我が回想録『静岡市長選挙出馬』
連日の選挙報道で皆さんもいい加減ウンザリしているのではないか。
もうそろそろネタ切れのようにも思えるが、また隠し玉がいるなどと囁かれているので、ここは野次馬よろしく楽しみに待つとしましょう。
ところで、私も若い頃一度だけ選挙に出馬したことがある。今から21年も前の事です。当時私は32歳の若さだった、当時のポスターの顔写真を見ると本当に若かったとビックリする。
私が挑戦したのは昭和58年の統一地方選挙の年で、静岡市長選挙に立候補した。当時私は『日本憂国会』という右翼団体を主宰していた。黒塗りの大型宣伝カーに乗り、戦闘服に身をつつみ、誰一人知人などいない静岡市に乗り込んでの選挙でした。
告示日の2週間前にアパートを借りて、そこに隊員数名と寝泊りしての活動だったが、選挙期間が非常に長く感じられたのが今でも忘れられない。
今思うと青春の懐かしい想い出の一コマであった。
なぜ、静岡だったのか?それは当時日本の政界を牛耳っていたロッキード事件の刑事被告人・田中角栄の金権政治に対する批判活動の一環だった。田中角栄は5年の実刑判決を受けても政界を引退せず“政界のヤミ将軍”として君臨、数は力とばかりに田中派の膨張作戦を全国で行っていた。
丁度解散総選挙の直前の市長選挙で、この静岡県の選挙区では熊谷弘・戸塚進也の参院議員が田中派からの鞍替えを図っていた。この金権田中を政界からの追放を掲げての戦いであった。
「私は右翼団体を主宰するせと弘幸です。市民の皆様は我々の政治活動を見て驚いておられるようですが、今をときめく日本国総理大臣・中曽根康弘先生も、若かりし頃は右翼結社・青雲塾を主宰して、日の丸を掲げ当選したいわば我々の大先輩なのです。」
「国士・中曽根先生は行政改革によって散らかった部屋を大掃除して、床の間にかかった古い掛け軸、すなわち占領憲法ではなく、新しい憲法をかけよう。教育の正常化を成し遂げよう、それが戦後政治の総決算であり、自分の使命であると申しております。」
「国士・中曽根先生と私の考えは全く一緒です。ただ一つ違うのは、それは政界浄化・政治倫理についてです。すなわち田中角栄なる人物はただちに政界から追放されるべだと訴えているのです。私が今回この静岡市長選で声を大にして叫んでいるのも、実はこの国賊田中角栄が金権ごり押しによって・・・・・・・・・・・・・」
私は選挙期間中声をからして訴えました。勿論田中批判だけではない。
左翼陣営に対しても徹底的に論戦を挑み戦い続けた。
「左翼は靖国に参拝するなと言うが、ではあなた方は親が死んでも墓参りに行くなというのか。墓を作るなと言うのか。あなた方の子供はあなたが亡くなっても墓参りするどころか、線香一本もあげには来ないだろう。」
「戦争で確かに日本は負けました。でも日本だけが悪かったわけではありません。しかし『戦争に負けた』という事実だけで日本は悪役に仕立てられたしまった。このことが後の日本を狂わせてしまっています。だからこそ祖国のために命を捧げた英霊を国家が責任を持って守って行かなければならないと思います。それができないのなら、また日本はもう一度過ちを繰り返すことになるかも知れません。」
4人の候補者で争われた市長選挙で、諸派の私は3348票を獲得した。投票者の70人に一人が私に投票してくれた。全体得票総数の1・6パーセントであった。この右翼が獲得した得票率は戦後においては赤尾敏愛国党総裁に次いで多い数字だった。たぶんその後も破られてはいないだろう。
この選挙後の国会である法案が通過した、立会い演説会の廃止とポスター掲示の規制である。この年の地方選挙において、私のような右翼活動家が全国で金権田中追放を訴えて立候補したことが田中角栄の怒りに火をつけてしまったのだった。
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