日めくりプロ野球12月
【12月27日】2006年(平18) 坪井智哉、日本ハム解雇から一転再契約
プロ10年目にして初のサヨナラ安打を放った坪井(左から2人目)はチームメイトに祝福され大喜び。日本ハムV2が近づいた一打だつた
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球団事務所仕事納め前日、1人の野球選手の首がつながった。
10月に球団から戦力外通告を受けた日本ハム・坪井智哉外野手が、一度解雇したはずのファイターズと再契約。背番号は「7」のままだったが、年俸9000万円から大幅ダウンの2000万円(推定)ながら、プロ野球選手として10年目のシーズンを迎えられることになった。
監督が交代したことで、戦力外通告から一転して契約にいたったケースは数例あるが、日本ハムは44年ぶりチームに日本一をもたらしたトレイ・ヒルマン監督がもちろん続投。監督がそのままで解雇→再契約は、90年(平2)近鉄の後関昌彦外野手以来、16年ぶりだった。
「なぜ、オレがふざけるな」。まだ3割を打つ自信はある。06年は1割9分1厘だったが、8月に骨折(右鎖骨)しなければ、もう少し成績を残せたし、優勝にも貢献できた…。悔いが残る辞め方だけはしたくなかった坪井は、2度のトライアウトを受験した。
キャリアからみて、食指を伸ばす球団は少なくないと予想されたが、“大物”はどの球団からも声はかからなかった。高額な年俸と球団によっては「戦力的には魅力だが、打撃に関しては自説を曲げない職人気質がチームどういう影響を与えるのか判断が難しい」と二の足を踏んだからだ。
年の瀬になり、いよいよ野球ができなくなる可能性が現実味を帯びてきた。練習は続けていたが、それ以外は外に出るのも人に会うのも嫌だった。というより、「怖かった」(坪井)。朝起きたら「全部悪い夢だったりしてなんて、都合のいいように考えようとした」ことさえあったという。米球界挑戦も見据えたが、気持ちは揺れた。
日本ハムから「再契約の用意がある」との連絡があったのは、新年まで残り1週間を切ったころだった。球団は「坪井の選手としての能力はまだ高い。戦力としてみている」としたが、ドラフト、トレードなど来季を見据えた戦力補強で思うように左の外野手が補えなかったことは言わなくても分かった。
「人生のすべてを捧げてきた野球を一度取り上げられた。自分が情けなかった。一度は死んだ身。はい上がるしかない。98年入団したときと同じ気持ちでやる」。再契約の会見で決意を口にした坪井の本心は悔しくて仕方がなかった。野球が再びできるという喜びもあったが、「再契約するならなぜ、一度クビを切ったのか。オレがどれだけ悩んだか分かるのか」。そのわだかまりは正直残った。
「絶対見返してやる」。その気持ちをいつも心のどこかに秘めながら、07年は6年前から交流のあるシアトル・マリナーズのイチロー外野手と共に自主トレを開始。キャンプ、オープン戦とも特打ちはもちろん、今まで積極的でなかった守備練習や走塁まで進んで取り組んだ。体にキレを取り戻そうと体脂肪を約2%落とし、1ケタの9%にするほど、絞り込んだ。
そして3月24日、ロッテとの開幕戦。千葉マリンスタジアムのスコアボードに名前が刻まれた。「8番左翼・坪井」。6回の第3打席、清水直行投手から放った一打は左翼線適時二塁打。試合は雨天コールドで引き分けたが、わだかまっていたものが少しずつ晴れるような気がした。
奇しくもこの日は長男の3歳の誕生日。「ベースの上で息子の顔が浮かんだ。こんなこと今までなかった」と坪井。「見返してやる」という気持ちが、たんだんと家族への感謝、今野球ができることへの感謝と変わっていった。
かつて自分がそうだったように、工藤隆人外野手ら若手がみるみるうちに台頭、坪井の出番は限られた。それでもここぞというときの集中力は途切れなかった。8月29日、フルスタ宮城での楽天19回戦では9回4−4の場面で代打出場。小山伸一郎投手の初球の145キロの真っ直ぐを差し込まれながらも右前へ勝ち越し適時打。ピンチヒッターでのタイムリーは実に3年ぶり。敵地ながらヒーローインタビューも久しぶりだった。「今度は札幌でお立ち台に立ちたい」と締めくくった。
その思いは1カ月後に実現した。札幌ドームでの楽天22回戦、1−1で迎えた9回裏、一死一、二塁でヒルマン監督は坪井を代打に送った。マウンドにはすでに10勝をマークしていたマー君こと、新人王の田中将大投手。その121球目、内角低めの難しい球をヒジをたたんで打った打球はライト前へ。これがプロ10年目にして初のサヨナラヒットだった。
仙台での約束を果たした坪井の一打をチームメイトがしっかり見ていた。「優勝した時にあの1勝が効いたと思えるくらいの勝ち方。サイコー」と、稲葉篤紀右翼手ははい上がって輝きを取り戻した同僚の一撃を自分のことのように喜んだ。
これで優勝へのマジックは5。06年の日本一に何も貢献できなかった背番号7が、連覇に向けてチームに弾みを与えた忘れられないひと振りだった。
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