『護教の盾』掲示板

承認制です。
み旨ならまたの機会に - されじお
2009/10/25 (Sun) 21:36:11

ジェンマさん、よく分かりました。また神様のお許しがあれば,どこかでお話し合いをしましょう。ここで打ち切っても、決して神様のみ旨に背くことにならない,と思います。

小生は,投稿の場合、相手の方と共に、必ず読者にも話しかける気持ちを持っています。

司教様方に悪口雑言する連中には、力の限り抗議すべきである──こういう使命感を最近、強く感じました。

この件で、最近ある司教様反逆派のブログから、ほとんど除名と同じような処分を頂きました。それ以来です。相手の方々から、「お前はもう年寄りだから引っ込んでいろ。祈りに励んだり,山を散歩して、静かに余生を過ごせ」などという,忠告(?)を頂戴しました。実は、今までも何度も似たような処分、忠告を受けました。最近では「イエスの惑星BBS」です。そのたびに自分も「恐らくそうなるだろう」と思いました。

ところが実際は違うのですね。除名ないしは似たような処分を受けるたびに、何故か分かりませんが,モリモリと闘志が沸いてくるのです。

天使の声を聞くようなんです。今回は次のように感じました。

『司教様反逆派に対して,お前は今までかなり熱心に抗議をした。神様は,まずまず満足しておられる。今後も、そのようにすべきだ。だが今後は怒り、憤り、厳しい言葉、粗野な発言は、もはや用いなくても良い。神様は、お前の努力に関係なく,ご自分のみ旨を行われる。しかしながら、同時にお前たちの努力も喜ばれる。今後は焦慮することなく、悠々として平静に、勤勉誠実に、司教様反逆派を糾弾せよ』。

事実、今直ちに、その機会が、次々与えられているのを、パソコンを開いてみて気づきました。ただ残念なことに、教会や家庭の問題で、なすべきことが山積、この投稿も、暇を見つけて、やっと完成しました。

今後も一つ一つこなして、司教様に悪口雑言することが、いかに罪深いか、教会の栄えをいかに損なうものか、そしてご当人ばかりでなく、無関係な信徒にまで、いかに厳しい神の罰をもたらすかを、訴え続けていきたいと思います。

今日、所属教会で、ある修道会神父さまの金祝記念祝典がありました。会の管区長が仰いました。「司祭が50年も、聖なる務めを果たせたのは、もちろん本人の努力もある。しかし信徒の皆さんの、大いなる協力も必要であった。信徒が司祭を支えてくれた。司祭金祝のお祝いは、両者の協力の賜物です」。

この神父さま、日本に来日するときにも、上長の命令に素直に従われました。また長い間、教誨師として尽力されたのです。きっかけは、当時の邦人司教のご命令に直ちに従われて結果です。全くの素人だったのに……。

日本の教会の発展も同じです。司教様に悪口雑言して、どうして神の恵みが教会に豊かに降るでしょうか。たとえ司教様に不満があるとしても、面と向かって非難するなんぞ、信仰ある信徒のすることではありません。そんなこと、教会の教えにも聖人たちの教えにも全く反しています。そういう場合はどうすべきか。司教様反逆の方々は全く勉強しておられません。甚だしい怠慢です。世俗社会でも自分の属する団体の長に、あれほど無礼な非難言葉を浴びせかけるでしょうか。もう少し工夫をすべきです。

信徒と司教が協力して、初めて教会の大いなる発展があるのです。

小生、ますます使命に邁進する意欲を感じます。

ジェンマさんとも、また機会あれば、話し合いをしましょう。ありがとうございました。
これ以上の説明は致しません - ヨゼフ・ジェンマ
2009/10/25 (Sun) 13:23:28
されじおさん。

私はされじおさんの発言に関し「私は人に対してこのように宣言する精神をまったく好みません」と書いたのでしたが、それを受けてされじおさんは「(あなたは)小生の言葉遣いがあまりお気に召さないようですが」とお書きになりました。
私は、この段階で、「ああ、これは通じないわ」と思いました。

私はあなたの「言葉遣い」を「あまり好きでない」と言ったのではなく、あなたの「精神」を「まったく好まない」と言ったのです。
また、「好まない」というのも、単に感情における「好き嫌い」のことを言ったのでもありません。

繰り返します。
されじおさんは「言葉だけではなく……」とおっしゃいます。しかし、私はそもそも「言葉」のことを、その表面的なことを言ったのでは〈ない〉のです。だから、「されじおさんの言葉遣いを好まない」と言わずに「されじおさんの精神を好まない」と言ったのです。
私はこの場合-------相手がされじおさんの場合-------決して「言葉遣い」という言葉を出しません。その言葉を採用しません。最初からそうなのです。

