軽演劇に始まり、ラジオ時代にはラジオ、映画時代には映画でと、多彩な活躍をしてきた森繁久弥さんが10日、亡くなった。96歳だった。時代の風俗を軽妙な演技で映してきた俳優の死を、多くの関係者が悼んだ。
森繁さんの所属事務所「アクターズセブン」の守田洋三社長(68)によると、森繁さんは10日午前8時16分に次男・建(たつる)さん(66)ら家族に見守られながら、亡くなった。家族からの知らせを受けた守田社長は9時過ぎ、病院に駆けつけたが、森繁さんは安らかな表情でベッドに横たわっていたという。
森繁さんは風邪による発熱で大事を取り、7月22日から東京都内の病院に入院していた。目が悪いため、病室では読書はしていなかったが、テレビを見たり、家族らと話をしたりして過ごしていた。守田社長らが見舞いに訪れた際には「何かおもしろい話はないか」というのが口癖で、好奇心旺盛な様子を見せていた。芸能界関係者の見舞いは「周囲に気を使わせたくない」との本人の意向で、遠慮していたという。
守田社長によると、森繁さんはこれまで250本以上の映画に出演し、04年の映画「死に花」への出演が最後の仕事になった。事務所は、99歳の白寿のお祝いを計画していたといい、これまでに出演した映画やドラマなどの功績をまとめることを検討していた。守田社長は「もう高齢なのでいつかこの日が来ると覚悟はしていたが、ショックだ。森繁さんとは40年来のつきあいで、一緒に多くの仕事をさせてもらった。今年の春、森繁さんが『もうすぐ、100歳だからなあ』と元気な様子で話し、みんなで大笑いしていたのが思い出される」と話した。【佐々木洋】
映画評論家の白井佳夫さんは「舞台、映画、テレビ、ラジオという幅広い媒体で、シリアスな芝居からコメディー、人情もの、歌、ミュージカルまでこなした。役柄も主役から性格俳優的な脇役まで何でもできる。あらゆる面で境界を超えた人だった。戦後の芸能史は森繁一人の道程を書けば事足りてしまうほど」とフィールドの多彩さを指摘する。「友人のコメディアンをリアルな芝居に出演させて才能を開花させるなど、異分野の人を抜てきするプロデューサー的能力もあった。映画に出演すれば自分で歌を作ってしまう」と、演じるだけではない才能も紹介。「マルチな活躍は北野武、タモリにつながる現代のマルチタレントの先駆けといえる。行い澄ましたところのない『名優』だった。こんな俳優は他にいなかった」と惜しんだ。
「夫婦善哉」など数多くの映画・舞台で共演した女優の淡島千景さんは「世の中の見方やおしゃべりのうまさなど、立派な役者さんだった。最後に共演した時は、森繁さんは体が動かず不調だったが、『本番』の声がかかると、きちんと演じていらした。親切で神経の細かい方で、舞台を楽しんでいらした。昨年、ご自宅を訪ねた時は玄関まで出迎えていただき、お元気そうだったのに。もうちょっと長生きしてもらいたかった」と悼んだ。
俳優の西田敏行さんは「私のデビュー当時、本当に可愛がっていただきました。森繁先生の芝居から学んだことは数知れず、洒脱(しゃだつ)で大人のにおいをプンプンさせたかと思えば、『屋根の上のヴァイオリン弾き』ではテヴィエのピュアな感情を見せてくださいました。ありがとうございました」とコメントした。
森繁さんの最後の映画出演作となった「死に花」を監督した犬童一心さんは「日本の俳優の頂点で、森繁さんが来るというだけで現場の空気が変わった。助監督にかわいい意地悪をしたり、女優さんが来るとうれしがったり、撮影が楽しくてしょうがない様子だった」と話した。
ヒット曲「知床旅情」を森繁さんに作詞・作曲してもらった加藤登紀子さんは「100歳まで生きてほしかった! 本当に残念です。老いてますますかわいくてすてきなおじいちゃんでした。『うたうように語り、語るようにうたえ』。それが森繁さんの心でした。弾き語りで歌った『ひとり寝の子守唄』を聞いてくださったとき、『僕と同じ心で歌っているね』と言ってくださったのが初めての出会いでした。その後、『知床旅情』を歌わせていただきました。何度も一緒に声を合わせて歌い、感じたのは大陸の大きさと、日本人の優しさ、男のロマンそして色気でした」などとするコメントを発表した。
毎日新聞 2009年11月11日 0時27分
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