急ピッチで進む公共事業の見直し。公共事業をなぜ中止しなければならないのか、そこからどのような問題が生じるのか。その試金石と言われるのが群馬県の八ツ場ダムだ。水没予定地には、現在100あまりの世帯があり、高台に造成されている代替地へ移転している最中だ。町の顔となっている7軒の温泉宿も、代替地で新たな温泉街を開く計画となっていた。
今、町役場には全国から批判の声が殺到している。9月23日、前原国土交通相がダムの視察に訪れた際、住民側は対話を拒否した。新聞やテレビで事実を知った人々が「ダム建設中止は民意だ」「中止を受け入れろ」と手紙やメールを送ってきたのだ。その数は4000通にものぼる。「私たちの思いは、なかなか分かってもらえない
住民は困惑気味に話した。
地元の人々が「ダム建設」にこだわるのは、57年という「時間」だ。
長野原町にダム建設の話が持ち上がったのは昭和27年。下流域の洪水を防ぐため、そして後に、首都圏の水がめという目的が加わった。昭和40年に、事業の推進が本格化すると、水没予定地に住む人々を中心に、激しい反対運動が起こった。
しかし建設省は、昭和42年、地元に「調査出張所」を設置。一方で駅前には「生活再建相談所」ができ、「ダム建設」は「地域振興」とセットで語られるようになっていく。そして、「補償金」「補助金」といったカネの噂が絶えなくなったという。次第に「ダム賛成派」が生まれ、反対派と対立。地域のコミュニティーは分裂していった。
反対運動の渦中にいた、竹田博栄さん(79)は言う。「人間同士のいざこざというのも随分ありましたね。疑心暗鬼と言うんですかね。何かというとすぐ、カネ儲けだとかね・・・
地元と建設省のこう着状態が長く続き、住民たちはダム問題に疲弊していった。昭和55年、群馬県は地元に「生活再建案」を提示。補償金以外にも、様々な地域振興策が打ち出されていた。これを機に、住民たちは建設受け入れに傾いていった。
ダムをめぐる対立は、家族関係にまで及んでいた。旅館を経営する豊田拓司さんは、父親の嘉雄さん(故人)とともにダムに反対。旅館に「ダム絶対反対」の看板を掲げていた。
しかし拓司さんは、隣人同士が反目しあう状況に、「ダムもやむを得ない」と考えるようになっていった。一方の、嘉雄さんは反対を貫いた。親子のいさかいが絶えなくなった。
ある日、拓司さんは旅館に掲げられていた「反対」の看板を、嘉雄さんが外出している間に外してしまう。看板は確かに「国との争いの象徴」であったが、拓司さんにとっては、「地元のいさかいの象徴」であり「父との争い」の象徴だった。しかし、この一件で嘉雄さんとの関係は修復不可能なところにまで至ってしまう。和解できぬまま、嘉雄さんは2年前に亡くなった。拓司さんは、声を絞り出すように、途切れ途切れに語った。
「ダムが中止は、本来は嬉しいことなわけですよね。それが嬉しくないって、ここの人たちが言っていることが悲劇なのかもしれない。時間じゃないんですかね。ここまで来てしまった時間。私たちはもはや、ダムを外してはひとつも考えられなくなってしまった
地元の住民に大きな負担を強いる公共事業の見直し。それでも新政権が一歩を踏み出そうとするのはなぜなのか。民主党の政策に大きな影響を与えた嶋津暉之氏を取材した。嶋津氏は「中止にした方が、はるかに小額で済む。八ッ場ダムがストップされても、事実上何ら困らない」と断言する。
その訳は、こうだ。当初、八ッ場ダムの事業費は2110億円だった。それがその後、4600億円に膨れ上がった。工期も延びており、今後増大する可能性は高い、と指摘する。また、治水や利水の面でも、洪水時に八ッ場ダムが水位を低下させる効果は小さいと言う。さらに、水の需要は将来的に減っていくことが予想されており、八ッ場ダムは必要ない、と言うのだ。
一方、多額の負担金を出してきた埼玉県は、真っ向から反論する。過去20年、渇水による取水制限を6度経験しており、新たな水がめは不可欠、と言う。さらに、堤防の補強には限界があるため、洪水対策としても上流のダムに頼らざるを得ないと主張する。
上田清司知事は言う。「山を沈めたりするが好きな人なんかいませんよ。だけど現実には、それでも飲み水を確保したり、あるいは、洪水を防いだりしているのも事実ですから。一方的に中止にして、それに代わるものはこれですって、全然提示されないんですから
今回の事態は、政権交代、つまり、国民の選択によってもたらされた。その選択によって、何が得られ、何を失うのか。正しい情報と、透明化が一層求められる。と同時に私たちは、選択の責任を負っていかなければならない。