たとえば、もう一度挙げますが、

>> (私は今後も)反逆街道まっしぐらのmaggieさんに
>> ベチャーとストーカー(するつもりです)。
>> (maggieさんを)大回心させて池永大司教様、
>> 特に松浦補佐司教様に忠実無比の女パウロにして見せますからね。

> これなんか、自分ではかなりうまく言えた,と思っているんです。

これは単に「言葉だけ」「言葉遣いだけ」の問題ではありません。よくお考え下さい。これはされじおさんの「言葉遣い」ということを超えて、それに留まらず、されじおさんの「精神」の何事かを顕わしているのです。そして、これは単に一例であるに過ぎません。されじおさんの文章の〈全て〉が、されじおさんの「精神」を、「人間」を語っているのです。
(他の人の場合も同じですが。私の場合も。)

繰り返します。
私はされじおさんの二、三の表面的な言葉を問題にしているのではありません。私が問題にしているのは「言葉遣い」ではありません。「荒々しい言葉遣い」(by されじおさん)も「優美なる言葉遣い」(by されじおさん)も問題にしていません。

これ以上の説明は致しません。

> もちろん言葉遣いが,その人の人品、思想、生活を
> 判断する重要な要素となることもありますよ。
> でも、小生の場合は、そうではありません。

されじおさん、そのようなことは自分で言うものではありません。こういうところからしても、あなたは、「甘い」と言うか、「大人でない」と言うか、あるいは、どうにかなさっておられるのです。ここはどうか、大人らしく、また、普通に、「何事も、そう思われ、そう受け取られるのも自分の不足、至らなさである」と思って、お引き取り下さい。

私はあなたと「宗教」について話すことはできません。また、何事についてであろうと、あなたと「緻密な話し合い」(by されじおさん)をすることはできません。

> よい思想は、物を書くことによっても養われます。

私はあなたからこういう言葉を聞きたくありません。

前回、「あなたという人との対話をお断わりします」と書きました。今回、「お引き取り下さい」と書きました。しかし、されじおさんが望むのであれば、もう一度だけお書き下さい。私はそれに応答しません。それで終わりにして下さい。それ以上投稿しようとすれば、投稿禁止にします。

けれども、あなたは私にメールすることはできます。
されじおさんご自身には、それほど悪意はないのですから。
いや、「それほど」ではなく「まったく」なのですよね。
誰しもがそうなのですが。
言葉だけでなく…… - されじお
2009/10/25 (Sun) 07:16:34
ジェンマさん、もう少し緻密な話し合いをしましょうよ。せっかくここまで辿り付けたのですから。

小生は学校を卒業してから四十年以上仕事をしましたが、うち三十年は、工場内で時間に追われ、汗水垂らして働く労働者でした。事務的な仕事は十年もしたかしなかったか。言葉遣いなんぞに気を遣うような環境じゃなかったのですよ。

もちろん言葉遣いが,その人の人品、思想、生活を判断する重要な要素となることもありますよ。でも、小生の場合は、そうではありません。そういう人、社会には他にもいると思います。「辞は達するのみ」荒々しくても,相手に一番早く分かればよい環境での生活でした。

一応、学校時代には徒然草や伊勢物語など読み込みました。ブログに書き込むようになってから、疑似古文で投稿した事もあります。

だから、あなたが優美なる言葉で対話を続けたいと仰るなら、まあ、お気に召す言葉遣いで,出来ると思いますよ。言葉遣いだけで小生の宗教観やその他の問題を判断しないでくださいね。

あなたのブログは懐が深いので,一度に言い尽くすことは出来ないのですが、次のように感じます。

聖ピオ十世会がお気に入り──よく分かりました。小生は、あそこの小野田圭司という神父さまのブログ「マニラの eそよ風」の愛読者です。あの神父さまは,驚くべき秀才ですね。こちらの知りたいことをきっちり解説してくれます。全く満足することもあります。

あの方のミサに誘われたことが,何度もあるのです。熱心なフアンがいましてね。でもね、十世会が教皇様と仲直りしていないでしょ。あの方のミサに出席すれば,異端になるかも知れない,という怖れで行ったことないのです。あの人のお話も、ローマに反すると思われることは,注意して聞くようにしています。
ローマと全面和解されれば,そのミサに、いの一番に飛んでいきます。あれほど豊かな学識の司祭、ローマ・カトリック教会の人であれば、どんなに信徒に貢献するでしょう。岩下壮一師のような……。残念な限りです。

