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エピローグ
「ヒヤシンス、ヒヤシンス、ヒヤシンス……なんだかおまえはとってもヒヤシンス」
 Lはエリゼ宮の事件を解決後、ラケルがよだれを垂らして眠っているベッドへいき、短い時間眠った。そして目を覚ましてみると、ダイニングには青と白の格子柄のランチョンマットの上に、いつもどおりスイーツの数々が並べられていて――口内がよだれでいっぱいになるのをLは感じていたというわけだ。
 白い粉砂糖をまぶしたドーナッツに、アップルパイ、ガトーショコラ、チョコレートスフレ、苺のババロア、フルーツゼリーにチェリータルト……早く手をだしたくてうずうずしながらも、Lはどれから手をつけるべきかと迷うあまり、人差し指をしゃぶりつつ右や左に目移りしていた。
 そしてふと――気づいたのだ。テーブルの中央に飾られたピンクと白、それに黄色のヒヤシンスの花束に。
 ラケルは毎朝、スイーツを作る前か作っている間に、温室から花を摘んでくる。きっと彼女は今日はヒヤシンスな気分だったのだろうとLは思い、それで花の活けられた花瓶を手にとると、まるで何かの呪文のように、「ヒヤシンス、ヒヤシンス、ヒヤシンス……なんだかおまえはとってもヒヤシンス」と呟いてみたというわけだ。
「なあに、それ」と、ラケルはくすくす笑いながら、Lのために紅茶を淹れている。「松尾芭蕉の『松島や、ああ松島や、松島や』のパクリみたい」
「まあ、そのくらいこのヒヤシンスの花が美しいっていうことですよ。ちなみに、その有名な句は正確には芭蕉が作ったものではなくて、江戸時代後期に狂言師の田原坊が作ったものらしいですけどね。ちなみにヒヤシンスの花言葉は、『悲しみを超えた愛』だとか」
「ふうん、そうなの。でも花言葉って結構、その花の色によって違ったりするんじゃなかったかしら?」
 ラケルもまたすとん、とLの真向かいの席に座り、朝食をはじめる。彼女のメニューはLのように朝から甘いものづくしというわけではなくて、サンドイッチにミルクティー、それにサラダという、実に簡単なものだった。
「そうですね。ちなみにヒヤシンスのピンクは『しとやかな可愛らしさ』、黄色は『あなたといるなら幸せ』、白は『心静かな愛』、『控え目な愛らしさ』だったでしょうか。まるで、あなたのことみたいですね」
「えっと、でもL、最初にヒヤシンスの花言葉は『悲しみを超えた愛』って言ってなかった?」
 どこか照れたように笑うラケルのことを、内心可愛らしいと思いつつ、Lは紅茶を一口飲んで言った。
「ええ、紫のヒヤシンスの花言葉が確か、悲しみを意味していたと思います。ギリシャ神話にこういう話があるんですよ。ヒヤシンスの名前はギリシャ神話にでてくるヒュアキントスに由来していて――同性愛者であった彼は、まあ今でいうバイセクシャルであるアポロンと一緒に円盤投げに興じていたんですね。ところが、同じく同性愛者であった西風の神が、親しげで楽しそうなアポロンとヒュアキントスを見て激しく嫉妬し、意地悪な風を吹かせたわけです。その風によってアポロンの投げた円盤の軌道が変わり、ヒュアキントスの額を直撃してしまった。アポロンは医学の神の力をもって懸命に彼のことを治療しましたが、その甲斐なくヒュアキントスは死んでしまうんです。そしてヒヤシンスはこの時に流れた彼の大量の血から生まれたと、そんなわけですよ。アポロンはヒュアキントスの体を抱いて、『私がかわりに死にたい、アイ、アイ(悲しい、悲しい)』とその時に叫んだということです」
「へえ、そうだったの。わたしてっきりヒヤシンスって、なんだか今夜はとっても冷えるね、ヒヤシンスっていう、何かそんな意味の花なのかと思ってたわ」
「……ラケル、あなたのそのセンスはある意味、盗作以上に悪いと思うのはわたしだけですか?」
