極乱暴な理解を乱暴に単純化して説明すると(ご存知のことばかりでしょうが)「批判」とはカントの概念で、もとは実証主義と形而上学の「原理的な不可能性」について考察することをいいました。ドイツ思想史的にはカントのずっと後にフランクフルト学派が批判理論を展開します。これは当初ナチズムに対抗するものとして蓄積された(ex.アドルノの理性の暴走、フロム「自由からの逃走」)。さらに後に批判理論に対する批判(批判に対する批判)から「自己言及の思考」へ移行します(言語ゲーム理論とかシステム理論とか)。
一方ではマルクス主義の空手形wが明らかになってきて、それに対抗して近代主義(的思考)が構造主義(思想ではなく方法論)などによって科学的な事実命題を出そうとしました。時代はマルクスが示した経済発展段階を突き進み近代過渡期=「複雑な社会」へと突入します。複雑な社会では真理性は文脈に依存してしまい真理性の要求を貫けばカルト化していまいます。
その辺りを「鋭い」(by猫さん)浅田彰などが当時日本で紹介したわけですね。その頃から既に社会改「良」に向けた価値的な志向はどうあるべきか(どんな社会が良い社会か)それさえも自明のものではなくなりました。その自明性の消滅や、来るべき時代への変化速度を速める方法論を、いろいろな表現で浅田や柄谷などポ・モな学者さんたちが書いて言ったりしました(後に柄谷こそマルクスから離れられず敢えてアナーキーな志向性を示したわけですが)。一見まったく違って見えますが、本人が言っているように浅田と同世代の宮台はこうした「認識」においてほとんど同じようなものです。
先日の引用文は、永井がようやく自力でそのことに思い至り「哲学」の「歴史的な役割」は終わった、と書いているだけです。

猫さんは(私の理解する)「哲学」とおそらくは一般的な「思想」を混同していないでしょうか。
しかしそもそも、それはどうでもいいことなのかもしれません。そういう意味で、須原のスタンスなど猫さんにぴったりだと思ったのですがw

私が紹介した須原本は「論理が強いる仕方なさ」にそって現代社会をとらえれば最低限これだけはいえることを、読者が現代社会をとらえる「キット」(道具)として使えるよう提示しています。これを皆さん(セクトNo.7さん)に紹介したのは、社会改「良」を「本気で」志向・実践するなら、そのくらいは踏まえようぜ Everybody という意味でしたw
ですので実は私にとってこの本は純哲学的な面白さはありません。
猫さんのご職業的には入不二さんの「哲学の誤読」がお勧めだと思いました。

いずれにしろ私が薦めるものなど強いて読むものではありません。

>池田も同じようなもんだし。突き放し方も似てるw

猫さんの池田は晶子の方かもしれませんが、私はたぶん読んだことがないので敢えて清彦で話題を引っ張ります。
我が家の書棚には永井著作群の隣に池田清彦著作群が並んでますw
池田清彦は、あまり知られていないようですが、意外なことに高尾山にトンネルを通すことに反対して圏央道事業認定差し止め訴訟?の原告になっています(した?)。すっきりしたいけどぐずぐず生きるしかないとか。たしか「運動は趣味だと思って気が向いた時だけやればよい」みたいなことを書いていましたw
それはさておき、永井や池田清彦の「突き放し」は、原始仏教や原始キリスト教に通じるのではないかと私は妄想しています。

余談

そういえば以前猫さんが引用していた「なぜ人を殺してはいけないのか」がもうすぐ文庫になるそうです。
この文庫版のあとがきに、加藤某の犯行のような、死刑になるつもりで殺人を犯す類の「社会に対する復讐」に対して、社会の側がなし得る少ない対処療法を挙げています。
身も蓋もない話に読めるかもしれませんが、興味のある人はあとがきだけでも読んでね。

超余談

去年須原本を「自死という生き方」も含めてAmazonのユーズドでそろえたのですが、そのうちの「超越錯覚」に須原さんのサインがありました。
須原さんが某大の先生に謹呈したもの(が古本屋に売られた)らしいw

・・・アタシってオタクw
疲れた・・
 

何もしないいいわけにしてはいけない。

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年11月 9日(月)06時44分35秒
  歴史や社会が複雑なのは<一回性>と<反復性>が同時に読み取れるからだ。

どちらが<人間>の反映なのか、それを確かめる方法がないからだ。

歴史がひとりひとりの人生の加算の結果でも、累積でもないことが問題をまた複雑にしている。

おなじように、社会も個人の単なる集合ではない。

しかし、自分がとりあえず、なんとかできるのは自分だけというシンプルな現実は誰でも理解できる。自分の行為が歴史や社会には直接関わらないということは認識しておいた方がよ
い。常に、他者の媒介を通してしか社会には関われないのだ。

だから、猫君、拡声器をもってもよいし、もたなくてもよい。ただ、何とかする自分がいる
だけだよ。その何とかする自分が見えてこないから問題なんじゃないだろうか?
 

