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JAPANOLOGY  OF  CHINA

中国の日本研究

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日本文化の国際貢献

――扇子を例として――

王 勇

一、Japanの意味

 数年前のこと、日本語のできる中学生の娘に、誕生日のお土産にCASIO産の日英・英日電子辞典をプレゼントした。満足げに機械を弄りだした娘はしばらくして、突然「パパ、変だよ」と叫び出した。辞書の画面を覗いてみたら、「Japan」と打ち込んだのに、訳語リストに「日本」が出てこないということだった。液晶に反転されている言葉を確かめると、「漆器」と「漆を塗る」のみである。「変だなあ」と思って、「China」と打ち込んで翻訳ボタンを押すと、やはり「中国」ではなく、「陶磁器」と「瀬戸物」が表示された。この類いのコンパクト辞書には、国名や地名それに人名といった周知の固有名詞がスペース節約のためか、収録されていないことがわかった。

このような話を持ち出して、辞書の製造元に文句を申しつけるつもりは毛頭なく、むしろ面白い発見を誘発してくれたことにお礼を言いたくなる。「Japan」の語源は国名の「日本」なのか工芸品の「漆器」なのかは詮索しないが、ここで重要なのは西洋世界では長らく「黒い黄金」とも呼ばれる漆器によって日本文化、また精巧きわまりない陶磁器を通して中国文化をそれぞれイメージしていたことだ。つまり、西洋人にとって、日本といえば漆の国、中国といえば陶磁器の国ということになる。

  二、消費文化の限界

 本日は、世界が日進月歩にグローバル化している最中、日本文化はこれまでに世界文化にどう寄与してきたか、またこれからはどんな国際貢献が期待されるかをテーマにして、話を進めてまいりたいと思う。

 日本文化の国際貢献、つまり国際化した日本文化というと、みなさんは真っすぐにどんなものを思い描くだろうか。このような主旨を盛り込んだアンケートを、日本の大学で行なったことがある。大学生らの回答は十人十色だが、カラオケやらアニメーションやら漫画やらに集中し、インスタントラーメンとかトランジスタラジオとかも多かったことに落胆した。

 これらのものは確かに今日の日本文化の一翼を担っており、そして世界に広まったのも事実であろう。しかし、こうした消費文化または技術産品は、日本文化のすべて、あるいは世界に誇るべき日本文化の真髄では決してない。とくに消費文化の海外輸出は、政治的な要素や商業的な利益と絡んでおり、ときたま拒まれることがある。

 韓国による日本大衆文化の長い禁制がまさにその典型的な例といえる。数年前は、金大中大統領の英断によって、いったん部分解禁に踏み切ったが、今年の教科書問題でふたたび開放を中止した。つい最近、小泉純一郎首相の韓国訪問で、冷え切った両国関係がいくらか修復され、再度の解禁もおそらく間近いだろうとの観測がある。

このように、消費文化の海外輸出あるいは国際貢献には、限界がある。さらに重要なのは、消費文化は文字通り商品のように消費され、国際市場を一時的に賑わしたことがあっても、世界文化に大きく寄与することも、日本文化をイメージアップすることもあまり期待できないということである。

  三、扇子の国籍問題

外国人、ここでは西洋人を例とするが、国際社会に受け止められた日本文化のイメージを知るために、和製英語つまり英語になった日本語を調べれば、わかりやすい。たとえば、ノー、ハイク、カブキ、ゼン、コト、ボンサイといったように、日本人からみれば「不易流行」の伝統的なものが案外と多く、消費文化はかえって少ない。

国際化のあまり、発明元というか原産国がわからなくなったものもある。扇子はその一つである。シベリアとか北欧とかいう寒冷地帯の事情は明らかでないが、今や世界の人々にとって手放しのできない扇子はどの国が発明したかと問うと、おそらく「中国」という回答が圧倒的に多いだろう。

今から十年ほど前、中日の友人らと会合を持ち、なにかのきっかけで扇子の国籍問題が話題にのぼり、こちらは「Made in Japan」といったら、日本勢から「こりゃ中国ですよ」と一斉攻撃を浴びせられた。「いや日本だ」「いや中国だ」とお互いになんのためか分からないが、奇妙に譲りあって決着がつかないので、「中国製でも日本製でもなければ、朝鮮製でしょう」という妥協案が出て、いかにも東洋的な議論はいちおう終息した。

後日、中国のもっとも権威のある国語辞典『辞海』をあたってみたら、「摺扇」の項に「朝鮮より出で、宋の時すでに中国に入った」とある。宋代の文献を渉猟すると、たとえば北宋の『図画見聞志』は、高麗使が中国に来るたびに摺扇を「私覿物」つまり贈答品として持ってくると書いている。しかし、この記事の最後に「これを倭扇という。本より倭国に出づるなり」とある記述は、よく無視される。