「ええ〜っ!?」と、ラケルが本気で驚いたような顔をして言う。そして少しムッとしたような表情になりつつ、「そんなことないわよ。『ヒヤシンス、ヒヤシンス、ヒヤシンス、なんだかおまえはとってもヒヤシンス』だなんて、もっとわけがわかんないもの」
「まあ、どっちも五十歩百歩ですよ。それより、メロが今年のF1グランプリを制しそうですね。あなたはあんまり危険で見ていられないって言ってましたが――メロからモナコグランプリへ招待する旨、連絡がきていました。もちろんあなたも一緒に行くでしょう?」
「もちろん、そういうことなら……でも本当に心臓に悪いわ。この間のスペイン戦では雨だったでしょう?他のマシンがクラッシュしたのを見て、もしメロちゃんが同じようになったらと思うと――とてもじゃないけど安穏として楽しむだなんて出来ないわ」
「あなたは相変わらず心配症ですね。まあ、なんにしても義理の息子が自分のやりたいことに全力を傾けているのだと思って、あたたかく見守ってあげることですよ……もっともメロの場合、一体いつ『もう飽きたからやめる』と言いだすか、わかりませんけどね」
 朝食後、Lは居間でTVを見ながらネットでニュース系の情報をチェックすることにした。とりあえず今のところエリゼ宮の例の騒動について触れている媒体はないようではある――もちろん、これからも余談を許さぬ状況ではあるが、そちらはLの管轄外ともいえる話だった。
 もし今回のことでロワイヤル大統領が失脚したとすれば、それはそれでやむをえないことであるし、Lの予測によればリヴァイアサンが組織的に動いて、おそらくエスティエなどはこれから自然死に見せかけられた形で死ぬ運命にあるだろう。
 何より、今回のラトビア大使殺害事件でLにとって有益だったのは、EU委員のウィリアム・オースティンがリヴァイアサンにおいて少なくとも三等級以上の階級を有していることがわかったことと、またラトビア大使を殺害した毒物が手に入ったことだった。次期、エリスからも検死の報告書がメールでLの元まで送られてくるだろう……アメリカやロシアでも要人暗殺に使われることのあるこの化学物質が何かということがわかれば、今後また似たような事件が起きた際には十分対応が可能ということになる。それが、Lが今回の事件解決で得た、一番の報酬であり収穫といえるものだった。
「さて、リヴァイアサンの総帥殿は、次はどんな手でわたし――<L>のことを追い詰めようとしてくるんでしょうね」
 Lは親指をしゃぶると、どこか不敵な笑みを浮かべて、エリスからの検死報告書に目を通した。そして、これからは二度と同じ手をリヴァイアサンは使えぬだろうことを確信すると、今回の事件で一番の難関だった、ブツブツと文句を言う義理の姉を説得することが出来てよかったと、つくづくそう感じるのだった。
 Lの義理の姉のエリスは、<L>が今回のエリゼ宮の事件解決へ乗りだすと同時に、今すぐロンドンからパリへ向かうよう、義弟から何度となくお願いされていたのだ。
「ちょっとあんた、今何時だと思ってんの!?ふざけるのは大概あんたの顔だけにしてよねっ。こちとらたったの今仕事を終えて、これからひとっ風呂浴びてぐっすり寝ようかな〜って思ってたところなんだからっ。ラトビアの大使が死のうがどうしようが、あたしには関係ないわよ。パリにだって優秀な監察医はいるでしょうし、そっちで間に合わせれば!?」
 携帯の電話口でさんざんがなり立てられ、Lは耳が痛くなったが、それでもどうにかこうにか口の悪い義姉の言い分に耐えつつ、腰を低くしてしつこく何度も頼んだ。何故ならLにとっては、その性格の悪さはともかくとしても――エリス以上の腕前を持つ検死医、また120%信頼できる人間は他に存在しなかったからだ。
 結局のところLは、会話の途中でFuck××!!という言葉を十回以上聞かされたのちに、エリスをパリのエリゼ宮へ向かわせることに成功したわけだが、それだけの甲斐はヤーコプ・ラデツキ氏の検死報告書から得られたといってよかっただろう。

