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毎日のように考えていた死 (わたしがなぜうつになったのか 4) [うつ]

少しずつ振り返ってる過去ですが、ここから先、私にとっての暗黒の時代が始まります。


優等生からの転落のはじまり

私は転校早々、得意の作文で自己主張大会のクラス代表になった。北海道に暮らしていた頃から作文を書けば必ず代表になっていたので、特別誇らしさはなかった。ただ、この学校でも、私は優等生でいられると信じてしまった。
転校して初めての中間テスト。
私は猛烈に勉強した。ここで結果を出せば認められる。その一心だった。
その結果、5教科で約450点の点数を取った。
担任が、自分の順位が知りたければ教えてくれると言ったので、知りたい人の列にならんだ。
以前の学校なら、悪くても20番以内に入る成績だった。
しかし期待していた私に告げられた順位は48番だった。
それは、今まで聞いたこともない順位だった。学年の人数がおよそ300人。そのうちの48番……。
以前の学校は270人ほどで、私は一番悪くてそのぐらいの成績だった。
ショックだった。
心にひびが入った。
あの努力はなんだったのだろうかと思った。
波が引いていくように、やる気というものが失われていくのがわかった。いわゆる、燃え尽きてしまった状態だ。
だが、作文のほうは学年で最優秀賞を取り、おまけに学校代表で地区大会へ行くこととなった。


生まれて初めてのいじめ

そんな私だが、なんとか仲の良い友達は出来た。私の作文が学校代表になったことも、クラスの女子は好意的に見てくれた。
……ある日。
クラスの一部の男子が、私のほうを見て笑っていることに気づいた。
私は今まで、女子より男子とつるむほうが好きだった。それに、男子をからかっても、男子からからかわれたことはなかった。
本当に図々しい話だが、あの男子たちは私に気でもあるのかと思ったぐらい、私はこちらをちらちら見られていることに対して、呑気にしかかまえていなかった。
しかしそれは大き過ぎる勘違いだった。
すれ違いざま、デブと言われたり、臭いと言われたりするようになった。
わけがわからなかった。
何故私がいじめの対象になったのか……。
観察眼のするどい私は気づいた。いじめの首謀者は、クラス委員長の男子だった。おそらく彼は、私の作文入賞が気にくわなかったに違いない。嫉妬だ。
彼とつるんでいた男子たちが、いっせいに私を攻撃し始めた。
だが。
いまはもう、その内容は覚えていない。覚えていないほど他愛もなかったのではなく、ショックのあまり記憶を封印してしまったのだ。

私は、誰からも認められる優等生だったはずだった。
だが成績は落ち、男子からはいじめられ……。なにもかもが180度変わってしまった。
私の心の中からは、生きていく楽しさが失せていった。
あんなに楽しかったはずの勉強も、もうどうでも良くなっていた。


激しさを増す父の暴力

父は、私と母だけに暴力を振るった。酒を呑まなければ寡黙で何も喋らない人だったのに、酒を呑むと会社の不満や家庭の不満を私たちにぶつけた。
何もしていないのに叩かれた事も何回もある。
私が趣味の絵を描いていて、そこに酔っ払った父がやってきた。私は自分の絵を見られるのが恥ずかしく、机に伏せて隠した。すると父は、見せろと言って頭を殴った。私が抵抗すると、なお殴ってきた。
ある日。
学校の掃除の時間。
制服から運動着に着替えて掃除するため着替えていたら、仲の良かった友達がびっくりした声をあげた。
「それどうしたの?」
私は指を差す方向を見た。私の左腕に、はっきりとした手形がついていた。今でも思い出せる。手の平を広げた形に付いていた、大きく真っ赤な痣の跡……。
私は何事もなかったかのように笑って答えた。
「お父さんに叩かれたんだ」
そう。もう笑って話せるぐらい、暴力は日常となっていた。


空想の世界

世の中は、まだいじめに対して敏感ではなかった。家庭内暴力に対しても、ドメスティックバイオレンスなんて言葉はなかった。
私はどこにも居場所がなかった。
学校に行けばいじめられ、家に帰ればいつ父が酒を呑んで暴力を振るうかと怯えている。
勉強も面白くない。成績は下がる一方。もう優等生ではない。劣等性だ。
私は次第に空想の世界へ逃げるようになっていた。小説を書いたり絵を描いたりして、なんとか自分を保っていた。
ストレスで過食に走った。
体重は増える一方だった。
それが理由で、また男子にいじめられた。
母も、慣れない土地や地域の慣習に戸惑っていた。
優しかったおじいちゃんはここにはいない。誰も助けてくれる大人はいない。
死にたい。
死にたい。
死にたい。
毎日死ぬことを考え生きていた。


