第三章
器用な民 −−虚像から実像へ |
『中国史のなかの日本像』 王 勇 | |
■まえがき ■精巧な工芸品 ■注釈
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第三節 精巧な工芸品 宋代になると、日本工芸品の流入は著しくなってくる。前述の仏像はその一例にすぎず、そのほかにも扇子・日本刀・螺鈿などの流入があり、とくに社会や後世への影響からいえば、後者のほうが仏具類より遙かに大きいものがある。 また唐代に比べれば、扇子のような日本独創のもの、日本刀のような中国の工芸技術をしのぐものの流入が目立ちはじめ、日本を見直させる気運をつくったことは否定できない。日本伝来の芸術品は、精緻さにくわえて、量的にも少ないため、目を瞠るような値段で売られ、ときには伝説化されることさえある。 宋代の『清波雑志』などに載せられた「画牛」(牛図)伝説は、その顕著な例である。あらすじをかいつまんで紹介すると、次のようなである。 江南の徐諤が「画牛」の絵を入手した。画中の牛は、昼は欄外に出て草を食み、夜は欄内にかえって臥する。いかにも不思議な絵なので、朝廷に献上した。宋の太宗が群臣にそれを示したところ、誰一人としてその由来を知るものはいなかった。そこで、『宋高僧伝』を著わした博学な僧賛寧が前に出てきて、次のごとく答えた。 倭人は引き潮の時に海岸から蚌蛤をひろって、その体液を顔料に和して物に描けば、昼は隠れて夜は顕われる。また、沃焦山に火が燃えあがり、石が海岸に落下すると、これをひろって水を滴し色をみがき、溶かして物を染めれば、昼は顕われて夜は隠れるという。 このような怪奇極まりない話が宋代に流行ったことは、この時期に日本の高度な美術工芸が流入した事実に、なおも従来の神仙郷の幻想が色濃く投影していることを物語るものと思われる。 1,工巧を極める螺鈿器 永観元年(九八三)に入宋し、日本の典籍と中国の佚書を時の太宗に献じて、朝野の士を驚嘆させた東大寺の僧「然は、寛和二年(九八六)念願の蜀版『大蔵経』を下賜され、宋商の船に便乗して意気揚々と帰途についた。 数年後、「然は弟子嘉因らを遣わして、美文の謝表とともに数多の宝物を献上した。その献上品の数々は『宋史』(日本伝)によれば、次のごとくである。 仏経(青木函に納める)、琥珀・青紅白水晶・紅黒木槵子念珠各一連(ならびに螺鈿花形平函に納める)、毛篭一(螺杯二口を納める)、葛篭一(法螺二口を納める)、染皮二十枚、金銀蒔絵筥一合(髪鬘二頭を納める)、又一合(参議正四位上藤佐理の手書二巻及び進奉物数一巻・表状一巻を納める)、又金銀蒔絵硯一筥一合(金硯一・鹿毛筆・松煙墨・金銅水瓶・鉄刀を納める)、又金銀蒔絵扇筥一合(桧扇二十枚・蝙蝠扇二枚を納める)、螺鈿梳函一対(その一つに赤木梳二百七十を納める。その一つに龍骨十橛・螺鈿書案一・螺鈿書几一を納める)、金銀蒔絵平筥一合(白細布五匹を納める)、鹿皮篭一(貂裘一領を納める)、螺鈿鞍轡一副・銅鉄鐙・紅絲鞦・泥障・倭画屏風一双、石流黄七百斤を貢ぐ。
このなかで、漆器工芸を生かした螺鈿器として、螺鈿花形平函・螺鈿梳函・螺鈿書案・螺鈿書几・螺鈿鞍轡などがふくまれている。 螺鈿の工芸は中国に起源し、その歴史を周代にまでさかのぼらせる学説もあるが[11]、円熟期を迎えた唐代では奢侈品としてしばしば禁じられる羽目になったため[12]、中国では五代より以後は衰弱の一途をたどったのである。 また一方では、螺鈿の技法は遣唐使らによって持ち帰られてから、しだいに日本化され、宋代のころになって中国から喜ばれる輸出品となったのである。「然以外の例を挙げれば、藤原道長が長和四年(一0一五)七月、入宋僧寂照の弟子念救に託して、宋の天台山に施入しようとした物品は『御堂関白記』に、「木樓子念珠陸連(四連琥珀装束、二連水精装束)、螺鈿蒔絵二、蓋厨壱隻、蒔絵筥貳合、海図蒔絵衣箱壱隻、屏風形軟障陸条、奥州貂裘参領、七尺鬘壱流」と書きしるされている。 北宋のころ、方勺は『泊宅編』を著わし、「螺填器はもとより倭国から出ている。物象百態にして、頗る工巧を極める」と述べている。