 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 ブルーノ・ガンツは、ワーグナーの『ニーベルングの指環』を聴きながら、少し遅めの朝食をとっているところだった。ちなみにメニューは<生トリュフのパイ包み>、<薄切りのフォアグラのソテー>、<ニョッキの香草風味>などである。
 彼にはお抱えの料理人と給仕係、それに執事などがいたが、どの人間も雇って数年後には解雇せねばならなかった。何故といって通常どおりに年をとらないガンツに対して、疑問を感じる前にそうせざるをえないのである。
 そして今回のエリゼ宮の事件によって、おそらく自らそこを去るであろう執事長のトマシュ・ベルネルを自分の屋敷を管理するコンシェルジュにしようかと考えて、やめた。それではこちらからわざわざ<L>に自分の居場所を知らせることにもなりかねないと思ったからである。
 先ほど、リヴァイアサンにおいて特級の位を持つウィリアム・オースティンからパソコンを通じ、ガンツの元にも連絡が入っていた。「例の賭けは自分の負けだ」と彼は潔く認めていたが――オースティンはこれからもおそらくは、今ガンツのいる総帥の地位を狙うのを諦めはしないことだろう。
「もし<L>が君の仕組んだ完全犯罪とやらを暴けないような間抜け者なら――私は君にリヴァイアサンの総帥の地位を譲ってもいい」
 それが、ガンツがオースティンと交わした賭けの内容だった。だが、結果はといえば……。
「ミスター・オースティン。今回の<火消し>については、すべてを君に一任するよ。だが、もし何か不手際があったとすれば――君は今有している階級をひとつ落とされることになる。いいかね?」
『はっ、閣下。今回のエリゼ宮の件に関しましては、わたくしが責任を持って事後処理にのぞみます。エスティエのことは頃合を見計って亡き者とし――また、何か情報が外に漏れることなど一切ないよう取り計らいますゆえ、どうか何卒……』
「オースティン君。細かいことは私にはどうでもいいのだよ。とにかくすべてのことを完璧に遂行したまえ。わたしの言う<完璧>がどういうことかは――もちろん賢い君のことだ、わかっているだろうね?」
『ははっ。ところで閣下、例の者たちの処遇はいかがいたしましょうか?』
<例の者たち>というのは当然、現EU委員長であるローゼンバーグ、それにレオンカヴァッロ、ロドリゲス、ジルベール、ヴァンデンバーグ、コシュレル、レヴィナスといったEU委員たちのことである。ガンツはそこで、オースティンの心根の浅ましさに嫌悪感を覚えるが、結局のところ彼はその程度の器の人間なのだと思えば、腹を立てる必要さえなかった。
「彼らのことは、EU委員としての任期が終わり次第、組織から放りだせ。そのかわり、今回のエリゼ宮の饗宴に出席していた他のEU委員や大使たちにうまく働きかけて――組織の中に組み入れろ。それと、ロワイヤル夫妻には娘は一か月もすれば病気が完治するだろうと伝えておいてくれ。わたしが言いたいのはそれだけだ」
『すべては、閣下の御心のままに……』
 オースティンの薄汚れた騎士道精神に苛立ったガンツは、最後にもう一言つけ加えることにした。オースティンこと、元はウォルフガング・フォン・ディートリッヒと呼ばれていた男は――悪魔に魂を売ったような男なのだ。彼は八十歳となり、寿命をまっとうして病気で死のうかという時に、ある<手術>を受けていた。脳の手術をして、ある若い青年のそれと入れ替えるという、恐ろしい手術を……。
 ゆえに、元はウィリアム・オースティンと呼ばれていた青年は、その時から実質、ウォルフガングと入れ替わったということになる。だが、もともとウィリアム・オースティンは交通事故が元でリヴァイアサンの息のかかった病院に入院中の身であったのだ。次に目を覚ました時、ウォルフガングは家族や恋人の目の前で記憶喪失の振りをし通した――そして金持ちのイギリス上院議員の息子として、今は政界で重要な地歩を占めつつあったというわけだ。