オレオレw

 投稿者:招き猫  投稿日:2009年11月 9日(月)00時42分26秒
  私的さ


独我論
遠近法主義

それに酔える豊かさはもうない。
 

左翼の倒錯

 投稿者:招き猫  投稿日:2009年11月 9日(月)00時40分34秒
  悪いことをするのは警察と検事だけらしい。
だから、監視の対象はこれらに限られるべきなのだろう。


あるいは、暴力革命のための準備を事前に察知されないように街角のカメラには反対なのかもしれないw


昔、畜群
今、猿w
 

やっと眠りについたのだろう

 投稿者:招き猫  投稿日:2009年11月 9日(月)00時35分38秒
  たみ象さん

須原さんのことでした。でも、心的エネルギーが別様に充電されたら読みたいと思っています。

永井氏のコメントは所見ではありながら、よく読んだような記憶の中で確認しました。
ポストモダンが”プレ”モダンのように日本では機能してしまうこと、大きな物語の終焉などは柄谷が言っていましたからね。他に、誰かも言ってたかなあ。

その柄谷は自壊させることをデビュー以来証明し続けてきた。それも転回を迎え、何やら構築に向かうことになったが、稚拙なものであった(ようですね)。その稚拙さは加速している(かもしれない)。一方(あるいはそれに同調して)、岩波新書に象徴されるように実に分かりやすく書けるように治癒した(ようでもあった)。

永井は基本的に独我論ですからね。要は自分しか興味ないw
というか、早い目覚めが彼に強いた自意識との格闘がたまたま哲学という土俵だった。

池田も同じようなもんだし。突き放し方も似てるw


そのような終焉の”終焉”こそが永井にも訪れると思いますよ。
>>
勝利が決定的になったとき、負けた側に対する共感が自分の内部から新たに湧き上がり、この勝利の上に胡坐をかいたすべてに嫌悪感を感じることは、たぶん、決定的な勝利のしるしだといえるだろう。
>>
は始まりですから。

それを哲学と呼ぶのか、それを左翼と呼ぶのか、そんなことは知らない。

だが、”真理”の要請は他から来ているように思うのです。
すなわち持続可能性の問題です。このあたりも後数年もすればはっきりすると思っています。そして、そのとき永井も積極性を獲得し構築するであろうと思っています。


今年の高卒内定率は歴史的な低さです。
そのような危機において、彼らは生まれたはじめて私的な意味の向こう側に驚愕するのです。だが、慄いてはいるがその向こうを見据える術を彼らは持っていない。従って、単に別の私的さを捜し求めてしまう人間が多い。そのニッチに左翼はまだまだ巣食うことはできるはずなんですね。ニッチとは派遣であり、障害者であり、いろんなマイノリティが要請するものです。

私はですねえ、左翼の息の根を止めないとならないと思っているのですよ。彼らを要請しない社会のデザインです。それを達成するものこそは実は左翼と名付けられるかもしれないし、そうではないかもしれない。でも、そんなことは後付で命名すればいいことなんですね。

たみ象さん、
永井は終焉の終焉を予感しているかもしれませんよ。
目覚めも近いんではないでしょうか。



数学はユークリッド幾何学のような基礎を持たないということになってしもうた。
科学は観測者問題において、客観的認識の不可能性を証明してもうた。
哲学に限らず、いろんなことが同調して”終焉”を告げているようにも思える。

クローンによって、独我論にも危機が訪れるかもしれない。
私的さの”根拠”さえ失うかもしれない。

そんなすべてのこととは無関係に

自由の平等へ
弱くある自由へ

非常に冷たい、無機質なリアリティが必然させる。

そう、それはちょうど宇宙空間に放り出された”私”がその私的さなど一瞬にして失ってしまうような絶対性を持っているんですよ。

私的さに戯れるのはまだまだ物語に酔いしれてるからかもしれません。

ま、そんな感じですね。
 

ラエリアンのセミナーに参加したんだけど、まだ報告していませんでした。

 投稿者:nelu( かわふくG)  投稿日:2009年11月 8日(日)23時20分18秒
  参加したのは
http://ja.rael.org/e107_plugins/raelseminar/raelseminar.php?c=5&s=109
このセミナーです。仕事が有るので、日曜日の昼までしかでれませんでしたが、

