POLESTARⅡ lesson7
ポールスターⅡ lesson7
In Search of Light
①
フィンセント・ファン・ゴッホは生涯でたった1枚の絵しか売らなかったことは多くの人々が知っている。生涯を通じて彼は自分の作品が一般の人々に拒絶されるのを見た。彼はいつも貧しかったが、画商をしていた弟のテオドルスが彼にお金や画材用具を送って彼を支えた。シオは弟がいつか世間に認められるだろう天才だと信じた。
現在、世界中の人々がファン・ゴッホの作品を愛する。その人気により彼の作品は世界でも有数の高価な絵となった。フィンセントの死後1世紀、ある日本企業が『ひまわり』として知られる絵に400万ドル近い値を付けた。
何がファン・ゴッホの絵を特別なものにしているのだろうか?それらは生命力と活力に満ちている。色がほとばしるかのようだ。それらを正しく評価するには美術館で実際に見る必要がある。厚く塗り重ねた色と力強いタッチを見ると、手を伸ばして触れてみたくなる。
②
フィンセント・ファン・ゴッホは1853年3月30日にオランダの南部で生まれた。4年後、フィンセントの大好きな弟のテオが生まれた。14歳で学校を退学した後、フィンセントは美術商や書店の店員、教師、伝道師、社会福祉員を含む多くの仕事を試みた。仕事により彼は英国、ベルギー、フランスを転々とした。27歳のときついにフィンセントは絵を学び画家となった。その後37歳で死ぬまで、彼は900点近い油彩と1000点以上の素描を生み出した。
フィンセントの初期の作品は濃い影を持った暗い色彩の絵だったが、後に彼は短く力強いタッチをした独自のとても表現豊かな明るく快活に描くようになった。この変化をもたらしたものの一つが浮世絵との出会いだった。
1880年代後半、フィンセントが絵を描いているとき、ヨーロッパで日本趣味がとても流行していた。フィンセントは日本の版画をとても高く評価したが、それは影がなく光を浴びていた。彼はアンテロープで版画を集め、そこからテオにこう手紙を書いた。「私のアトリエはかなりいい。日本の小さな版画を壁に留めてあるが、それはとても楽しませてくれる。」パリに移ってから彼は日本の版画を買い続けそれらを熱心に研究した。1887年、彼はパリのカフェで日本の版画の展覧会を開き、彼もまた日本の版画を油彩で模写した。ついにフィンセントとテオは合わせて500枚近い浮世絵を集めた。
③
浮世絵の鮮明な色のせいでファン・ゴッホは日本が明るい光の国だという印象を持った。彼は日本の芸術家を高く評価し、北斎と広重をとても称賛した。実際、彼は彼の全作品は日本特有の文物に基づいていると信じるようになった。1888年2月、彼は日本を連想させる明るい光と輝く色彩を求めてフランス南部のアルルに移った。
アルルで彼はテオに手紙を書いた。「ここで私の生活はますます自然に近く生きる日本の画家のようになるだろう。」芸術家の友人、エミール・ベルナールにあてた手紙では、「君に手紙を出すと約束していたけれど、私はこの国が明るい雰囲気と明るい色彩効果に関する限り日本と同様に美しいということからまず語ろうと思う。水が風景の中で美しいエメラルド、あるいは濃い青のアクセントになっている。」アルルで、ファン・ゴッホは芸術家のユートピアを作り出そうと夢見た。芸術家の共同を確立することを願って彼は“黄色い家”を借りたが、そこに彼はアトリエを構えた。ポール・ゴーギャンの到着を待っているあいだ、フィンセントは友人の部屋を飾るために有名なひまわりの絵を描いた。
④
1888年10月、ゴーギャンがアルルに到着した。2人の芸術家は描いたり議論したりしながら一緒に作業した。フィンセントにとって最も幸せな日々だった。けれどもこの強い個性の持ち主の2人のあいだに緊張状態が生じ、9週間後に彼らは喧嘩をした。フィンセントが左耳の一部を自分で切り落とした有名な事件を起こしたのがこの時である。
ゴーギャンが立ち去ったあともフィンセントは精力的に描き続けた。けれども精神的には次第に不安定になっていった。そして生活の安定を図って病院に入院した。
病院を退院してすぐ、フィンセントはパリ北方の村、オーヴェルに落ち着いた。そこでわずか70日間で彼は70枚の風景画や肖像画や花の油彩と30枚以上の素描を生み出した。1890年の夏、彼は銃を借りて野原に行って自分を撃った。彼は2日後、部屋の壁を覆う浮世絵に囲まれ、テオの腕の中で死んだ。テオは悲嘆にくれ、半年後、33歳で彼も死んだ。2人の兄弟はいつも親密だった。現在、フィンセントとテオの墓はオーヴェルで並んで位置している。/