テキスト ボックス: 贈ることばにかえて:姿勢とボディライン
井谷惠子
 

 

 

 

 

「姿勢をよくする」ということばも行為も、どこか精神的なイメージが付きまとう。「気をつけ」など集団行動を思い起こす人もいるだろう。「背が丸い」「気合が入っていない」とビシッと背中を叩かれた経験もあるかもしれない。どうも古臭い形式的なマイナスイメージが漂うのだ。私自身、長く教員として勤めてきたが、「姿勢よく」と言うことばを極力避けてきたように思う。しかし、最近、大学生を前にして、思わず「背中を伸ばそう」ということばが口をついて出てしまうことがある。実際に、若者だけでなく、大人も子どもも、その姿勢が黙って見てはいられないほど劣化してきているのだ。体幹の筋肉が低下したり、背を丸めてパソコンやゲームと向き合う時間が増えていることなど最近の生活スタイルが姿勢の劣化の原因にもなっているだろう。私自身、前かがみで背を丸めている自分に気づいて思わず背筋を伸ばすことも少なくない。

同時に、からだ全体のしまりがないと感じる人も多くなっている。単に体幹の筋肉が緩んで弱まっているだけではなく、重力に逆らってからだをしっかり鉛直に立ち上げる腹筋をはじめとした脊柱周りの筋肉の働きが鈍いのだ。確かに本人にとって楽な姿勢であるかもしれないが、重力に逆らわないしまりのないからだは歪み、バランスを崩し、確実に劣化し衰弱しているのではないだろうか。

では、スポーツと親しみよく運動する人々は姿勢の劣化と無関係なのかというと、実はそうではないことに最近気づいた。スポーツに熱中した経験のある人には腰痛の持病を持つ人が少なくない。私自身も腰椎分離やすべり症による腰痛があり、長時間の立ち姿勢は苦痛で、コルセットを着用することもある。スポーツ人の宿命と半ばあきらめていたが、少しでも改善するために脊椎や骨盤周辺のアライメントと腹筋強化を行うようになって、こういった腰痛が必ずしも宿命ではないことが分かってきた。つまり、自分のからだの癖をそのままにして、負荷だけ強めるようなトレーニングを長年行ってきたツケが腰痛になって現れたことを今になって認識したのである。自分のからだのくせや歪みを調整しつつ、体幹の筋肉を鍛え、腹部を引き上げ、からだのセンタリングや締めを意識することによって「締まりのあるしなやかな」からだを取り戻せる。無理なダイエットによるシェイプアップなどより、アライメントとからだの締めを意識する方が、よほど健康的で短期間で効果が上がる。その上、合理性のある姿勢はボディラインが美しい。

生きる自分のからだの骨組みとその構造、建物でいえば基礎や柱の構造が重要なのは言うまでもない。歪んだ柱に重い屋根を載せればさらに歪み、やがて破壊する。今では、筋力トレーニングなどマシーンを活用することによって、正しい姿勢を保持しながら高めたい筋肉に焦点を合わせることも可能である。しかし、そういったものを利用しなくても十分に姿勢やバランスの調整を図ることができる。よい姿勢とボディラインをつくることはそれほど難しいことではなく、むしろ自分のからだのゆがみや癖に気づき、どういう調整や補強運動をすればよいか知ることが重要である。つまり、自分の姿勢やバランスなどからだの調整についての学びである。生涯向き合う自分のからだの基礎や骨組みを学ぶ場を体育をはじめ、教育の中にもっと取り入れられないものかと考えている。

 

保健体育科教育B研究室 H17年撮影

 
 

 

 

 


「生きることは運動することだ!」

学校保健研究室 井上文夫

 

昨年も子どもの命が奪われる不幸な出来事がいくつかあった。子どもを持つ親としては、子どもが安全に健やかに育つことを望むのは当然のことである。一方で、安全を確保するためには、安全な場所以外での遊び、通学などができなくなっている。わが国はそれほどまでに治安が悪くなってきているのであろうか?