 受付をするために入ったら最初に配られたのは、こういうものでした。

http://www.asahi-net.or.jp/~TF2Y-KWI/erohim1.html

http://www.asahi-net.or.jp/~TF2Y-KWI/erohim2.html

裏は英語の

http://www.asahi-net.or.jp/~TF2Y-KWI/erohim3.html

 とりあえず、今日は寝ます。
 

>単純化は問題解決に近づいているんだという根本的倒錯がある。(招き猫さん)

 投稿者:ニャンコのフクちゃん( かわふく  投稿日:2009年11月 8日(日)22時08分22秒
    今、neluは、三島由紀夫さんの豊饒の海、第二巻「奔馬」を漸く読み終えて、第三巻「暁の寺」を少し読みかけたところでげす。第二巻もそうでげしたが、先に、三巻も先に解説を読んでしまったようでげす。neluはまたずっと体調が悪いでげして、またわたいの助けというか、前も申したように、本来、かわふくグループはわたいらぬいさんが主体のグループでげして、わたいらの主体性というのも、たしかに、廣松哲学のいう表情論なんかでも似たようなアプローチが出来るとはいえ、黒田寛一つあんのいうところの所謂唯物論的主体性とやらを卑俗化、俗人的ともうしませうか、招き猫さんが言う猿とかでもいいのかもわからんでげすが、畏まった哲学的世界から解放しようといういともあるのでございますでげす。

 今し方、neluはこの前、大磯グランドホテルでげしたか、ご一緒させてもらつたげす。最近はマイトレーヤとかいうらにしいでげすが、http://ja.rael.org/rael_content/index.php
 これでげす。この会員の豊川のCioran Emilさんに、今し方電話をneluはかけていたわけでげす。Cioran Emilに、「二巻を読んで、三巻に入ったけど、なんか今度はタイ国の王女とかに生まれ変わるんですか」ということをなんとなく聞いてみたようでげすが、Cioran Emilさんは、そのことにタイしてはお答えしてくれなくて、「三島由紀夫は割腹自殺したけど、あれは、やっぱり、死後の世界を信じているからなのかねえ」とかいうことを言うものでげすから、neluは「私も信じています」と答えていたでげす。
 電話のやりとりをもの凄く端折ってしまつたでげすが、先に読んでしまった、第三巻の解説に書いてある、唯識やら輪廻転生の話、・・・
 ちょっと引用するでげす。

 わたいの私事でげすが、わたいはメイドインジャパンではあるでげすが、インドにいたのでげす。どういうことかというと、カレーの店の名が「インド」だったわけでげす。

「タイ・印度体験ことに印度における「ベナレス」体験であったと思われる。年譜によれば、昭和四十二年九月、三島はインド政府の招待を受けて、夫人同伴で約一ヶ月印度に取材旅行し、帰途ラオス、バンコクに立ち寄っている。彼が感受したこのときの印度体験が、いかに強烈なものであったかは『暁の寺』全巻にみなぎり、あふれている。なんという、巨大で徒労な、現前するニヒリズムであることか! さきに「嵐のように襲って来た」と、三島自身が告白している「集結部」において、不意にフーガのように立ち現れてくるのも、この体験である」

 これより少し前は引用したいと思ったでげすが、股にするでげす。電話をしている間にアマゾンからの宅急便が届いたようでげす。前にneluが話したと思うでげすが、neluのお母さんに浪費を咎められないように、Cioran Emilさん宅に本が届くようにしてあるわけでげす。neluはCioran Emilさんすかさす゛こう申したでげす。「今、こうやつて電話している間に、その本が届くというのは偶然じゃないと思うよ。読んでみて・・・・グレイ宇宙人の話も書いてあるらしいです。イエス・キリストが地球人類がグレイ星人を救わなければならないとか言っている本も読んだことあります・・」といったら、Cioran Emilさんは「いろんな人か、まあいろんなことを言うからねえ」でしたでげすが、neluが注文したのは
うれしうれしで超えよう 2012年の銀河パーティ という本でげす。

