「学生時代と今の京教を比べて」

附属高校 保健体育科 高安 和典

 

「学生時代」は今から26年から29年前のことです。「今」の私は、府立高校に8年間勤務した後、附属高校に勤務しています。「当時」のことが思い出せなくて困ったので、とりあえず思い出したことを並べて、読者に「今の京教」と比べてもらえばいいと、開き直ってキーボードをたたいています。

昭和52年、共通一次試験開始の2年前だったと思います、私は本学特修体育学科に入学しました。当時は特修体育学科と体育学科があり、体育学科には一類(小学校教員養成課程)、二類、があって、全部で60人くらいだったと思います。その同級生ほとんどが教員志望で、卒業時に34人を除いて教員になったように思います。教育実習は3週間で、4回生の5月と6月に2つのグループに分かれてありました。

私は陸上部員で、陸上部は当時、関西インカレ1部、部員が60人と大所帯で、私が専門にしていたハードルの先輩、卒業生が全国的にも活躍されていて、私も思う存分ハードルが出来る環境でした。トラックは入学1、2年前に改修され400mになったと聞いています。全天候走路は、フィールド内に60m程度の走幅跳び助走路として1コースあるだけでした。当時使っていた薄緑色のハードルや、かなり熱心に取り組んだウエイトトレーニングのバーベルなどが今も使われており懐かしいです。

クラブといえば、非常勤講師として大学の陸上競技T、Uなどを担当させていただいた折、授業が終わるとすぐに帰宅する学生がいることに気づき、聞いてみるとクラブに所属していないとか、学外の活動に参加しているという状況でした。授業が終わると全員がクラブボックスへ行くか、体育館の時間配当の都合から生協で腹ごしらえをするという風景を見慣れていた私には新鮮でした。

施設でいえば、卒業後に出来たと思われるのは、講堂(卒業の年に出来たのかも)、F棟、情報処理センター、実践センター、その横の駐車場、駐輪場、体育館西側テニスコート、クラブボックス、大学院設置と共に出来た棟等でしょう。書いてみて、体育施設としては、あまり変わらないなあと思いました。その駐輪場付近に、旧日本軍の兵舎をそのまま流用したクラブボックスがあり、抜け落ちそうな床の薄暗い部屋でした。

1回生の夏には遠泳実習があり、天橋立海水浴場で23キロの遠泳をしました。特体、体育学科と全学科一類の1回生に必修だったように記憶しています。泳力別男女混合の班編成で他学科の学生と交流でき、水泳が苦手な私には完泳した感激は鮮明です。取りやめになったのは10年ほど前でしょうか。

研究室は身体運動学(現バイオメカニクス、当時キネシオロジーもと呼ばれていました)研究室でした。同級生が6、7人入り、卒論作成では1台しかないSEIKO製コンピュータを24時間体制で区切って使いました。

時々使っていますが生協の食堂は広く明るくなり、喫茶店も出来て建物もきれいになりました。当時食堂では、ミシン目の入った回数券のような食券をちぎって調理場所の前で引き換えていました。みそ汁は10円だったと思います。自動車乗り入れ規制や、自動車やバイクの進入禁止区域もありませんでした。縦列駐車の練習をしていた人がいたとか?

書いているうちに思い出すことも多く、懐かしい思い出に触れることが出来て、ありがとうございました。

 

 

「雑感、二十数年前…」

M1 保健体育専修 有山篤利

二十数年前…、山口百恵と三浦友和が交際宣言して、若者に激震が走ったっけ。まあ、私はあんまり何とも感じなかったけど。

二十数年前…、得体の知れない高揚感とその裏返しの不安感を抱きながら、周囲にはそれと知られないようにせかせかと校門をくぐったなあ。まるで、飼い主から逃げ出したものの、途方にくれて虚勢を張っている犬コロみたいなものやった。

二十数年前…、薄汚れたジャージ、品のないサングラス、スポーツ刈、やたらあいさつの声だけでかい、どこからみても体育系。空っぽのヤカンを蹴飛ばしたような、そんなガサツさを気取ってたみたい。今思うと、ダサいなあ。

二十数年前…、教員になる!というたいした志があるわけでもなく、かといって、サボるわけでもなく。授業に出たことは覚えているが…、覚えているのはたいがい出席したという感覚だけ…。それが今、生徒に「目標をもて!」なんて、どの口が言ってるんやろう。

二十数年前…、昼の食堂は体育学科の巣窟だった。なんせ、入り口付近を体育学科とその周辺の学生が占拠してたから。4回生様は入り口付近、下級生になるほど中に座ることになっていた。誰が決めたんか知らないけれど、今の道路交通法よりはみんな遵守してたように思う。

さて、そして今、二順目の学生生活…。「学部生の雰囲気が変わったなあ」なんて言いながら、ほんとは一番変わったのが自分やな、とふと思う。なんせ、今はネクタイもしているし、授業の内容も覚えてるし、時々行く食堂でも遠慮して座ってるんですから。

 

 

「学生時代の京教と今の京教に望むこと」

スポーツ・健康マネジメント専攻卒業 野呂 絵美子

京教学生時代の4年間を今思い返すと、自分なりに経験値アップした貴重な4年間だったと思う。クラブ活動をメインにしながら、自分の興味のあるいろいろな分野の活動に足を運んだりした。それぞれの活動で体験したことや、多くの人と関わったことで、自分を磨くことができ、自分なりに成長できた。また、一つの目標に向かって取り組み、悩み、励ましあった仲間はまさに私の宝物だと思う。社会人になって、仲間とあのような活動がもうできないかと思うと、大学4年間だけの貴重な時間・経験だった。

私はもともと学校の教師志望ではなかったが、スポーツについて学びたい、運動指導をしたいという気持ちで、ゼロ免のこの学科を選んだ。教育大であるため、指導者としての勉強ができた。専門分野を深く研究するにはもう少し勉強が必要だが、いろいろな角度から学べたことで、自分なりに吸収し、今の仕事に活かせている。教師でない道に進んだとしても、人を育てること、指導すること、何かを伝えることはこの先必ずあることで、大学で学んだことが全てとは言えないが、その下積みができたと思う。「京教卒業です」というと必ずといっていいほど、どうして先生にならなかったのかと言われる。先ほど述べたゼロ免を選んだ理由を説明すると、何となく納得してもらえる。教採が厳しい時代だから挫折したのだ、と思われるかもしれない。でも、自分自身は京都教育大を選んで正解だと思っているし、現役の皆さんにも京教で学んでよかったと思える学生生活を送っていただきたい。

社会人になって、卒業生は多くが教師になっている。そんな中、教職関係以外の場で京教の先輩に会うと、とても親しみを感じる。仕事の関係で偶然知り合った先輩は、違う学科で、初対面であったにもかかわらず親身に話を聞いてくれた。単科大学ではあるが、様々な分野で活躍されている先輩に私自身も励まされ、いつかは同じように後輩を勇気付ける存在になりたいと思う。

経験値アップという面では、先生方にも大いに助けていただいた。京教は、大きすぎない学校ということで、ゼミの先生以外の先生との距離も近く、そのおかげで様々な分野に目を向けることができたし、経験させていただくことができた。学生の今だからこそ、広い視野と旺盛な好奇心を持って、様々なことに挑戦して欲しい。

私の所属していたゼミもなくなり、スポーツ・健康マネジメント専攻も廃止になってしまい、京教での私の居場所が減ってしまい淋しいが、心の中での居場所は大事に置いておきたいと思う。

 時代の流れに合わせて、大学も変革が迫られる世の中ではあるが、大きくなくても、存在感のある大学であり続けて欲しいと願う。