それから、成合明人神父さまも、非常に尊敬しています。特に産児制限反対の論説は,あの方の右に出る人はいないではないですか。あの方のミサなら,行きたいと思いますが,何しろ遠いのでだめです。ただ成合神父さまに、違和感を感じることが二つ。一つは手による聖体拝領を不必要なほど執拗に反対されたことです。今ひとつは,メジュゴリエなどに反対されています。メジュゴリエはまだ正式に認可されていませんので,小生も、ただ見守るだけですが、あれほど強く反対するのは,行き過ぎだと思います。正当な御出現かも知れませんから。

くどくど書きましたが、ジェンマさんも,小生が知りたいと思っていることを推量して頂いて,差し支えない程度に概説をしていただければ,幸甚です。

それって、多くの読者のためにもなりますよ。また、あなたは大変才能に恵まれていますので、よい思想を抱かれれば、教会のために大きな奉仕ができます。才能も良い 思想に導かれないと、十分に働けないし、悪い思想に導かれた場合は,気違いに刃物となります。よい思想は、物を書くことによっても養われます。積極的に開陳してください。
されじおさんへ - ヨゼフ・ジェンマ
2009/10/24 (Sat) 12:13:09
>> (私は今後も)反逆街道まっしぐらのmaggieさんに
>> ベチャーとストーカー(するつもりです)。
>> (maggieさんを)大回心させて池永大司教様、
>> 特に松浦補佐司教様に忠実無比の女パウロにして見せますからね。

> これなんか、自分ではかなりうまく言えた,と思っているんです。

されじおさん。
あなたが上のように言った段階で、
私はあなたという人との対話をお断わりします。
「宗教」とか何とか言う以前の問題です。
長いレスに深謝 - されじお
2009/10/24 (Sat) 11:59:39
(管理人より。新しい投稿が常に一番上に表示されるようにするために「返信」のボタンを削除すると共に、「されじおさんへ(3)」に頂いたされじおさんのレスを私の手でここに移動させて頂きました。)


2009/10/24 (Sat) 01:01:37

ジェンマ様、初めての投稿に大変詳しいレスをくださりありがとうございます。
あなたのHPに大変興味を持っているのです。先に挙げたものの他、ポルトマウリチオの聖レオナルド「救われる人の数の少なさ」もハードディスクに保存しています。

小生の言葉遣いが,あまりお気に召さないようですが、いままで司教様に反対するブログや掲示板で,かなり激しい議論をして参りました。その結果「イエスの惑星BBS」でも,ほぼ除名処分に、また「聖母の花園」でも,ついに、三日前に同じような処分になりました。

何しろ相手は多数でこちらは一人でしょ。感覚的に申しますと、一対十位で論争しているような感じです。それで言葉遣いがどうしても荒くなるのですね。柔なことを言っていては、言い負かされるでしょ。
今ひとつこちら少数派(ほとんど一人ですが)としては、言葉の面白みもいるんですね。あなたはお嫌いのようですが

> (私は今後も)反逆街道まっしぐらのmaggieさんに
> ベチャーとストーカー(するつもりです)。
> (maggieさんを)大回心させて池永大司教様、
> 特に松浦補佐司教様に忠実無比の女パウロにして見せますからね

これなんか、自分ではかなりうまく言えた,と思っているんです。

まあ、小生は、今のようなネットにおける、司教様への悪口雑言は──真面目に感じているのですが──神様から大きな罰を招く。従って,教会のためにも、全力を挙げて防止すべきである、と思っています。

ところでジェンマさんに対する興味というのは,例えば、あなたが聖体拝領を手ではなく舌ですることを勧めておられますね。まあ、小生は、ローマの方針には出来るだけ従うものですが、手か舌か、など、それほど信仰上、重要とは思えないんです。司祭の指示に従って,臨機応変にすればいいじゃないか,と思っているのです。ジェンマさんは,どうしてそう、こだわられるのでしょうか。いえ、これは何も論争しているのではないんです。単なる好奇心の問題です。

そのほかにも,このような種類の聞きたいことがあるのですが,今後おたずねするかも知れません。差し支えない程度にお答え願えれば,幸いです。
されじおさんへ(4) - ヨゼフ・ジェンマ
2009/10/22 (Thu) 20:36:26
されじおさんに対するものとしては既に十分書き過ぎですが、私の考えをなお分かり易く絵で表わせば(誤解なく。「子供扱い」ではありません)、次のようになります。

「傲慢」と思われかねない絵ですが、私が私の心(感情)において事実傲慢であるかどうかは別にして、とにかく信仰における「事の真実」はこの通りであると私は「考えて」います。