一方、ほぼ同じころ、扇子の日本起源を示唆する文献も少なくはない。永観元年(九八三)入宋した東大寺の僧 「然 ( ちょうねん ) は、宋帝から念願の蜀版「大蔵経」五〇四八巻を下賜されて帰国したが、数年後に弟子らを遣わして、美辞麗句を連ねた謝表とともに数多の宝物を宋帝に献上した。その献上品リストに「桧扇二十枚、蝙蝠扇二枚」が入っている。

高麗伝来の扇子はその扇面に人物・山水・動物・花草などを描いているところからみれば、扇骨に紙を貼った蝙蝠扇にちがいないが、じつは桧扇の起源がもっと古い。桧扇の発生について、権威ある『国史大辞典』(吉川弘文館)は九世紀前後とし、松村明博士の編んだ『大辞林』(三省堂)は平安時代の前期と推定している。

ところが、二十年ほど前、平城京遺跡の発掘で、数枚の桧扇らしきものが見つかり、伴出の木簡から奈良時代の中期、つまり七四七年ごろの遺品と分かったのである。これによって、扇子の日本起源説はほぼ確実なものとなった。

  四、独創と模倣の間

折り畳み式の扇子が日本に発祥したことはおそらく間違いなかろうが、だからと言ってただちに「日本人の独創」と断言できるとは限らない。というのは、桧扇の起源が中国伝来の木簡とかかわりがあり、扇子の両面に紙を貼るのも日本人の発案ではなかったからだ。

桧扇の起源については、朝笏や木拍子などの諸説があるが、平安時代では公家らが天皇に謁見するときに所持していたもので、それに報告事項などをメモしていた。最初は扇子としての実用的な機能を備えていなかったことは、「冬扇」の呼び名によってもうかがわれる。

奈良時代では、紙はなお貴重品であり、廉価の木簡が多用されていた。そのころ、律令制度の導入で、役所間を行き交う文書がすでに複雑になり、天皇へ報告するときにも木簡の一、二枚だけでは用が足りなくなる。そこで、数枚の木簡に分けて用件を書きつけ、順調を間違えないように、両端に孔をあけて紐を通し、下端を束ねて上端を開けるようにする。それが桧扇の原型だろうと考えられる。

桧扇を「冬扇」と呼ぶのに対して、蝙蝠扇は「夏扇」と称される。蝙蝠扇の語源については、明の鄭舜功の著わした『日本一鑑』は蝙蝠の自在に伸縮する手翼を模倣したものだと説明しているが、「かみはり(紙貼)」から「かみほり」を経て「こうもり(蝙蝠)」になったと推察される。

桧扇はあくまでも儀礼用具であり、風をあおったり暑さを払ったりするには不都合である。したがって、桧扇から蝙蝠扇が生まれてくる必然性は乏しい。私見では、蝙蝠扇の発明は中国伝来の団扇に触発されたものと考えたい。しかも、それは紙が大量に生産され、桧扇が形骸化しつつあった平安中期より以後のことだったと思われる。九世紀の末期ころ、「然の献上品に桧扇が二十枚あるのに対して、蝙蝠扇が二枚しかないのは、このあたりの事情をよく物語っているではないか。

蝙蝠扇は文字通り、木簡をすこし細くした数枚の扇骨の単面に紙を貼ったものである。しかし、そのころ中国では団扇の耐久性と鑑賞性を考慮し、扇骨を増やし、二枚の紙を重ねるようにして扇骨を差し込む技術を開発している。こうした技術を蝙蝠扇に活用した改良型は中国で考案され、まもなく「唐扇」として室町時代の日本に逆輸出され、末広・雪洞・鎮折などの新しい扇形を生み出した。

明代の勘合貿易によって、大量に中国へ輸出した「貢扇」は、唐扇の利点を取りいれながらも、扇骨一面に彫刻を施し、扇面に金銀の色を多用した日本画を描くなど再改良したものである。

このように、扇子は異文化との出会いから生まれ、世界をかけめぐるうちに改良され、文化交流を通して自己を完結させつつあるものである。まさに模倣と独創を繰り返しながら、生命の路程をたどっているのである。

  五、実用品と工芸品

平安時代の中期ごろ、源順の撰した『和名類聚抄』では、「扇(和名阿不岐)」と「団扇(和名宇知波)」を挙げ、すでに倭扇(おふぎ)と唐扇(うちわ)を区別している。中国では、倭扇の持つ伝統的な団扇と異なる外形と機能がまず注目される。

日本伝来の扇子は、自在に開閉できる機能を具えているから、中国では「摺扇」「聚扇」「撒扇」「聚頭扇」「折摺扇」「旋風扇」などと呼ばれていた。北宋の名高い詩人蘇軾(号は東坡)はその便利さを「展ずれば広さ尺あまり、合すれば両指ばかりのみ」と賞賛している。蘇軾の弟で、詩人としても知られる蘇轍は『楊主簿日本扇』と題する詩にこう詠っている。