何年か前に、株を買おうかと妻に相談したところ猛反対にあってしまった。株はリスクが大きいからである。実際、反対を押し切って買った株は見事に下がってしまったのだが。自然界はまさに弱肉強食の世界であり、人社会においては「法律」や「倫理」などにより、弱肉強食は薄められているにすぎない。人は自分を守る手段として集団に所属し、その貢献により自分や家族の安全を確保しているわけであるが、そのような安全は実はわれわれが信じているよりもはるかにもろいものである。生まれてこのかた安全の中で育ち、安全が当然の権利と考えているわれわれ日本人には、イラクや北朝鮮の実情はありえないことと写る所以である。安全も自由と同じように自らの努力により闘いとるものであることを多くの日本人、特に子どもたちは忘れてしまったようだ。

本来、現実の世界は不安定で何がおこるか分からないのが当たり前である。そのような中で、リスクと効果を懸案して生きてきたはずである。

スポーツの世界は弱者と強者がはっきりとしている。われわれがスポーツを見たり、あるいは楽しんだりするのは、そのためではないだろうか?スポーツは弱肉強食を思い出させてくれる疑似的な世界のようである。

本来の危険の中で生きていくには、研ぎ澄まされた意識と注意深さ、体力が要求される。現代の子どもたちが失いつつあるのは、ちょっと間違えば命がなくなる危険の中で生きていくことではないだろうか?生きることは危険と隣り合わせの中で自己を再生産して命をつないでいくこととすれば、スポーツはそのレッスンと考えることができる。そういう意味では子どもたちにスポーツを教える皆さんは人生を教える先生でもあると考えられる。アドベンチャーキャンプなどで子どもたちが生き生きとした表情を見せるのもうなずける。

私自身はどっぷりと「安全」の中に閉じこもり、リスクの少ない人生を送ってきたが、子アドベンチャーキャンプわんぱく村どもたちには多少のリスクはとりながら生きてもらいたいと考えるこのごろである。

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学生に伝えたいこと

「教育とは?」

体育学科 榎本靖士

 

私自身、教育者となって日が浅いものの、教育とは?と日々考えている。これから教育者を目指す学生諸君にはぜひ考えてほしい。中でも、体育・スポーツを専門とするものは、コーチングやトレーニングといったスポーツにおける競技力向上のための実践活動を教育に積極的に応用するべきであると考えている。楽天の野村監督は教育こそ監督の第一の使命であると述べている。また、近年では企業内での人員育成にコーチングやトレーニングという言葉が使われるようになっている。もともとはスポーツで生まれた言葉がこのように広まっていることはスポーツで行なわれているコーチングやトレーニングのレベルの高さが認められている証拠であろう。レベルが高いとは、それまでの個人の能力からは想像もできない能力を身につけさせることである。目標を明確にし、計画を立て、日々の時間を大切にし、真摯にトレーニングに励む。そして指導者はそれをコーチングするわけだが、必ずしも選手に命令することがコーチングではないことは明らかで、どのように声をかければ選手が伸びるのかを考え、また選手の苦手な部分を克服する新たなトレーニング方法を考え、実践していく。さらに、チーム全体を見渡し、マネジメントすることも必要である。個々をあげればきりがないが、コーチングやトレーニングは、論理的には考えもつかないような、いわゆる実践知が詰まっているのである。例えば、高橋尚子選手のコーチとして有名な小出義雄監督は周りから見ると一見無茶なことをやりながらも選手を世界一にまで育て上げている。これが良いか悪いかは議論する必要があるが、コーチングとは選手が自力では到達できない目標に引き上げる方法を考え、実践することに他ならない。また、このようなレベルの高い実践活動は選手や指導者の情熱なくしてはありえないもので、そのような活動が選手ばかりか指導者の豊かな人格形成にも大きく貢献してきたであろう。教育においても短期的な目標や教育の形ばかりにとらわれないで、生徒の大きな目標に向かってどのような取り組みが必要で、それをどのように実践させていくかを考え、働きかけていく必要があると思う。学校教育は難しい問題が山積みとなり、教師の想像力を働かせ、情熱を持って取り組める環境が失われつつあるのかもしれないが、体育・スポーツを専門にするものはぜひとも情熱をもって生徒の能力を引き上げられる教育を目指してもらいたいと思うし、さらにトレーニング、コーチングも含めて、教育とは?という問いに答えられるような信念も育てながら、日々取り組んでほしいと思う。そして、数年後にそのような話題で教育に燃える皆と大いに盛り上がれればと思う。

就職について、真剣に考えていますか?

野外教育研究室  遠藤 浩

 

 近年、若年者就労問題が重要視されている。要するに正式に採用されるような仕事をせず、フリーターと称するアルバイト生活、仕事を得ようとしないニートの増加、離職率の高さ等の問題である。

(就職後3年以内にやめる率は、中卒7割、高卒5割、大卒3割といわれている)

 学校から職業への移行(トランジション)が成功するかどうかは、その後の人生を大きく左右する問題なのだ。そんな大きな問題にもかかわらず、学生に危機感がないのもまた事実であり、それが上記の問題を引き起こしているとも考えられる。

 私は「マメさんキャンプ」という研究会を主宰し、体育学科学生だけでなく、他学科、他大学の学生もキャンプの指導に参加している。彼らの教員採用率は高い。それは将来先生になりたいという強い意志を持ち、そのために子どもの指導を経験したいとして研究会に参加してくる意識と行動力の高さだと思っている。その意識の高さが教員採用試験への準備を早くしていることにつながり、合格していく。

(学生時代の子どもたちへの指導経験が面接で評価されていることも大きく関係しているが)

体育学科の教員採用率は決して高くないのは、そのあたりが関係しているのではないか?