いじめの終結。しかし再びの悪夢

私は親に学校に行きたくないこと、いじめられている事を話した。担任も、私に協力してくれた。
中学2年の3学期には、何事もなかったかのようにいじめは消えていた。趣味の合う友達とも話しが弾み、ようやく学校に行くことが苦ではなくなっていた。
しかし3年になりクラス替えがあると、仲の良かった友達とはほとんどクラスが離れてしまった。同じグループに居た一人の子とだけ、一緒になった。また一からやり直しも同然だった。
1学期も半ばを過ぎた頃だろうか。
一人の転校生がやってきた。
転校生の元に、女子最大の派閥が近づいた。そして表面上の親切の押し付けが始まった。
私のときもそうだった。親切なふりをして、本当に必要なときは仲のいい別の子たちとどこかへ行ってしまう。
私は同じ転校生として、彼女の不安な気持ちがよくわかった。だから彼女と友達になろうと思った。
中2から一緒のTさん、そして転校生のA、私。いつしかその3人でグループが出来上がった。

やがてAの真実が現れ始めた。
Aは教室に入るのを恐がる子だった。ほとんどを保健室で過ごすようになったAに対し、女子の最大派閥はいぶかしく思うようになっていった。実はAは、近隣の中学から、いじめを理由に転校してきたのだった。それを部活での交流で聞きつけた最大派閥は、Aをいじめるようになった。Aはなお教室に入るのを嫌がっていった。担任の教師は、転校の理由をわかっていながら、保健室から無理やりAの手をひっぱって、教室に入れようとした。廊下で大騒ぎが度々起こった。するとそれを見たクラスメートたちは、更にAをいじめるようになった。
いじめの対象はAだけでは無くなっていった。Aと仲良くしていた私たちも、陰湿ないじめに飲み込まれていった。中学2年のときと違ったのは、いじめの首謀者が女子で、それを見た男子たちにも広まっていったことである。つまりクラス中からのいじめだ。
私は再び学校での居場所を無くしてしまった。
前の学校では頂点にいたはずだった。それが最下層まで落ちてしまった。
まるでカースト制度のようだった。
私のまったく知らない世界。私にはまるで縁のなかった世界。一個人として認められない。ただひたすら侮蔑の対象。ストレス発散の対象。
担任に何度相談しただろうか。しかし担任はいじめの主たちをしかるどころか、彼女たちをかばう発言を繰り返し、私たちに我慢しろと言ってきた。何を言っても無駄な担任だった。私はいまでもあの悔しさを忘れない。そして担任だったあの女を忘れない。


暗黒の夜

私は次第に学校をさぼるようになっていた。しかしそれは親には内緒だった。
朝、普通に学校を出ていく振りをする。音を立てて玄関から飛び出す。が、直後に音を立てないようにドアを開け、自室のある2階の部屋へ戻って隠れる。両親が仕事に出た後学校に電話をし、調子が悪いから休むと言って一日を謳歌した。父にも殴られない。いじめもない。平日の昼間はパラダイスだった。
それでも学校はそうそうさぼることが出来なかった。
やがて私の身体に異常が現れ始める。毎日微熱が出るようになったのだ。今思い起こせば、それは鬱の症状だった。あの頃私は既に鬱になっていたのだろう。が、そんなことは知るよしもない。
いじめは続く。暴力も続く。

10月頃だったと思う。
その晩、父はかなり泥酔していた。泥酔して私の部屋のある2階に上がってきた。ドアを開けると、おもむろに私に平手で殴りかかり始めた。私は母に助けてと叫んだ。まさしく悲鳴だった。母は1階から慌てて2階へ上がってくると、父を静止しようとした。だが父はそんな母も殴った。私と母はどんよりと曇った父の目を見ながら、父にやめるよう泣き叫んだ。父はきちがいになっていた。やめるどころか暴力の威力は増すばかりで、私と母は1階へ逃げた。しかし逃げた先へ父は再びやってきた。私たちは拳骨やら平手やらで何度も何度も殴られた。今度は2階へ逃げた。私と母は抱き合って震えていた。もう来ないでくれと願った。しかしそんな願いは無残にも打ち砕かれた。
父が。
階段を上がってくる音が聞こえる。
私は、
思った。