中国起源のことを忘れるほど、日本の工芸技術を過大評価している。 2,重宝される日本扇 螺鈿の例でもわかるように、宋に輸出した日本の工芸品は中国人の嗜好に迎合し、ひろく賞賛を博するに至ったのである。これらの輸出品のなかでも、とくに脚光を浴びるのは、大和絵などを描いた華麗な日本扇であろう。 煕寧(一0六八〜七七)の末、宋の都?京の相国寺で、日本の「画扇」が売られているが、手の出ないほど高値をつけられていた。宋・江少虞の編纂した『皇朝類苑』(風俗雑誌、日本扇)に、このことが書かれている。[13] 煕寧の末、私は相国寺に遊び、日本国の扇を売る者を見かけた。琴漆の柄、鵶青紙をもって餅のごとく厚くして、揲して旋風扇と為す。淡粉して平遠山水を画き、五彩をもって薄く塗る。近岸に寒蘆衰蓼を為り、鴎鷺が佇んで立つ。景物は八、九月の間の気配である。漁人は小舟を岸につないで、蓑をかぶって船上で釣りを楽しむ。地平線あたりに微雲と飛鳥がかすかに見える。意志深遠にして、筆勢は精妙である。中国の画伯もそれに及ばないかもしれない。値段ははなはだ高くて、そのとき貧しかった私は買えなかったが、しばし恨みと為す。その後、ふたたび市場を訪ねたが、ついに見つからなかった。 さきに挙げた「然の献上品にも、「桧扇二十枚・蝙蝠扇二枚」とみえ、これらの扇子は中国の団扇とちがって、折り畳むことのできる代物である。中国では摺扇・摺畳扇・摺子扇・聚扇・聚頭扇・撒扇などと呼ばれ、「海外の奇珍」として珍しがられた。 北宋の郭若虚の著わした『図画見聞録』(巻六、高麗国)によれば、高麗の使節はよく「点綴精巧」の摺畳扇をお土産物として中国に持ってくるが、「これを倭扇といい、もとより倭国に出づるなり」と説明している。 また北宋の有名な詩人蘇轍に『楊主簿日本扇』という詩があり、それは「扇は日本より来たり、風は日本の風に非ず」から始まり、「ただ日本扇を執るのみ、風の来るは窮くるなし」をもって結ばれている。 明代では、日本扇は勘合貿易のメイン商品として大量に輸出するようになった。『両山墨談』によれば、明の皇帝が日本から貢がれた扇子をあまねく臣下に賜わり、舶来品が間に合わなくなると、内府に命じて模造品を造らせたという。 「天朝大国」と自認する中国がついに「東夷小邦」とされる日本の文物を模造するようになったのだ。悠久にして広範な中日文化交流史のなかで、中国は西域の文物を積極的に取りいれて模倣することはあっても、東アジア諸国の文物を意識的に学ぼうとする姿勢はなかなかみられなかった。したがって、ここにも日本観の大きな転換が現わされているといえよう。 3,日本刀の値打ち 日本扇とならんで、日本刀もその切れ味のよさと装飾の華麗さによって、宋人から嘖々たる好評を浴びるようになったのである。 日本刀の伝入は、宋代になってから盛んになるが、じつは唐代にも輸出の例があったのである。阿倍仲麻呂(唐名は朝衡)は天宝十二載(七五三)ようやく一時帰国を許され、長安を発つ前に、李白ら親交を結んだ友人らに『命を銜んで国に還るの作』と題する留別の詩を残している。 命を銜み将に国を辞せん、非才ながら侍臣を忝くす。 天中にて明主を恋しがり、海外にあれば慈親を憶う。 伏奏して金闕をたち違り、騑驂は玉津を去らんとす。 蓬莱まで郷路はいと遠く、若木とは故園の隣りなり。 西を望んで恩をしのぶ日、東へ帰って義に感ずる辰。 平生ただ一振りの宝の剣、交を結びし人に留め贈る。 親交の友人に贈った「宝剣」は、阿倍仲麻呂の「平生ただ一振り」の愛用品とあるから、入唐のときに日本から携えてきたものであろう。 宋・欧陽脩の名高い『日本刀歌』は、玉をも切れる「宝の刀は近ごろ日本国より出づ」るが、江南の商人が「百金」を投じて「滄海の東」から入手し、「佩服してもって妖凶を禳うべし」と謳っている。また徐福が「百工五種」をもたらして日本に移住したから、「今に至って器玩はみな精巧なり」とも賞賛している。 また欧陽脩と同じころの詩人梅堯臣にも『銭君倚学士日本刀』という詩作があり、明代になると、倭寇の凶器として嫌われる反面、秘伝の技法として伝説化される傾向もみられるようになった。 |