 体育学科の学生にはまだまだ採用数が低い中学高校教員への希望者、またスポーツトレーナー、スポーツ関連のマスコミ、スポーツ関連企業などを希望しているものも多い。そうした希望を持っている学生はその就職に向けてのどんな準備あるいは作戦を立てているのだろうか?

 スポーツトレーナーになりたいという学生はここ10年ほど年々増えている。しかし、トレーナーになったという学生の数はきわめて少ない。テレビに登場するトレーナーの姿を見て、ただあこがれているだけではないかと思ってしまう。本気でなりたかったら、トレーナーという職業の現状を把握し、そのための作戦(タクティクス)を駆使しなければいけない。

(はっきり言って、職業としてのトレーナーになれる確率は恐ろしく低い。保健体育の教員免許より鍼灸、マッサージ、柔道整復師の資格のほうが有効)

 東京大学名誉教授の竹内均先生が、理想的な職業として下記の3点をあげている。

   1)自分の好きなこと  2)それで余裕のある生活ができる  3)世の中のためになる

 この3つが全てそろうことができれば、それは幸せなことだと述べているのだ。

 1番目の好きなことが一番難しい。誰でも自分の好きなことを職業にしたいとは思っているが、それがうまくいかず、給料がよく、比較的楽で、休みが多く、他の人からの評価(聞こえ)もいいなどの条件の中で妥協していく。

 自分の好きなこと以外の職業を否定しているわけではない。給料が多く、休みが多い職業を選び、休暇で自分の趣味(好きなこと)を楽しむことを選択するのも一つの方法ではある。その方が自分の好きなことを純粋に楽しめるという考え方も一理あるのだ。

 しかし、体育学科のみんなには、できれば自分が目指したい職業についてほしいと思う。そのために情報を集め、作戦を立て、今何をすべきかを考えて、すぐにでも行動を起こしてほしい。大学における時間はそう長くはないのだから。

 「キャリア・デザイン」や「ライフ・デザイン」という言葉が最近よく使われる。高校までの進路指導と違って、自分の人生の設計は自分でしなくてはいけないのだ。このデザインをしっかりしていかないと自分の人生はつまらないものになるのだ。

 

スポーツの美学

杉本厚夫

今、あなたは2位を大きく引き離して、1位を走っています。このペースで行けば、1位は確実です。1位になれば、来年の出場権を得ることもできますし、記録にも残ります。しかし、あなたが設定した目標タイムにはこのペースでは到達しません。ペースをあげると、苦しくなって、リタイヤする危険性があります。あなたなら、このままのペースで走りますか?それとも、リタイヤするかもしれないけど、ペースを上げて、自分の目標タイムを達成するようにしますか?

 

こんな状況を描いた映画があります。それは「ティン・カップ」です。

ティン・カップと呼ばれるロイ・マカヴォイ(ケヴィン・コスナー)は、かつては非常に注目されたゴルフプレイヤーだったのですが、持ち前のプロ哲学でこれまで多くのチャンスをふいにしてきました。彼のプロ哲学は不可能と思われていることに、失敗を恐れず挑戦してみせることでなのです。だから、スプーンではグリーンにオンできないといわれているコースでも、あえてスプーンで挑戦して失敗し、これまでトーナメントプロになれるチャンスを潰してきました。

しかし、あることがきっかけで、一念発起して全米オープン・トーナメントに出場し、優勝してトーナメントプロになろうとします。最終日、カップは1位で優勝をかけてスタートします。そしてついに最終18番ホール。優勝するためには、バーディーをとる必要がありますが、確実に打っていけばそれは簡単なこと。しかし、カップはイーグルをとる一か八かの勝負に出ました。彼のプロ哲学がむくむくと起きだしたのです。そして彼の打ったボールはグリーンに乗りましたが、残念ながら転がって池に落ちてしまいます。ここでドロップして続ければ、パーでホールアウトしてプレイオフに持ち込めるのです。しかし、彼はあえて打ち直しを選んだのです。そんな彼の挑戦に観客は大喜び。さて、カップの打ったボールの行方は・・・。

 この映画は、スポーツにおける挑戦の大切さをわれわれに教えてくれる作品です。是非、ご覧になって、スポーツにおける「勝利」と「美」について考えて欲しいです。

(杉本厚夫著「映画に学ぶスポーツ社会学」世界思想社、2005年より)

 

 

Vitia nobis sub virtutum nomine obrepunt.