父を、
階段から、
突き落とそうと。

父を、
殺そうと。

私は「殺してやる……」呟きながら部屋から飛び出た。
父が音を立てて階段を上ってくる。
淀んだ、真っ暗な闇の色をした目で、こちらを見上げながら。
「お父さんなんか死んじゃえ!!!!」
私は目前に迫った父の肩を、ありったけの力で押した。
しかしがっしりと手すりを握った父の身体はびくともしなかった。
「お前は父親を殺す気か!」
なすすべを無くした私は、怒り狂った父になお激しく殴られた。母がいくら止めに入っても母も殴られるだけで、父の狂気にも満ちた行為は収まることはなかった。
妹と弟の部屋の前だった。
二人はただじっと、息をとめておくことしか出来なかった。二人はまだ幼く小さかった。どうしようも出来なかった。
私と母は泣きながら再び階下へ下りた。
悔しさに泣き崩れながら、もう父がやってこないことを願った。
どれだけ泣いただろうか。
父がやってくる気配が消えたように思った私と母は、二人で一つの布団を敷きそこで寝た。私は母に抱きついた。悔しかった。
突然私たちの前から消えた父。
そして、身勝手な理由でやりなおしたいと懇願してきた父。
絶対幸せにすると約束した父。
嘘ばっかりだ。
なんでこんな人と母は復縁したんだろう。
騙されたんだ。
おじいちゃんとおばあちゃんの元に戻りたい。
こんな場所、もう嫌だ。
泣き疲れた私はいつの間にか寝ていた。

翌朝。
目覚めた私の左手の甲が、倍ぐらいに膨らんでいた。
それは、父の暴力を手でかばっていたからである。
右利きの父が殴るのは、主に左側。
学校に行きたくないと言った私に、それでも母は行くように迫った。
私はそんな日ですら、嫌なことしかない学校へ行かねばならないのだった。


そして少しずつ、少しずつ、私の心と身体は狂っていく。
中学3年の12月になると、微熱、吐き気、目眩が、毎日身体を襲うようになっていた。

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しきみ

私はある日突然微熱が出ました。
風邪だろうと高を括っていたのに、1週間たっても熱が下がらない。
しかも物凄いダルさに見舞われ、歩いて病院に行くのさえ辛くて仕方なかった、でも病院でしかも町医者で2時間待たされ、原因不明のまま3ヶ月毎週通ってました。
最後の最後で先生が「自律神経失調症」と診断。
その間も会社には通っていました、フルタイム。
熱、吐き気、ダルさ、食欲不振。
その後、メンタルクリニックに予約して診断してもらったら「我慢強いにもほどがある」と逆に怒られました(苦笑)
それ位、私の症状は悪かったようです。

私の場合、会社が原因でした。
年功序列から能力成果主義に変わり、ある意味「ノルマ」を事務職の私がこなさなければならない。
溜まりに溜まったストレスが発熱になり、最終的にリスカする鬱にまでなりました。
でも辞めるに辞められない、この不況時に仕事が有るわけが無い。
つらいところです。
by しきみ (2009-01-29 10:35) 

akiko-s

>しきみさま
コメントありがとうございます。
私も現在うつ病なのは、最終的には仕事が原因でした。もしよろしければ過去のブログを読んでいただければ、原因が書いてあります。
私の自傷行為はOD(薬物を大量に飲むこと)で、もうどうしようもない状態までいき、結果として仕事は泣く泣く辞めました。
以前入っていた会社が大きい会社だったため、傷病手当の保障も大きく、仕事を辞めた今でも、仕事に就いていた頃とほぼ同じくらいの傷病手当をいただいて生活しています。ですが、それも今年の8月で切れます。

先のことを考えると不安ですね。
うつ病は、ゆっくり療養するのが一番いいといいますが、そうもいかないこの世の中。
日本という国は、狂っているとさえ思います。
お互いつらいですが、病院をうまく利用して乗り越えていきましょう。
苦しいことがありましたら、いつでもぶちまけてください。少しでもお力になれたら幸いです。
by akiko-s (2009-01-29 17:32) 

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