 このことは、カイン・ローライトが眠りについてのち、彼のスペアである2世によってはじめられたことだった。いわばオースティンはその試験的なケースだったというわけだ。もしこのことを応用したとすれば……おそらく、世界中の大統領や首相、王や女王、あるいはその後継者のことを意のままに操ることも可能であり、そうしたことを通じて世界のあらゆる事柄を神のように操作することも可能となるだろう。
 ガンツは、自身が延命の手術を受け、また延命薬の世話になっていながらも――オースティンのように命根性汚く、また新たに<転生>しようなどという欲望は持ち合わせていなかった。そしてそこがおそらくは……カイン・ローライトが自分を地上におけるリヴァイアサンの総帥として立てた理由なのだろうと、今この時になって思い至るのである。
「オースティン君、君は時々――こう思うことはないかね?『わたしは本当に<わたし>なのか、またわたしをわたしたらしめるものは一体なんなのか』とね。君は今ウィリアム・オースティンという壮年の男の肉体を有してはいるが、その精神年齢は実際の二倍以上にもなる……ウォルフガング・フォン・ディートリッヒなどという人間は、実はまったくもって君の空想の産物であり、ウィリアム・オースティンが交通事故に遭った時に束の間見た夢に過ぎないのではないかと――どうだね、そんなふうに疑うことが本当に一瞬たりともないものかね?」
『……閣下。おっしゃりたいことの御真意が掴みかねますが、それはもしや、わたしから階級を剥脱し、ただの人間として三度目には<転生>することなく死ねということなのでしょうか?』
「いや、失敬。そんなつもりではなかったよ」と、愉悦に満ちた笑みを浮かべて、ガンツは不気味に言った。「ただ、少しばかり前から疑問に思っていたことを、口にのせてみただけのことだ。報告のほうが以上なら、これにてわたしは失礼させてもらうよ」
 オースティンはなおも何かを言いかけたようだったが、ガンツはほとんど一方的に彼との通信を切った。そして今度は実に愉快そうに大声を上げて笑った。
「こんなに痛快な思いを味わったのは、わたしとしても実に久しぶりのことだよ、<L>。何故ローライト閣下がすぐに君を殺すことなく今まで生かしておいたのか――その理由が初めてわたしにもわかったような気がする……私自身、自分が君の敵なのか味方なのかはわからないが、すべてのことは<L>、今後の君の出方次第で決めることにしよう」
 ガンツはシャトー・ディケムのワインを味わいながら、曲が『ワルキューレの騎行』にさしかかったところで、ボリュームを少し上げた。彼は今、スイスのルツェルン湖をのぞむ別荘にいるところだったが――老いない肉体のまま地上で生きるのは、思った以上に心に負担のかかることだった。
 ガンツは今、心の底から<安住の地>と呼べる場所が欲しいと願っていた。そしてそれがおそらくは『死』によってしか得られないだろうこともわかっている……だがそれでも、彼にとっては今も愛する人間が与えた使命のために、この地上で生きるということは素晴らしいことでもあった。
 そしていつか、と彼は思う。カイン・ローライトというガンツが唯一敬愛する人間とどこか似たところのある<L>と――彼についての思い出話でもする日が来るだろうか、と。もしそのような日があるとすれば、自分の寿命が尽きるのもそう遠い日ではないだろう。
 ブルーノ・ガンツはまるで、夢見るように片方しかない目を閉じた。ウィリアム・オースティンとは違い、彼にとっては自分にとっての使命をすべて終え、愛する人間のいるアイスランドの大地に葬られること、その墓場からオーロラの投げかける光を見上げることだけが、今生きている希望のすべてなのだった。



 終わり




・参考にさせていただいた本
『エリゼ宮の食卓』(西川恵さん著/新潮社刊)
◇二次創作サイト『L&ウルキオラ』
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