                                                                                                         林 英彰

 2005年の話題の中で強く印象に残っているのは、衆議院議員の総選挙、ライブドア、もうひとつあえて加えれば「フォー!」です。これらには共通性があって、全体の中から、分かりやすい一部分だけを切り離して、その部分だけを強く印象づけることによって多数の支持を得るという手法をとっていることです。

 このようなやり方に対して、小泉の"One-Phrase Politics"は分かりやすいが前後の脈絡の無い危ういやり方だ、ホリエモンは金儲けは上手いがその金で何をするかを知らない悲しい人間だ、レーザーラモンHGはすぐに使い捨てられるにきまっている、といった危惧や非難の声も少なからずありました。

 しかし、日本が是としている民主政治が、そして民主政治が是としている経済活動が、より多くの人々の指示を得ることを是としている以上、小泉首相も、堀江社長も、HG氏も、社会が求めている手法を駆使し、首尾良く成功を収めたのだとも言えます。

 とくに、ライブドアについては、スポーツを研究対象とする者にとって無関心ではいられないのですが、プロ野球再編問題に直接関わったということもさることながら、経済活動そのものをスポーツにしたらどうなるのだろうか、というたいへん興味深い事例を与えてくれました。「使うあての無い金儲けは無意味だ」という指摘は、「獲物を捕るあてのない槍投げは無意味だ」という命題と、論理的には等価です。槍投げが生活・生存上の実用性を離れたときスポーツになりえたように、企業経営の実務上必要な金額をはるかに超えたところで展開されている資産獲得競争は、マネーゲームという表現そのままに、すでにスポーツの域に達していると見ることもできます。経済の世界で、マネーゲームという言葉は否定的な共示を伴って使用されてきましたが、その否定的な共示を維持して行く根拠が失われつつあることをホリエモン騒動は告げているのだと思います。

 小泉首相の"One-Phrase Politics"にしても、それが論理的でないことにほとんどの人が気づいているにも拘わらず、雪崩をうったように多数の支持を集めてしまいました。「フォー!」に至っては、論理性(話しの筋道)を拒絶している点で人気を博しています。

 好むと好まざるとに拘わらず、こういう時代に私たちは生きているということです。

 そして、こういった事態が厄介なのは、往々にして民主主義の名の下に民主的制度が蝕まれて行く点です。歴史を辿れば、権力者(形式的には権力の代行者)が「これこそが民意である」と宣言するとき、主権者の自律的思考は停止され、自律的判断は失われている場合が少なくなかったことを、心の片隅に置いておきたいものです。

 悪徳は、美徳の名の下に、われわれに這い寄る。(セネカ『書簡 第四五』)

 

成功の秘訣

                                  籔根 敏和

嘉納治五郎(教育者。講道館柔道の創始者であり、日本体育の父ともいう。)は「人は人として生まれた以上、幸せにならねばならない。」といい、幸福感については、「人には欲求というものがあり、その欲求が満たされたとき幸福と感じる。」と述べている。私も全くそのとおりだと思う。人は何かの欲求を持ったとき、それを解決しようとして行動を起こす。この行動の仕方が上手くないと、欲求はなかなか満たされず、そうなると幸福感を得ることはとてもできないだろう。幸福感を得るためには欲求を満たすように上手に行動しなければならないわけであるが、ではどのようにすれば上手に行動できるのだろうか。

 

   @    A      B     C     D       E

            世界選手権2位の選手の大内刈

   @   A    B      C     D         E

               一般選手の大内刈

 上の2つのイラストは、柔道の投げ技で大内刈という技の動作である。大内刈は相手の脚を内側から引っかけて後方へ押し倒す技であり、上の2つのイラストではどちらも左脚で向かい合っている相手の右脚を引っかけている。イラストの上側が世界選手権2位の実績を持つ選手で、下側が顕著な実績のない一般選手である。動作の進行方向は@→Eで、上下のイラストで同じ番号の動作は対応する動作となっている。