されじおさんへ(3) - ヨゼフ・ジェンマ
2009/10/22 (Thu) 20:25:15
たとえば・・・されじおさんは掲示板「聖母マリアの花園」で次のように書いておられます。(括弧は私の補足です。)

> (私は今後も)反逆街道まっしぐらのmaggieさんに
> ベチャーとストーカー(するつもりです)。
> (maggieさんを)大回心させて池永大司教様、
> 特に松浦補佐司教様に忠実無比の女パウロにして見せますからね。
http://9222.teacup.com/immacolata/bbs/400

これがされじおさんの「戯言」的要素を含んだ言葉である可能性を割り引いても、私は人に対してこのように宣言する精神をまったく好みません。
(脱線して因みに言えば、これは「主権回復を目指す会」代表、西村修平氏の「我々はまた来るぞ〜! 何回でも来るぞ〜! 来るぞ〜! 来〜るぞ〜!」を、ちょっと、ちょっとだけw、連想させるものですw
http://gokyo.ganriki.net/diary2009/d-2009-10-10.html#kuruzo
脱線した注:単純な傾向のある人達は「ヨゼフ・ジェンマは西村さんがリチャード・コシミズ氏の敵だからこのような見方をするのだろう」と直ぐにお思いになるわけですが、それは違います。私の西村氏へのこのような感じ方は遥かにそれ以前のもの、ヨゼフ・ジェンマに固有のものです。)

それから、「誰であれカトリックの信仰を持つ者が『松浦補佐司教様に忠実無比の信者』になることは悪くないことである」というあなたのお考えも、私の容れることのできるものではありません。されじおさん、ここを訪れて日の浅い人達に分かり易いように「Profile」に少し加筆しておきましたが、私は「聖ピオ十世会の99%の支持者」なのです。
http://gokyo.ganriki.net/pages/profile.html
ですから、あなたが彼ら(「イエスの惑星」や「聖母マリアの花園」での中心的発言者たち)と離れているよりも、一層、あなたと私は離れています。会話を始めることは物理的には可能です。しかし、実りはないでしょう。

そして、「聖職者を批判することの是非」については、私の今までの記事においても、私の旧掲示板(上に↑リンクあり)においても、また夢之介さんの掲示板「イエスの惑星」においても、「あまりにも既出」なのです。そう、あまりにも、あまりにも既出です。彦左衛門さんなどは今も同じ説明を繰り返す労を厭いません。けれど、私は厭います。短気だからです(笑) 同じことを繰り返す気になりません。

されじおさんの言葉の使い方の乱暴さも私はかなり気になります。されじおさんは彼らに「反司教」「反聖職位階」という言葉を付しています。しかしこれは〈言葉として〉あまりに乱暴なものです。「ニュアンス」というものを欠いた言い方です。「彼らの言動・態度が良いものかどうか」の検討に入る以前に、私はあなたの〈言葉の選択(感覚)〉が適切でないと考えます。
ですから、この意味でも、私は、されじおさんとは「議論」することは難しい、と考える者です。
されじおさんへ(2) - ヨゼフ・ジェンマ
2009/10/22 (Thu) 20:20:38
さて、されじおさん、改めて、ご投稿ありがとうございます。
けれど、以上に見るように、ここの管理人が他のどの掲示板の管理人さんよりも何かとうるさく、「オープンなかたちの掲示板」を作ったところで結局かなりの禁則や言論統制をかけたがり、人の取捨選択をもしたがる人間であることを、ご理解頂きたいと思います。

私はもともとは開放性のある「ケツの穴の大きい」奴なのですが、それでも、世の「議論」や「意見の交換」なるものの〈有り様〉を見ていて、すっかりその実りのなさを実感してしまったものです。
されじおさんへ(1) - ヨゼフ・ジェンマ
2009/10/22 (Thu) 20:18:49
されじおさん、ご投稿ありがとうございます。

まず、遠回りの書き方をします。
私は次のような「癖」を持った人間です、ということで。

掲示板「イエスの惑星」が休止になってから、私は、「イエスの惑星」と似たオープンなかたちの掲示板を、こことは別に立ち上げようかと考えていました。そして、そこでの管理人としての前口上(注意書き)として、次のようなものを考えていました。

