証言する「小山一郎さん」(撮影すべて筆者)
11月7日(土)東京・新宿区立消費者センターで、「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」東京支部の主催で、元日本兵による証言集会『撫順戦犯管理所の6年間』が開かれ50人が参加した。
最初に45分の記録映像を視た後、休憩を挟んで証言に入り「元中国帰還者連絡会(中帰連)」会員で都内在住の小山一郎さんと、千葉県在住の坂倉清さんが証言に立った。お二人とも89歳で、第59師団43大隊で、小山さんは本部情報、坂倉さんは兵砲中隊に所属し二人とも階級は軍曹であった。
同東京支部では今まで「元中帰連」の皆さんの戦争や加害体験、シベリア抑留体験等の聴き取りを進めてきたが、今回はその後、1950年に約1000人が抑留先のシベリアから、中国「撫順戦犯管理所」に引き渡された(収容)当時の事を証言した。
収容当初は「なぜ俺たちが戦犯!、命令に従っただけ!」と反抗していた。そして暖房の効いた部屋で中国人以上の食事待遇等などを受け、自分たちの過去を振り返り「これで処刑か」と覚悟さえしていた。しかし、何時になってもその待遇は変わらず、過去を振り返り体験を書くように勧められたものの決して強制はなかった。
そして、54年になって自分たちの過去を振り返る人たちが出始め、宮崎弘(中尉)が管理所の中庭に全員を集めた前で、師団長命令で抗日分子7名を殺し、また、中国人家屋への放火、略奪、殺人等を部下に命じ自らも行ったと告白、「極刑に価する」と絶叫しひれ伏し涙しながら謝罪した。
証言する「坂倉清さん」
宮崎の告白を聴き全員が涙し、坂倉さんも自分の今までの軽い反省から、改めて罪の深さを自覚した。そして、戦場で既に息絶えている母親の乳をまさぐりながら、坂倉さんの顔を見て「ニコッ」と笑った赤ちゃんの顔を今も忘れない。その後、部屋に戻った後は暫く誰も口をきかなかった。
また、坂倉さんは憲兵だった土屋良雄さんと三尾豊さんと同室で、宮崎の告白を聴いた後、二人が余りにも意気消沈しているので、心配して声を掛けると「俺たちはみんなと違うんだ」と応え、「731に丸太を送った」と告白した。しかし、後日この2人も認罪し「起訴免除」で帰国を赦された。
また、収容中に自らの良心と処刑の恐ろしさからか2人が自殺した事も証言した。一人は便所のクレゾールを飲んで、もう一人は大きな溜の便槽に身を投げ、管理所職員が便槽に飛び込み口を合わせ糞尿を吸っては吐きを繰り返して救出しようとしたが、命を救うことが出来なかった。
そして、偽満州国国務院総務長官の武部六藏は禁固20年の判決を病室で受け、「但し、病につき即時釈放」と伝えられ号泣し、彼は担架のまま興安丸に乗せられ帰国したのである。
小山さんは戦後カッパブックスから出版した『三光』が、たった一枚の写真の間違いを右翼から攻撃され、絶版になった悔しさも話した。(その後、別会社から出版)
そして、管理所での告白は一時、加害を過大に書けば有利という安易な考えの人もいたが、管理所は事実の過大も矮小化も認めなかった。また、思い出すので「ヒントを」と言っても(中国側は全て調査済み)「自分で考えなさい」と教えず、他人の密告も認めず「自己の事実」のみを書くように指導した。
この頃になると部屋の鍵も無くなり、文化、体育、創作、生活、学習の各部が自主的に創られ、運動会や学芸会、読書や絵画、麻雀、将棋などを楽しみ、食事も生活部が作るようになった。
結果として56年の戦犯軍事法廷では無期も死刑も無く、政府・軍高官の45名を除き「起訴免除」となり56年の6、7、8月の3回に分け帰国、二人も同年7月18日に興安丸で舞鶴港に着岸した。
また、有罪判決を受けた45人もシベリア抑留と撫順戦犯管理所の収容期間を刑期に参入され、その5年後には全員が帰国を赦された。
しかし、帰国後もマスコミを含め彼らは「洗脳者」扱いをされ、また、公安警察にも監視され、多くの人が就職が出来ず自営業の人が少なくなく小山さんもその一人だった。
また、撫順戦犯管理所に収容された1000人余りの関係者で、70万人の中国人を殺していると指摘されたという。
「証言」を聴く会場の皆さん
この「撫順戦犯管理所」の体験は、昨年08年11月30日にNHK・BS放送で『認罪〜撫順戦犯管理所の6年』(1時間50分)と題したドキュメンタリーが放送され、その中で小山さんと坂倉さんも証言している。
また川越の「NPO・中帰連平和記念館」でもこの番組に資料提供し、08年度のTV部門で「ギャラクシー大賞」を受賞している。
尚、この元日本兵の反省・謝罪の原点である撫順戦犯管理所は、来春「完全復元工事」が完成しリニューアルされ再オープンする。
近くには関東軍が3000人余りの中国市民を虐殺して埋めた遺体を掘り起こし保存している「平頂山惨安記念館」も在る。