 大内刈の目的は「相手の脚を内側から引っかけて後方へ押し倒す」ことであるが、引っかけようとする相手の脚が後方へと逃げてしまってはこちらの脚を引っかけることができなくなり、目的は達成できなくなる。目的を遂げるためにはこちらが脚を引っかけるまで相手の脚はその場に留まっていて欲しい。この考えを頭に置いてまず世界2位の動作を見てみよう。引っかけのための支持脚(引っかけ脚の反対側の脚=右脚)が移動して着床するまでの局面(イラストAからC)で両腕は開き上げられ(イラストB)、その後下方へと押し落とされている(イラストC)。この局面の動作からイラストBまでの動作はイラストCの状態を作るための準備動作とみなせるのであるが、イラストBからCまでの上肢の動作(特に左腕)は相手に対して下方向の力を加えることになり、この動作によって相手の体重は右脚寄りになって、その脚を動かすことはできなくなる。このような状態で右脚を引っかけられ、同時に後方へ押されれば相手は後方へ倒れざるをえない。つまり、世界2位の動作では「引っかけて押し倒す」ための準備がまずなされ、その後に「引っかけて押し倒す」という目的動作(=主動作)が行われているのである。

 次に下側の一般選手のイラストを見てみよう。上側の世界2位のイラストと同様に左脚の引っかけ動作はBから始まっているが、両腕はBからDまで押し上げ続けられており、上側のイラストとは異なる動作となっている。一般選手の動作は、相手に接近する(Bまで)と同時にいきなり目的動作(=主動作)が開始されるという構造で、目的動作を準備する動作が見られない。このような動作では、相手は脚を引っかけられる前に後方へ押し上げられることになり、自然にその右脚は後方へと逃げてしまう。そうなると目的は達成不可能となる。

 以上のような動作の違いはここで上げた例のみならず、あらゆるスポーツ運動に共通している。優れた成果を上げる選手の動作には目的動作とそれを準備する動作の局面があり、それほど成果が上がらない選手の動作には目的動作を準備する局面は見られない。そしてここに重要な教訓がある。目的を明確にしてそれに合致した準備を行うこと。これが上手に行動するということであり、成功(=幸福)の秘訣といえる。 

 

 

 

 

水泳訓練

              和 田 尚

与えられたテーマが「学生に伝えたいこと」ということでいろいろと考えた末、水泳訓練について書くことにしました。なぜなら、私にとっても卒業生にとっても思い出に残る貴重な行事だったからです。

 水泳訓練の歴史は「京都教育大学120年史」をひも解くと1956年に始まったとあります。教員養成である本学の特性に鑑み、「泳げない先生をなくす」ため発足され、天橋立において1991年まで36回にわたり行われました。@全学生の皆泳、A教員の資質としての水泳指導、管理能力の育成、B一回生の集団生活の体験と指導、の三つを目標に全学的行事として毎年7月16日から21日まで56日の日程で行われました。体育学科の教員はもちろん、他学科の教員も10名ほど参加し、まさしく全学的行事として位置づけられていました。学生部長が本部長となり学長も後半には来られ、遠泳を激励されました。列の先頭で学生と一緒に泳がれた学長もおられました。学生は一類(小学校教員養成課程)と体育学科が必修で250名前後が参加し、現地での訓練には助教制が採用され、水泳部を中心に泳力に優れた上回生が指導に当たりました。最大の目標は最終日の前日に2時間ほどの遠泳を完泳することで、それを目指して20班ほどに別れ班別に訓練が行われました。

私が本学に着任したのは1980年ですから12回参加したことになります。学科を越えてみんなが目標に向かって活動する光景はすばらしいものでした。5泊の合宿は初めて経験する人がほとんどで、心身ともに大変厳しいものでしたが、それだけに終わったときの充実感は格別でした。特に完遠泳後のみんなの達成感に満ちた顔は脳裏に焼きついています。梅雨の末期でまだ水温が低い時もあり、ブルブル震えながら泳いだことや、逆にカンカン照りで背中の皮がむけたこともありました。最後の夜に近くの小学校の校庭で行なった大人数のキャンプファイアーも今となっては懐かしく思い出されます。学生諸君との交流や教職員同士の交流は、今では実現できない有意義な体験でした。学生のみんなにとってもその後の学校生活で、さまざまな形で生かされたように思います。

この水泳訓練は残念ながら91年を最後に廃止されました。教育実習との関連で前期試験が7月末に行われるようになったことや、1988年の総合科学課程の発足や1990年の大学院の発足など大学の組織が大きく変わり、みんな忙しくなったことなど、やむを得ない事情が重なった結果です。さまざまな体験が濃縮された貴重な合宿訓練は、現在の教師の資質として求められる多くの要素を含んでおり、今こそみなさんに体験してほしい行事だと考えています。現実には復活するのは不可能でしょうが・・・・・。