******************
管理人がヨゼフ・ジェンマということで、どれだけ利用者があるか分かりません。しかし試みとしてやってみます。論争、個人攻撃、OK。ただし、ここで言う「個人攻撃」とは「批判が個人に向けられる」という外形だけを意味します。それは悪いものではないどころか、普通に在って良いものです。ただし「個人攻撃」はその〈質〉が問題です。管理人が「これはあまりに低質だ」と判断した場合、書き直しをお願いしたり、場合によっては削除したり、また場合によっては出入り禁止にさせて頂いたりすることがあります。あまりに低次元なかたちで他者への基本的敬意のないものも排除します。たとえば、常日頃から他者に対し簡単に「お前」とか「あんた」とか言えるような人格です。それは排除します。また、管理人が「不必要発言」(不必要且つ無益なかたちで当面の議論の〈線〉を乱すもの)と判断したものにも同様の処置を執ることがあります。真剣な議論に伴ってエキサイトした、少々感情的になった、少々表現が辛辣になった、歯に衣着せぬ態度になった、という程度のものはその対象としません。カトリック聖職者に言及する時に「○○司教」という言い方は可としますが、「○○」という呼び捨ては不可とします。最新の投稿の上に個別テーマを扱う「スレッド」が表示されます。議論を詰めるために新スレッドを立てたい時は、このページか管理人へのメールで提案して下さい。
******************

しかし私は「そこでどのような会話が展開されるだろうか」をもう一度よく考え、想像して、結局、うんざりとした絶望感に陥る前に、そのような掲示板は作らないことにしました。

人間のかたちをしているどんなものも「議論」のテーブルにつく時代です。
初めまして - されじお
2009/10/21 (Wed) 21:40:37
「聖母マリアの花園」というブログに下記のような書き入れをしましたら、ここのアドレスを教えてくれました。


ヨゼフ・ジェンマさん初めまして。サレジオと申します。

小生の立場は、今ブログや掲示板で流行している反司教、反聖職位階の風潮に強く反対する司教様絶対擁護です。

あなたのブログにしばしば訪問させて頂いています。非常に水準が高いので、いつも勉強になります。あなたが紹介された本の「隠されている宝──ミサ聖祭」(聖レオナルド著)を購入いたしました。ついでに聖体奉仕会発行の「秋田の小さな修道院の物語」「天と地を結ぶ愛の手」〜ダミアン神父の生涯〜もいっしょに。

あなたの日記も愛読しています。早く全体の目次を整備してください。読みやすいように。

それから少し好みを言わせて頂ければ、教皇パウロ二世やシスタールチアが偽物であるとかないとか、そういう話は、好きではありません。それから、以前書いておられた、手による聖体拝領が嫌いで、舌による拝領を強く進めておられましたね。あのようなことも、信仰の本質ではないと思いますので、熱狂的に推進すル必要はないと思います。

あなたが反司教反聖職位階の立場かどうか分かりませんが、もしそうなら、今後少し議論させて頂くかも知れません。

でも、あなたの海外のニュース紹介など、非常に面白く思います。聖パトリック寺院の怪しげな像など、ショックを受けました。

ここをおさらばしないで、また、新しい珍しい記事が出来れば、紹介してください。楽しみにしています。

蛇足ですが、ハンドルネームは出来るだけ変えないでください。これによって筆者が一目で分かりますから。
無題 - マリア・ヨハンナ
2009/09/26 (Sat) 21:02:37
>>During the ceremony, there was a time for introduction of guest including two Catholic clergies who is very eager to ecumenical activities with Anglicans. Both the Archbishop and the Auxiliary Bishop of Tokyo Archdiocese did not attend perhaps to avoid criticism.
http://nomoreheresy.blogspot.com/2009/09/anglicans-held-ceremony-at-catholic_25.html

このような人たちが 私たちを永遠の命に導く人たちなのですね。
私がとても不愉快に、それもこの聖職者たちの人間としての資質を残念に思ったのは、「司教,補佐司教は 非難を受けるために 欠席した」この一行です。

貸すことが カトリックに 沿っていないことは充分に分かりますが,それでも 信念を持って貸したのなら,胸を張って堂々と 説明できる態度が欲しかったとおもいます。

これでは ..猫のようではありませんか!!
Re: 無題 - ヨゼフ・ジェンマ
2009/09/26 (Sat) 23:51:09
アヴェ・マリア!

マリア・ヨハンナさん、お久し振りです!
お元気そうで!(^_^)

> それもこの聖職者たちの人間としての資質を残念に
> 思ったのは、「司教,補佐司教は 非難を受けるために
> 欠席した」この一行です。

そうですよね、私も同感です。
まあ、文章には「おそらく perhaps」と入っていますけれどね。
断定はできない。けれど、あり得る話だとは思います。

> 貸すことが カトリックに 沿っていないことは充分に
> 分かりますが,それでも 信念を持って貸したのなら,
> 胸を張って堂々と 説明できる態度が欲しかったとおもいます。

うん。私は時々思うのだけれど、私達は「カトリック信者であること」と「人間であること」の二つから「できている」んですよね。

「カトリック信者であること」と「猫であること」ってのは、なしよね(笑)
「カトリック信者であること」と「カタツムリであること」ってのもね(笑)
Re: 無題 (欠席で当然) - アップル・パイ
2009/09/29 (Tue) 20:40:45
 お久しぶりです。

 欠席されたのですか?

