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父親同士のケンカ

ここで暮らして初めて聞いた。

酔っ払いのケンカではない。今日の賃金に道具代が加算されていない。

日当が8千円のはずが7千円しかない、道具代も加算されるべきではないか。相手側がなだめている。大声は困ると。

子どもの為に大声になるんだよと。

聞いていて胸が潰れそうなお父さん同士の言い合いに、周辺住民から苦情も上がらず、しばらく続いていた。

沖縄は7割の子どもが貧困家庭にあるという。前にも書いた。我が家も息子は青年期に入っているが今年大学を受験する。病気がちの我が家の家計を助けてきた。

今ももちろん裕福ではない。

今日は、この事件も驚きだろうが、もっと悲惨な事件を聞いてきた。

そして昼間、動かせなかった洗濯機をまわしていて、このケンカの内容だ。

淋しい。

国民ほとんどが中流だったり、バブったり、

だが今日の状況は、自分が幼少の頃の光景に似てきている。

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2004年、兄と母に出て行けと言われ、心がどん底に落ちたと書いた。

だが、自分は生まれて今日まで、一度も父や母を嫌ったことがない。兄弟、二人の姉を嫌ったことがない。

今も嫌っていない。

父と母を尊敬している。

兄弟、姉二人を尊敬している。

両親が教育熱心だったので、それぞれがスパルタ教育の中で育った。自分のことだけを思い出せば、母は一度も私を怒鳴ったり、叩いたりしたことがない。

手作りの味噌、醤油をつくり、黙々と働く姿は、いつも先に起きていてあとに寝床に就いた、そんな記憶がある。

父は人が溺れたと島中の鐘が鳴らされるたび、川平湾に飛び込んで何人もの人を助けた、正義感の強い愛情の深い人だった。

兄は教える才能を活かし、机ひとつからスタートし、沖縄県の学力向上に貢献し続けている。

弟は、コネクションの匂いを嫌うまっすぐさで、四次試験まであった新聞社の面接で最後まで残り、「身内に著名人はいるか?」 と質問され、「父は農業、著名人はいない」 と答え、最後の二人として試験を通った。

長姉は海外へ、

次姉は舞踊家。姉の踊りは父親に似て完成度を妥協しない厳しい美しさがあった。

贅沢ではなかったが、暮らしに、日常生活に、大人になるための訓練が息づいていた。忍耐も強いられたが、両親の生き抜いていく後姿は、そのまま人生の指標になった。

実家の家族を今も誇りとしている。

お父さん同士の言い争いを聞き、昔を思い出した。昔、日本はそう贅沢ではない時代があった。その時と同じ気配だ。子供心に不安を覚えた、あの感覚だ。淋しくて辛い感覚だ。

だがその分、子どもは応じてどの家庭でも強靭な教育を受けていた。そのように覚えている。

日本の危機を感じるにつけ、豊かさの中で私達、今時の親は、子どもに冬の時代を乗り越えさせる強靭さを伝授しただろうか。

私の両親は役目を十分に果たし終えた。リレーのバトンは今、自分の手の中にある。

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