扇は日本より来たれど、風は日本の風にあらず。(中略)

ただ日本扇を執るのみ、風の来たるは無窮なり。

中国の扇子は天地をかたどって、円形か方形につくられるが、日本扇はそのいずれにも当てはまらない奇妙な造型をもって珍しがられた。明の太祖は『倭扇行』という詩のなかで、倭寇への憎悪をあらわにしつつも、「人風と俗礼は奇しくも扇を尚び」「巻き舒ぐるは矩にも規にも非ず」と歌っている。ここで「矩」は方形で地を、「規」は円形で天をあらわしている。

このように、日本扇は北宋時代から、無窮な風をまねく携帯便利な舶来品としてもてはやされ、たちまち普及しはじめた。明の陳霆の著わした『両山墨談』は、当時の世風を次のように伝えている。

 宋元より以前、中国には未だに摺扇の制はない。(中略)倭国がもって貢に充てるに及んで、朝廷はもって遍く群臣に賜予する。ここに天下はついにこれを遍く用い、古扇は則ちただ江南の婦人が猶もその旧を存するのみで、しかも今持する者はまた鮮れなり。

つまり、明代のころ、摺扇は日本からの輸入と中国側の模造によって、一種のファッションのごとく大いに流行り、伝統的な団扇は「古扇」として廃れ、江南の一部の婦人をのぞけば、ほとんど使われなくなったという。

日本扇は実用品として世界に大きく貢献していると言えるが、それと同時に芸術品としての日本扇の国際貢献も忘れてはならない。

 煕寧(一0六八〜七七)の末、宋の都汴京の相国寺で、日本の「画扇」が売られているが、手の出ないほど高値をつけられていた。宋・江少虞の編纂した『皇朝類苑』(風俗雑誌、日本扇)に、このことが書かれている。

 煕寧の末、私は相国寺に遊び、日本国の扇を売る者を見かけた。(中略)淡粉して平遠山水を画き、五彩をもって薄く塗る。近岸に寒蘆衰蓼を為り、鴎鷺が佇んで立つ。景物は八、九月の間の気配である。漁人は小舟を岸につないで、蓑をかぶって船上で釣りを楽しむ。地平線あたりに微雲と飛鳥がかすかに見える。意志深遠にして、筆勢は精妙である。中国の画伯もそれに及ばないかもしれない。値段ははなはだ高くて、そのとき貧しかった私は買えなかったが、しばし恨みと為す。その後、ふたたび市場を訪ねたが、ついに見つからなかった。

 日本の絵画は扇子を媒介として海外に伝わり、また扇子に施された独特な彫刻や着色の技術も世界へわたったのである。中国や韓国などには「扇面画」と呼ばれる美術作品が多く存在し、また雑技(サーカス)や漫才そして京劇などには扇子は欠かせないものとなっている。日本扇の国際貢献は、実用品よりも芸術の方によく現わされているといえよう。

  五、文化伝播の原理

文化は生き物である。「生命は運動にあり」とのことわざがある通り、時間的に継承され、空間的に伝播しなければ、どんなに優れた文化も活気を失い、いつの間にか化石になってしまう。そして、時間的な継承とは「独創」にたとえれば、空間的な伝播は「模倣」にあたる。

地域間における文化の伝播は、輸出側の押し出す力と輸入側の吸い取る力の相互作用によってなされる。押し出す力が強すぎると強制的になり、吸い込む力が大きすぎると消化不良を起こしてしまう。要するに、文化伝播において推力と引力のバランスを保つことが重要である。

政治的な思惑あるいは商業的な打算をひそかに持って輸出しようとした「文化」は、たいてい思う通りにいかないことを、古今東西の歴史が生々しく教えてくれたのだ。血と涙に満ちたキリスト教の世界伝播史をふりかえってみれば、強制的な文化輸出が輸出側にとっても輸入側にとっても悲劇であることをあらためて思い知らされる。

日本も第二次世界大戦中、アジア各地に神社をつくったが、今は跡形もなく取り壊され、ただアジア人の苦痛と日本人の恥として記憶に残されているだけである。それと対照的に、仏教の伝播は多くの貴重な遺産を後世に残してくれた。受容・変容・創造・発展といった諸段階をへて、インドに起源した仏教文化はしだいに中国化し朝鮮化し日本化して、東アジア世界の文化繁栄に大きく貢献したのである。

異文化の伝統と風土を無視した殖民文化は、国際貢献とは無縁である。空間的に伝播しながら、新しい文化を生み出させることこそ真の国際貢献といえよう。そして異文明のなかに新しい文化を萌芽させるものは大抵、世界に類例の少ないその民族の独自なものである。俳句・浮世絵・扇子のようなもっとも日本的なものが国際的になれたのは、そのためである。

『仏教文化講座たより』、妙法院門跡2002年2月

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