 いかなる事があっても、他宗教の宗教儀式にカトリック信者が参加する必要はないと思います。欠席で当然だと思います。

 一線を引かれたのは当然だと、私は思います。

 今後、もし、仮に、小教区聖堂が他宗教の宗教儀式のために貸し出されることがあっても、カトリック信者には、出席するなと教えるべきだと思います。

(もちろん、貸し出しなどすべきではないと思いますが…)

 ただし、火(ろうそく)も使うし、大地震がないとも言えないので、カトリック信者で管理する方が、うろうろする必要はあると思いますが…。
Re: 無題 - ヨゼフ・ジェンマ
2009/09/29 (Tue) 22:41:07
アヴェ・マリア!

アップル・パイさん、お久し振りです!(^^)

> 欠席されたのですか?

はい、東京の大司教様と補佐司教様は欠席されたということです。

しかし、念の為、ここで英文の元記事を訳しておくと・・・

「式典の間、ゲストを紹介する時間があった。その『ゲスト』には、アングリカンとのエキュメニカル活動に非常に熱心なカトリックの二人の聖職者が含まれていた。(しかし)その東京大司教区の大司教と補佐司教は、両者とも、おそらくは批判を避けるためであろう、それに出席しなかった。」

ということです。

だから、これは私の憶測ですが、この筆者は、聖公会の記念礼拝のプログラム(式次第)の中に、大司教様と補佐司教様のお名前があるのを見たのでしょう。そして、「ここにこのように名前が載っている限り、当初は、お二人も出席するおつもりだったのかも知れない(そうだったろう)」と "読んだ" のでしょう。だから彼は「おそらくは批判を避けるためであろう」と書いたのです。

私も、それはあり得るだろう、と思います。つまり、大司教様と補佐司教様は、初めから「当然、われわれはそれに欠席すべきだ。当然、われわれはそれとの間に一線を引くべきだ」と積極的に(明確に)お思いになったのでは「ない」かも知れない、ということです。ただ「状況的」に欠席することにしたということであったかも知れない、と。

元記事の筆者はそういう感じで書いているのであり、マリア・ヨハンナさんと私も、そういうことを踏まえながら話していました。

つまり、私達は彼らの「人間としての姿勢」に焦点を当てていました(決して断定せず、憶測を含ませながら、仮定的に)。「一度ご自分達で決めたことなら、そしてご自分達で『それに参加することは良いことである』と信じているなら、ただ『批判されるかも知れない』という恐れだけでそれを欠席することは(もしそうなら)、ある意味『人間として』信念のないことであって、コソコソしたことであって、情け無い気がする」と、おおよそそのようなことを、マリア・ヨハンナさんと私は共感したのでした。
「カトリックとしての彼ら」のことではなく、それ以前の「人間としての彼ら」のことを、私達の「憶測」を含ませながら(「断定」はしません)、そのように話していました。

> カトリック信者には、
> 出席するなと教えるべきだと思います。
>
>(もちろん、貸し出しなどすべきではないと思いますが…)

う〜〜〜〜ん。。
でも、うるさいようですが、私は、貸し出しをしておきながら、且つ、カトリック信者に「絶対、出席するな」とか、「基本的に出席するな(他教派のものであるから)」とか教えるというのも、おかしな話だと思います。もし貸し出しをしたのならば、それは基本的に「友好」「友愛」を意味しているのだから、もしあるカトリック信者が聖公会への「友情」のために「一緒に祝わせてもらいたい」と思い、その行事に参加したいと思ったとしても、それにそんなに断固として反対すべき理由は立たない、ということになるでしょう。「貸し出す」という「友愛」自体が、それへの絶対的な不参加をカトリック信者に教えることを不可能にしています。そう見るべきだと思います。

だから、アップル・パイさんが括弧でくるんでおっしゃったこと-------
「貸し出しなどすべきではない」--------これが私達カトリック信者にとって「第一位の価値」であるべきなのです。私はそう思います。

あ、なお、念のために言うと、英文の元記事の筆者は、この行事を「ともに祝わせて頂こう」と思って参加したのではありません。文章を見れば分かるけれども、彼の動機はそれとは「正反対」でした。
れおさんへ - ヨゼフ・ジェンマ
2009/07/29 (Wed) 21:53:27
れおさん、はじめまして。ようこそ。

