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【芸能・社会】

森繁久弥さん死去 大往生の96歳

2009年11月11日 紙面から

 芸能界のビッグダディが天に召された−。映画「夫婦善哉」や舞台「屋根の上のヴァイオリン弾き」をはじめテレビ、ラジオなどでも幅広く活躍した日本を代表する俳優で、大衆芸能の分野で初の文化勲章を受章した森繁久弥さんが10日午前8時16分、老衰のため東京都内の病院で死去した。96歳。大阪府出身。葬儀・告別式の日取りは未定、喪主は次男建氏。建氏が11日、東京都内で会見する。

◆7月に発熱と風邪で入院

 森繁さんの所属事務所関係者によると、森繁さんは今年7月22日、発熱と風邪の症状を訴え、検査を兼ねて入院。その後快方に向かい、1週間後には退院できる予定だったが、8月3日に森繁さんが入院したという事実が報道されたため混乱を避ける目的と、インフルエンザの流行を懸念し、そのまま入院していた。

 ここ数年は車いすでの生活だったが、周囲の協力を得ながら、つえをついて散歩に出かけるなど、健康的に過ごしていたという。

 ここ1週間も、肺炎の症状が若干見られるものの、特に普段と変わった様子はなかったため、この関係者は「けさ(10日)、連絡を受けて(死去を)知ったので、本当にびっくりしています」と話した。最期は、危篤の知らせを受けて駆けつけた二男や長女、孫らに見守られながら眠るように息を引き取ったという。

◆白寿の企画が…

 「あと3年で白寿なので、その(お祝いの)企画の準備を進めていたのに…。ショックです」。森繁さんの所属事務所がある東京都中央区のマンション前で10日夜、マネジャーなどとして40年以上つきあってきた事務所の守田洋三代表が落胆した表情で語った。

 家族の連絡を受けた守田さんが10日午前、都内の病院に駆けつけたところ、森繁さんの顔は安らかな表情で「寝ているのかな」と思ったほどだったという。守田さんが10日ほど前に見舞った際は、顔色は良く普通に会話できる状態だったという。

◆長い下積み生活

 味のある演技と、独特なペーソスの“森繁節”、人情味豊かな人柄。日本の芸能史に不滅の足跡を残した森繁さんは、大阪府枚方市の生まれで、徳川幕府の大目付だったという家柄。早大在学中は演劇研究会に所属し、先輩には映画監督の山本薩夫、谷口千吉氏(いずれも故人)らがいた。

 戦前、旧満州でのNHKアナウンサー時代、満州各地を回り、その際に書いた「森繁ルポルタージュ」は、国定教科書に採用された。終戦で帰国、1949(昭和24)年には新宿ムーラン・ルージュに参加、日本初のミュージカル「モルガンお雪」に出演した。

 長い下積み生活を経て映画界入り。人情ものの傑作「夫婦善哉」(1955年)では金持ちのぐうたら息子を味わい深く演じた。「猫と庄造と二人のをんな」ではダメ男を演じ、「恍惚の人」ではボケ老人を演じて、出色の出来栄えといわれ、その才能が最も生かされた映画と評された。50年代の東宝「三等重役」、「社長」シリーズや「駅前」シリーズは、高度経済成長と重なり大当たりとなった。

 「七人の孫」などホームドラマの父親、おじいさん役でも味わいを見せた。また、多くの舞台に主演。ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」のテヴィエ役は54歳から73歳まで、900回演じた。迫害を受けながらも、古いしきたりを守り、家族に愛情を注ぐ一家の主の姿が多くの人々の心をとらえた。

 歌でも才能を発揮。大ヒットした「知床旅情」は、自ら製作も兼ねた「地の涯に生きるもの」(60年)のロケ先で自ら作詞作曲した。NHKラジオ「日曜名作座」は収録2000回を超えた。

 「あゆみの箱」の会長を務めるなど慈善活動にも尽力。日本俳優連合理事長として大衆芸能の発展と俳優の地位向上などに努めた。文化功労者に選ばれた後、91年に大衆芸能の分野から初めて文化勲章を受章した。

 

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