以上が一応まえがきでげして、今から、豊饒の海第二巻「奔馬」の最後の方を長く引用するわけでげす。
 職業右翼と化している父飯沼茂之の警察へ密告によって、集団としての昭和の神風連の決起は失敗するのでけすが、今から少し引用する祝宴でののち主人公の飯沼勲・・これは、輪廻転生を主題とする、豊饒の海第一巻「春の雪」で悲恋ロマンスの主人公になった侯爵松枝家の御曹司、清顕の生まれ変わりでもあり、父飯沼茂之はその当時、松枝家に書生として清顕の教育を仰せつかっていたというややこしい関係でげす。
 ああっ、そうそう、この後結局、息子の勲だけは本懐を遂げて父のもくろみは失敗に終わって、第三巻の次の転生・・・小説の「起承転結」としても「転」でもわるわけでげすが・・・

 そいで、言いたいことは、職業右翼の飯沼茂之が「いいかね。お前がしらねばならないことは、この世の中が複雑に結ばれ合っておるということだ。」といっているわけでげすが、この考えは招き猫さんが言う「単純化は問題解決に近づいているんだという根本的倒錯がある」という意見と同じだとかわふくグループは確信したというわけでげす。
 そういうわけで、・・・ええっ、どなたか、招き猫さんに餌をやらないようにとかと言う御言葉があるようでげすが、我がかわふくグループはお花畑を作りたいとおもいまして、今日の書き込みも、そのささやかな種まきだと思っているわけでございますでげす。

 以上長くなったでげすが引用もながいでげす。長すぎてエラーしたらに、分割するでげす。ヘーゲル哲学出出てくる原始分割とか未消化でげすが・・・

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飯沼が次のことまで、はじめから言ってしまうつもりであったかどうか、本多は知らない。とまれ飯沼は沈黙を怖れていた。
 「いいかね。ここまでは、まだお前に理解できる範囲だろう。だがな、勲。大人になるにはもっともっと知らねばならんのだぞ。女子供の知らぬ苦い苦い知恵を嚥み込まねばならんのだぞ。それを通らずには大人になれぬという関門を、お前は過去一年体で通り、今ここで心で通らねばならん。
 今日までお父さんは言わずに来たが、この靖献塾がこうして盛大にやって行けるのは誰のおかげだと思う。え?誰のおかげだと思う」
 「わかりません」
 「名前を言ったらおどろくだろうが、他でもない、新河男爵のおかげなのだ。お前も佐和も、このことは塾生には決して言うな。塾の最高秘密だからな。この塾の建物だって、実は新河男爵が匿名で買って下さったものだ。もちろん恩返しに俺もいろいろ活躍をした。男爵は男爵で、無駄な金は使わなかったことになる。さもなければ、あの弗(ドル)買いの非難の嵐の中で、男爵が無事ですんだわけがないじゃないか」
 本多は又しても勲の顔を見た。何らおどろきの色のない冷たさが、本多を今度は慄然とさせた。飯沼は語り止めなかった。
 「新河男爵とはそういう関係だがで五・一五事件の直前に、俺は男爵に呼ばれたことがある。月々の金は秘書を通じて内密に渡っていたから、男爵がじきじきに会おうとされるのはよほどのことだ。
 そのとき男爵が、金額は言わぬが、大枚の金包みを俺に渡して唐われるには、
 『これは私のための金じゃない。はっきり言って、蔵原武介のための金だ。しかし、ああいう人だから、自分の命を買う金を出す筈がないが、私は蔵原さんには一方ならぬ世話になっているから、あの人には言わずに、私の一存で私が出すのだ。どうかこの金で、蔵原の身の安全を守ってくれ。これで足りなければ又出すから、そう言ってくれ』
 そこで俺は・・・・」
 「父さんは受取ったわけですね」
 「そうだ。受取った。新河男爵の先輩を思う人情に心を搏たれたからだ。以後、塾が大いに隆昌へ向っていろのは、お前も佐和も知っての通りだ」
 「だから父さんは、僕らを逮捕させて、蔵原を護ったわけですね」
 「そう思うだろう。それが子供の考えだというのだ。
 父親にとっては、いくら大枚の金を受取っても、何の縁もない財界の巨頭とわが子とどちらが人事かは知れたことだ」
 「つまり、息子の命も救い、蔵原の命も救い、新河男爵への義理も立つ、一番いい方法をとられたわけですね」
 ようやく勲の目がむかしのように燃えはじめるのを本多は快く見た。
 「ちがう。それがお前の考えの浅いところだ。いいかね。お前が知らねばならんことは、この世の中が複雑に結ばれ合ってとるということだ。天国へでも行かなければ、人間世界のこの結びつきは絶たれやせん。払えば払うほど、結びつきというものは身にまつわってくるのだ。志を堅固に持しておれば、しかし結びつきなどに煩わされることはない。
 俺は煩わされてはおらぬよ、勲。
 俺としては、いくら金を受取っていようとも、お前が新河や蔵原を刺せば、それでもよかったのだ。あとで俺がお詫びに腹を切ればすむことだ。そのくらいの覚悟は、金を受取ったときから俺にはちゃんとできている。商人が金を受け取ってって品物を渡さなけれぱ、それは詐欺だ。国士はちがう。金は金、信義は信義、それそれ別物だ。金は金で使い、信義のためには腹を切ればいい。それだけのことだ。
 その覚悟をだ、大丈夫の覚悟をお前に持ってもらおうと思って、俺は敢てこういう話をした。汚れて汚れぬ、それが本当の純粋だ。汚れを厭うていては何もできぬ。いつまでたっても大丈夫になれんぞ、勲。
 ここまで言えばえば、もうわかったろう。お前を逮捕させたのは、蔵原の命を救うためではない。いや、お前の命を救うためでさえない。あのときお前が決行して、命を拾てて、これが名を残す最上の道だと思えば、俺は喜んでお前を死地へ赴かせたろう。そうさせなかったのは、そう思わなかったからだけのことだ。いいかね。さっきも言ったから、繰り返すまい。お前の志を思い、わが子を可愛いと思えばこそ、俺は逮捕に踏切ったのだ。血の涙を呑んで踏切ったのだ。そうだろう、みね」
「勲、お父様のこのお気持を有難いと思わなければ罰が当りますよ」
 