れおさんのお気持は、とてもよくわかります。とても。

私は、今は、あまりこの掲示板という場所で
大量のおしゃべりをするつもりはないのだけれど
(皆さんはご遠慮なく。承認制であるのは確かだけれど)、
とにかく、このれおさんの言葉を、
私達カトリックの皆に読んでもらいたい、
そして心にとめて欲しいと思います。

れおさん。本当にその通りですよ。
私は、腹の底から共感します。
ああ、求道者の方〔ほう〕が、正しく感じ取っておられます。

れおさん。
お祈りなさって、特に聖母にお祈りなさって、
そして、気をつけながらも、いろんなものを読んで下さい、
とお願いします。

あなたの心(霊魂)を主が護られますように。
よく導かれますように。

また声を聞かせて下さい。
Re: れおさんへ - れお
2009/07/31 (Fri) 21:04:17
お返事、ありがとうございます。
とても嬉しいです。

お祈りもしてくださり、ありがとうございました。

下のフランシスコ・パウロさんの書き込みを読んでみて、自分の書き込みを再度読んでみると、跪き台に関しては物理的に跪くのが困難な方もいらっしゃるので立ったままでミサをおこなっているのかもしれないな?と思ったりも…。

もちろん、設置しておいて、判断は個々人に任せるという方法も無きにしも非ずですが、「みんなは跪いているのに、私だけ…」と罪悪感を持ってしまう方もいるかもしれません。
今度シスターに訊いてみようと思います。
日記など楽しみにしています。
では、では?。
Re: Re: れおさんへ - ヨゼフ・ジェンマ
2009/08/01 (Sat) 12:52:24
れおさん、コメントありがとうございます。

幸いな求道をされますように...
教会の雰囲気と跪き台について - れお
2009/07/29 (Wed) 20:18:03
はじめまして。求道中で、れおと申します。
聖体拝領は受けたことがなく、祝福をいつもいただいています。
こういう論争が起きているのは初めて知りました。
ただ、コレに関しては私は知らなさ過ぎて何も発言できません。勉強にはなりました。

09年4月4日の日記を読みました。
確かにカトリックはちょっと冷たい感じがします。
書かれてある内容とは違いますが、隣に座っている人が大体同じだったりするんですが、いつも冷たい…。
大抵の人がなんだか、ツンと澄ましている。
ムカつくくらいに多いように思います。
それでいて、神父には「神父さ??ん」と愛嬌がいいのが謎ですが。
なんかよそよそしい…。
まあ、いろんな人がいるのを受け止めるのも大事かな?と思っています。
そうじゃない方もいますけれども。

ただ、そうじゃない方に幸い恵まれて、勉強の講座に誘ってくださいました。
カトリックはプロテスタントとは違ってウェルカムな雰囲気がなかったので、「あ?、社交辞令で誘っているんだろう」と思っていたら、本当に誘ってくださいました。
今でも親交が続いています。
ありがたいことです。

ウチの教会も名簿上はたくさんいるのに来ている人がとても少なく、ある時「経済的とか病気でこれない人もいらっしゃるから?」なんて発言を耳にしましたが、それにしても通わなさ過ぎではないだろうかと思いました。

それから、聖体拝領のことは何も言えませんが、ミサのときに突っ立っているのはなんだかな?と思いました。イグナチオではちゃんと跪き用の枕っぽいものが置いてありますが、ウチにはありません。私はイグナチオではじめて跪いてミサを受けたのですが、やっぱりこちらのほうが自然ではなかろうかと思います。

それじゃあ、また
方法 - ヨゼフ・ジェンマ
2009/07/27 (Mon) 22:42:24
フランシスコ・パウロさんが「外国人神父様」に
そのように言われたのは、昔のことではありません。
「今年の春」とあります。驚きます。

私は、このような場合(マリア・ヨハンナさんの場合も)、
然るべき順序を踏んで責任ある方々に働きかけ、
それでも変わらなければ、
教会内世論に訴えるべきだと思っています。

どのような方法で?

然るべき順序を踏んでも変わらなければ、Web上に、
その神父様と小教区の「実名を公表する」という方法で。

それは一般には「暴挙」とか「非常識」とか思われるでしょうが、
私は「それは許される」と思っています。

彼らは、もしそのようにされた場合でも
変わらない可能性があります。
言いたくはないが、彼らは今やその程度には厚顔です。
(あるいは、人によっては厚顔というよりもむしろ「逃避的」?)

