2009.10.16
<2010年1月放送>
1995年1月17日 午前5時46分 阪神・淡路大震災発生。
道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などのライフラインは寸断され、被災地の人々は闇の中で、ぼうぜんと立ち尽くしていた。そして、街は情報から遮断された。
その中心部で被災した新聞社があった。
神戸新聞社。創業110年、当時の年間発行部数は約50万部。代表的な地方紙として、兵庫の人々にとっては欠かせない新聞だった。しかも、社員にとっては創刊以来、戦時中でさえ休刊したことがないことが誇りだった。
しかし、震災で新聞社としての機能は完全にまひした。新聞作成のコンピューターも壊滅し、写真の現像も困難だった。
彼らに残されたのはたった2本の電話回線と輪転機のみ。だが、当時の編集局長は全記者に指令を出した。「何としても新聞は出す!」と。彼らは新聞を作ることをあきらめなかった。
フジテレビは、2010年の阪神・淡路大震災から15年という節目に、神戸新聞の新聞記者たちが、それぞれの立場でもがき苦しみながらも、新聞を作り続けた闘いの模様を描くドキュメンタリードラマをお届けする。
来年(2010年)1月放送の『阪神・淡路大震災から15年 神戸新聞の7日間〜被災地に生きた記者達の闘い〜』(仮)では、「地元新聞紙としての役割」を守るため、そして、「被災した人々に何ができるのか」の答えを見つけるため苦闘した彼らの姿、そして、15年後の彼らの現在の姿を追う。
未曾有の災害に遭遇し、被災者にカメラを向けることに疑問を抱き始める若手記者たちが「伝える」ということの本当の意味を考え始めていく…。
神戸新聞社の若き写真部記者・三津山朋彦を、「嵐」の櫻井翔が演じる。主人公の三津山を演じることについて、櫻井は「1995年1月17日。それは、僕が中学1年生の時でした。わずか15年前に見た震災の映像を今でも鮮明に覚えています。ですが、その時、神戸新聞社でこのようなことが起こっていたとは正直知りませんでした。 "伝える”とは何か。そして、"前を向く”とは、どういうことか。そんなことを、いまもたくさんの方の心に大きなつめ痕を残す阪神・淡路大震災を見つめ直すことで感じて頂きたいと思います」と話している。
番組を企画・プロデュースしたフジテレビ編成部の立松嗣章は主人公の若き写真部記者に櫻井翔を起用した理由について「主人公は当時入社四年目の若手記者で、若手であるがゆえに未曾有の被災現場でレンズを向ける自分自身の仕事に悩み苦しみます。その葛藤を演じていただける若者の代表として、櫻井さんにお願いしました。実在の報道記者という難しい役柄ですが、出演をお願いしたとき、"こういう仕事をずっとやりたかったんです”とおっしゃっていただきました。また、櫻井さん自身、ニュース番組のキャスターとして、日々伝える事の意味を考えていらっしゃいます。本番組でも、震災で傷ついた方々の思いへの配慮を忘れることなく、事実と真摯に向き合っていただいてます。同世代から高い支持を得ている櫻井さんを通して、震災の記録を若い方々に知っていただければと思います」と話す。
若手の写真部記者・三津山を櫻井翔が演じるほか、新人の写真部記者・小藤香織を吹石一恵、未曾有の会社の危機に苦渋の選択をする山根編集局長を内藤剛志、三津山とともに京都新聞社で神戸新聞を発行するため震災当日、京都に向かう整理部長・首藤を高嶋政宏、三津山の写真部の先輩記者・金居を萩原聖人が演じる。
1995年1月17日(火)午前5時46分。阪神・淡路大震災発生。当時、神戸新聞社・写真部記者の三津山朋彦(櫻井翔)は入社4年目の報道カメラマン。現場を一人で任されるようになり、自分が撮る写真に自信を持ち始めていた。学生時代は大手マスコミの試験に全滅し、一般企業に勤めていたが、報道の仕事があきらめきれず、2年後、唯一合格したのが神戸新聞だった。
神戸新聞社・写真部。入社1年目の小藤香織(吹石一恵)が写真部デスクの則本に怒られている。小藤は泣きそうな声で、三津山に「どうしたら三津山さんみたいないい写真撮れるんですか」と聞く。
ワンルームマンションの中。眠っていた三津山をこれまで経験したことのない揺れが襲う。散乱した物の中から手探りで、洋服とカメラをつかみ、外に出て行く。三津山は取材をしながら、神戸新聞社に向かう。
会社に到着した三津山はメチャメチャになった編集局フロアにぼうぜん自失となる。壁から落ちた時計は5時46分で止まっている。写真部の部屋も自動現像機が横倒しになり、現像液が床一面をビショビショにぬらしている。
編集局長の山根(内藤剛志)は、ホストコンピューターが壊れ、新聞が発行できない状況にぼうぜんとなり、言葉を失う。だが、山根は「新聞は必ず出すんや!」と部下を鼓舞し、京都新聞社に電話をする。神戸新聞と京都新聞は新聞制作に、コンピューターを導入し始めていた当初、突発的なシステムダウンを想定し、緊急時に互いを助け合う援助協定を結んでいた。
京都新聞が紙面の制作を了承し、震災当日の夕刊を出すことになった。京都で神戸新聞の紙面を作るため、三津山は整理部の首藤(高嶋政宏)らと京都へ向かう。京都新聞社の全面協力を受け、なんとか1月17日の神戸新聞夕刊が発行された。たった4ページ。「無念の夕刊」だったが、休刊をしたことがないという誇りを神戸新聞は守り抜いた。
だが、神戸新聞に新たな試練が襲う。外からは原型をとどめている神戸新聞本社は「全壊判定」を受け、いつ崩れ落ちても不思議でない状態だった。全員撤去し、空きビルの一室を借りて、臨時編集局を開設することになった。
次々と試練が襲い、新聞を出す意味に迷いを見せ始める神戸新聞社員。父親を震災で失った一人の論説委員長の社説が彼らの気持ちを奮い立たせる…。
2010年1月、40代になった三津山が大震災当時を振り返る形式で、資料映像をまじえたドキュメンタリードラマをお届けする。
被災地で本社が崩壊しながらも新聞を発行し続けた地元新聞社があったこと、その紙面の裏側に壮絶な闘いと人と人とのきずながあった事を知り、15年となる節目での番組化を決意しました。
これまでに多くの関係者に取材しましたが、当時の社員の中には自らも被災し、身内を亡くされた方もいました。主人公の方は、当時若手カメラマンとして、被災地の中で、伝えるということの意味を己に問い続けた方でした。がれきの中で届けられた新聞…その紙面に秘められた記者たちの知られざる闘いを多くの方々に見ていただき、震災の記録を風化させる事なく、伝えられたらと思います。
2009年10月22日発行「パブペパ No.09-260」 フジテレビ広報部
※掲載情報は発行時のものです。放送日時や出演者等変更になる場合がありますので当日の番組表でご確認ください。