資料提供

 投稿者:たみ象  投稿日:2009年11月 8日(日)22時06分35秒
  既にご存知?

長い引用でゴメス
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=997717045&owner_id=2841369
の11月24日本人コメント

***>>引用開始>**

 マルクス主義の終焉などと言っても、若い人には単なる一つの思想が有効性を失っただけのように思えるだろう。だが、実はそうではない。
 それは、よりよい世界の実現を目指す(というよりよい生き方をする)ために、世界と自己の本質を、因襲に従ってではなく、知的・抽象的に、自分の知性と感性によって、そのつど新たに理解していこうとする、「近代的な」といえる、世界観・人生観が終わったことを意味するからだ。それは、きわめて大きな文明史的転換を意味するはずだ。
 理解されるかどうか分からないが、これ以後われわれは「世界との直接的な繋がり」が断ち切られた。ポストモダニストが言った「大きな物語の終焉」とは、実はそういうことだった。現に今、われわれは、世界から断ち切られて、おのおの文化の特定領域の細部の知識をもってその代用とする、総オタク化の世界に生きている。現在の若い人たちは、事実、もう、そういう世界しか知らず、この転換をしらない。
 <学説>が<生>と一体化する(そのことで<世界>そのものと繋がる)時代が終わり、それとともに、「哲学」などというものも、世の中で尊重されるべき固有の意義を失った。その意味では、歴史的役割を終えたというべきだろう。以後、それは、個々人の私的な(つまりいわば趣味的な)意味しか持たなくなった。
 90年代に入って、例えば私の『<子ども>のための哲学』は、そのよううな歴史的位置づけのなかで、世の中に迎えられた。そこで私が提示した私的哲学観は、当時、年上のインテリたちから驚きをもって迎えられた(ずっと哲学書を読んできたという講談社の重役がそのことについて個人的に話したいと言って料亭に席を設けてくれたりもした)。今ではそのこと自体が不思議なほどだ。
 また分析哲学が優勢になったのも、結局、人生と社会と超越的理念とを一直線に繋ぐ哲学の役割が終わった(つまり世の中が哲学を必要としなくなった)ことの現われにすぎないだろう。
 私は、もちろん、その種の転換を歓迎したし、むしろ、この方向の「革命」のために闘ったとさえいえる。
 しかし、革命がいったん成就されてしまうと、われわれが何を「夢」として打ち捨て、どんな「友だち」をあえて殺してきたか、もはや見えなくなってしまうことに、少なくとも私は、かなり長い間、気づいていなかった。
 勝利が決定的になったとき、負けた側に対する共感が自分の内部から新たに湧き上がり、この勝利の上に胡坐をかいたすべてに嫌悪感を感じることは、たぶん、決定的な勝利のしるしだといえるだろう。

**<引用終り<<***
 

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