Un Ball
うららかな日和の午後だった。
昨日まで降り続いた雪もぴたりと止み、明るい陽射しに包まれた、光のどけきロックアックス城の一角。
「マイクロトフ様でしたら、迎賓館へ行かれましたが?」
「迎賓館?」
昼食時には決まってカミューを呼びに来るマイクロトフが今日は姿を現さなかった。忙しいのだろうと思いつつカミューの方から青騎士団の棟に出向いたところ、執務室へ行き着く前に彼の副官と出会ったのだったが。
思いもかけなかった場所を告げられ、そんなところへ一体何をしに? とカミューは小首を傾げる。
「はい、先程ミューラー殿のところへ出向きまして、その帰りに」
副官は今は白騎士団を預かる身となっている友人の名を口にした。
迎賓館は白騎士団の棟に隣接している。
「迎賓館へ上がる階段下で、ふと足を止められまして。思いついたように登って行かれました」
「そうか……ありがとう。行ってみるよ」
一礼して去っていく副官の後ろ姿を見ながらカミューもまた踵を返した。
マチルダ騎士団は未だ復興途上にある。
かつては訪れる客をもてなし華やかに夜会が開かれていた迎賓館も、今は扉を閉ざされ長らくうち捨てられたままとなっていた。
ロックアックスの富と栄華の象徴とも言えた迎賓館。ゴルドーが領主となってからは殊更贅の限りを尽くしてきたそこを、マイクロトフは良くは思っていなかった筈である。いずれはそこに客を迎える日も戻って来ようが、その日をここロックアックスで迎えるつもりは自分たちには端からなかった。新しい騎士団の組織が軌道に乗るまで、というのが二人の間での暗黙の了解だったのだ。
迎賓館への階段の下でつと足を止めてカミューは上を見上げた。
踊り場横の瀟洒な飾り窓から燦々と陽射しが差し込み、赤い絨毯に日溜まりを作っている。その中で積もった埃が僅かな空気の揺らぎに舞い上がり、キラキラと光を反射していた。
――埃か。
もしかして、と思いながらカミューはゆっくり階段を上がる。城の何処を歩いてもカツカツと硬質な音を立てる軍靴だが、唯一ここでは足音は柔らかい絨毯に吸い込まれていく。長く人が足を踏み入れなかった空間は、どこか非現実的なものをカミューに感じさせた。
階段を上りきった正面に大広間のメインの扉が見える。そこは案の定人の手によって開け放たれていた。
忘れ去られ、背景に典雅な音楽もさざめく人々の声も持たないその場所はさぞかし寒々としていることだろう。無意識にカミューはそう想像していた。
しかし扉の前まで行き着くまでもなく目に飛び込んできたのは、意外にも日の光に満ち溢れ、輝くばかりの室内の様子だった。装飾を一切取り払った広間は、かつて煌びやかに着飾った人々に溢れていた頃の華やかな、しかし退廃的な雰囲気は全くなく、ただ穏やかに冬の陽射しを受けていた。
なんとなく口元を綻ばせながらカミューはゆっくりと扉に手をかけ中を覗き込む。
果たして、探していた友人の姿がそこにあった。
咄嗟にマイクロトフ、と声をかけようとして、しかし次の瞬間カミューは慌てて口を閉ざす。
――見なかったことにして立ち去った方がいいかな。
カミューをしてそう思わせるほどの光景がそこにあった。
「シラソファソラシドレ〜レミファソ〜ファラソファ〜ミ…………」
ダンスは苦手だと事ある毎に言い訳のように主張していたマイクロトフが、誰もいないホールで一人、ワルツを口ずさみながらステップを踏んでいた。
ナチュラルターンだけを繰り返す単純なウィンナ・ワルツ。本来華やかな踊りの筈のそれが、マイクロトフの何か考え事をしているような、しかもかなり沈考しているような声の響きのせいで、随分と重苦しいものに見える。そしてテンポはこれまたいやになるほどゆっくりしたものだった。
彼が自分で言うほどダンスが苦手でないことは知っている。単純にマイクロトフの場合苦手なのは殆ど面識のない女性を相手に踊ることなのであって、例えば彼の姉の相手を勤めている時は思わず見惚れてしまうくらいの踊りを披露していたこともあった。
しかし相手もいない場所で一人ステップを踏む程ダンスが好きだとは、カミューにしても全く思っていなかったのだが。
――いったいなんなのだ?