彼らはその時言うでしょう。
「そのようなやり方はいかがなものか。
信徒として、キリスト者として、少々攻撃的過ぎないか。
何かもう少し別の、謙遜な、相手の立場をも考慮した、
譲り合った姿勢も大事ではないか。
胸に手を置いて、そういうことに考えを致すことも
大事ではないか。」

あるいは、
「あなたには信仰がない」。

彼らは、そのような小綺麗な (?) ことを言います。

でも、私は答えます。
「いいでしょう。私はそのことも胸に置きましょう。
あなた方があなた方ご自身の明らかな典礼の濫用や
信者の基本的な権利に対する迫害あるいは無神経を
きちんと顧み、誠実に対応して下さるならば。
(司教様、あなた様が『動いて』下さるならば!)
私の人間的なことよりも、こちらの方が先行します。
それは確かです。」
口での御聖体拝領 - フランシスコ・パウロ E-mail
2009/07/27 (Mon) 17:14:01
マリア・ヨハンナさんの戸惑いよくわかります。近くに巡回教会あり時には参りますが、口で拝領するのは私だけです。足が悪いで跪くことが出来ませんが、皆さん妙な目で見ています。そこには聖堂入り口に聖水もありません。清めもなしにどうして手で拝領することが出来るでしょうか。手は道具を使うためにあります。御聖体は道具でしょうか? 東京近辺に住んでいますので時には用をこしらえがてら都内のある大教会へ参ります。今年の春、口で拝領しようとすると外国人神父様が『この次は手で拝領しなさい、聖書に書いてあるでしょう “取って食べよ” とね、イエズス様はその方が喜ばれますよ』と。それ以来、家で毎日霊的聖体拝領をしています。その方が少なくとも涜聖にならないでしょう。主よ、どうぞこの年寄りのささやかな喜びを否定なさらず受け入れてください。
禁止になる口での聖体拝領 - マリア・ヨハンナ
2009/07/14 (Tue) 21:16:41
私の知っている掲示板は2,3個あるけれど、
でも、 もう疲れた。
今日久しぶりで(町内会、カトリック大会があって2,3回、欠席していた)、自分の教会に行って 聖体拝領をした。
その時、司祭から、「手で」と言われたので、では祝福だけを思って頭を下げたら、「最後に回ってくれ」と言われた。
ミサが全てが終わった後司祭が 私のところにきて「今日のごたごたは 貴女に責任があります。これから冬に向かい、手で拝領するように気持ちを切り替えて下さい」と言われたので、昔,大罪を持った人が 霊的拝領をしていたように、そのことを聞こうとしたら、昔は昔、今は違うと言われました。
パンデミック騒動の前は 口での拝領が認められていたのに、
急に聖体拝領が口ではだめになった。確かに仙台教区では
この機会に手での聖体拝領に統一しようと言うことのよう。

でも、 先日使徒座では、教皇様が 自発教令、破門解除について 全世界に向けて書いたものがあります。そのなかで
>>The supreme and fundamental priority of the Church, in every age, of leading men towards an encounter with God must be favored
through the effort of promoting the common witness of faith of all Christians.
私は読解力がないのですが、それでも 言わんとすることは分かります。
日本には この思いが届かないのでしょう!
自分の教区に毎週行かず、東京かその近郊で、口での拝領を行っているところを探すようになるのか.....。

聖ヴィアンネによる 司祭年は日本では ほど遠いことを
知らされた日でした。


-------------------------
(管理人より)
上のマリア・ヨハンナさんの書き込みは、
もともと7月12日に投稿されました。
しかしその後、何故か削除されました。
私も、ご本人も、削除していません。
不思議です。

この掲示板を本格化させるつもりはありませんが、
皆さん、もし書き込みをするなら、投稿時に、
念のため、あまり単純でない「編集/削除パスワード」を
設定して下さい。
どこかにイタズラ坊主がいるかも知れないので。

あるいは・・・私の操作ミスかなぁ。。
最近歳とってきたからなぁ。。
ま・ここっとさんのブログで話し合うことになりました - ヨゼフ・ジェンマ
2009/06/06 (Sat) 21:26:05
ま・ここっとさんのブログで話し合うことになりました。
http://malicieuse.exblog.jp/11170244/

ここはこのまま放置しときますか。。
一時的に再開します - ヨゼフ・ジェンマ
2009/06/06 (Sat) 19:21:26
「そりゃよござんした」のま・ここっとさんが、
「他サイトの管理人に批判を加える限り、交流の道具
(コメント欄、掲示板、トラックバック機能等)
は用意して然るべきだ」
という雰囲気のことをおっしゃっていますので、
一時的に再開します。

ま・ここっとさん以外の方には、
今回はご投稿をご遠慮頂きたく存じます。
議論が混乱するのが嫌なので。