何故マイクロトフが一人でワルツを踊っているのか見当もつかなくて、カミューは暫し途方に暮れる。楽しんでいるようにはとても見えないが、カミューの気配にも気が付かないほど自身の思考に埋没しているのは確かなようである。
ならば、と踵を返しかけたところでカミューはふと、マイクロトフの口から聞こえる旋律に思い当たって足を止めた。
――よりによって。
思わず眉を顰めてしまう。
そしておもむろに拳を握り、傍らの扉に軽くコンコンと打ち付けた。
目線を床に落としてステップを踏んでいたマイクロトフは、はっと顔を上げた。
「ステップは大変結構なのだけどね、マイクロトフ、その曲目はいただけないな」
「カミュー……」
夢から覚めたばかりのような、まだぼうっとしているような顔でマイクロトフはぼんやり親友の名前を呟く。
「大体いったいなんだって一人でワルツなど踊っているのかな?」
溜息をひとつ吐いてカミューはホールの真ん中付近に立つマイクロトフにつかつかと近づいた。
「いやそこでオルゴールを見つけて。開けてみたらこの曲が流れたのだ。しかしさっきからなんの曲だか思い出せなくて……口ずさんでいるうちになんとなくステップを、だな」
慌てて言い訳するマイクロトフが指し示した方を見ると、壁際に一つだけ飾り卓が置かれている。その上に小さなオルゴールがぽつんと乗せてあった。
歩み寄ってそれを手に取り、カミューは裏返してネジを巻き直す。
蓋を開けると思いの外柔らかい音が流れ出した。
なるほど、綺麗な音だ、とカミューは納得して蓋をぱたりと閉めた。曲の題名が思い出せなくて気になったというマイクロトフの気持ちも理解できないこともない。
「これは破滅へのワルツだよ、マイクロトフ」
同じように横にやってきた彼にオルゴールを手渡しながら言うと、マイクロトフは「え?」と目を瞠った。
「狂人の夢のワルツだよ」
「ああそうか! しかし狂人は酷いと思うぞ、カミュー」
ようやく思い出したとばかりに顔を輝かせて、しかしカミューの辛辣なコメントに文句を付けながらマイクロトフは手の中のオルゴールに目を落とす。
その横っ面をぺち、と揃えた指で軽く叩いてカミューは彼の顔を自分の方に向けさせた。
「綺麗な曲だけどね。どうせ踊るのなら私はもっと楽しい曲がいいのだけどね」
「いや別に踊ろうと思って踊っていたのでは……」
「どうせもう埃は払ったのだろう?」
「ああ…………ってカミュー、どうしてそれを!」
知っているのかと問われるまでもなく、カミューはくすりと笑みをこぼす。
「お前がここに来る用事など他にないじゃないか」
言いながらカミューは広間の正面奥に架けられた絵画に目を遣った。
マイクロトフが崇拝に近い思いを抱いているマチルダ騎士団初代領主の肖像画。初代の白騎士団長でもあった人物の既に伝説と化した数々の英雄譚は、ロックアックスに育ち騎士を目指す子ども達が必ず胸躍らせて読みふける絵本にもなっている。
歴代団長の肖像画は各騎士団の最深部である団長室前の廊下に全て飾られている。初代領主の肖像画ももちろん白騎士団の方にもあるのだが、こちらの絵は普通の肖像画と違って馬に跨り剣を振りかざし、今にも出陣せんとする出で立ちであった。
領地を守る誇りに輝く表情を以て。そのいかにも英雄然とした姿はあたかも絵物語の中から抜け出てきたようで、ここに招かれた人々はこぞってこの絵を褒め称えてきたものだった。
仰々しい夜会が開かれるこの場所があまり好きではなかったマイクロトフも、この絵だけはいたく気に入っていた。
聖マチルダを体現したような絵だな。
以前彼がふとした折漏らした呟きをカミューは覚えている。ゴルドーの圧政に憤りを抱えていたあの頃。マイクロトフが何を思ってこの絵を見つめていたか、わからないわけがなかった。
そして理想に描いたマチルダを一から作り上げようと日々夢中で勤める今。忙しさの中で忘れていたこの絵のことを、白騎士団の執務室へ出向いた時廊下に並ぶ肖像画を見て思い出した、おそらくはそういうことなのだろう。閉ざされた迎賓館の中で埃を被っている姿を思い浮かべ、マイクロトフはいてもたってもいられなかったに違いない。
そこまでは想像通りだったのだが。
――まさかワルツを踊っているとはな。
先程の自分の驚きを思い返し、カミューは再びくすくすと笑った。
「カミュー?」
訝しげなマイクロトフににっこり微笑んで、カミューは右手で彼の左手を取る。
「一曲お相手願えませんか、青騎士団長様?」
マイクロトフは一瞬目を瞠り、しかしすぐに右手をカミューの背に回した。
「望外の喜びです、赤騎士団長殿」
軽く一礼して。ご所望の曲目は? と問うマイクロトフにカミューは、では春の訪れを、と返した。
マイクロトフのハミングに合わせて二人の足音と衣擦れの音が広間を満たしていく。
未だ雪深きロックアックスの地にもやがて春は訪れる。
窓の外のテラスでは、手すりに積もった雪が午後の陽射しを受けて、ぱさりと音を立てて滑り落ちていった。
Fine.
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