事件後始まった告訴への警戒、ストーカー行動
2002年の事件後、市長のストーカー行為は、半分どこかでまだ自分の思いどうりになるという動き方だった。
空港での件など他でも書いているので、ここでは割愛する。
味方の上司や遠方の友人達が考えたことは、誰とでもいいから結婚したほうがいい、と。
相当追い詰められていたんだねと、当時のことを友人が後日談。
来島した研究者の友人に、生活費半分出すから、形だけ入籍させて、と頼み込むほどだった。
この件で、石垣島から届く励ましメールは、殆どが匿名。それでも有難い。
村八分が、どれだけ怖いか、住んだものにしかわからない。
誰も巻き込んではいけない。島を出るまで乗り切るしかない。
ストレスは頂点に達していた。
家でも職場でも電話でも追い詰められる。
服従させないと、いつ、告訴されるかと、相手も必死。
すぐ逃げ出そうにも私の仕事は代替がいない。その為に退職希望が一年延びている。課を預かる上司との約束でもあるが、公務員の義務としても当然。
優秀なスタッフが入ってきた。代われる、と思った。
だが残念、それも邪魔される。
病院と指圧の女性の先生の所に、逃げ込むように通い続けた。
その方が亡くなったことを最近知った。
書く動機の一つとなった。
与那国のルーツがあると教えてくれたが、命の恩人だ。
知ったのはブログスタートの直前。
悔しい。
人の痛みを取るだけ取る、優しい聡明な彼女のあまりにも若い死。
理不尽なことに対する怒りがわいた。彼女へ何の恩返しもしていない。
指圧の最中に市長の電話が何度もかかってきた。
彼女は何度もそれを見ては、よりいっそう丁寧に緊張をほぐしてくれようとした。
有難かった。
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2003年2月25日、実家へ寄った。
なんとなく実家は知られているので、足が遠のいていた。
中から賑やかな雰囲気。ばあちゃん達が集まって楽しそうだ。
けっこう、母のことばかり心配していたけど、大丈夫なようだ。
私は、伴侶となる夫、Mと初めて出会った。
母が、Mのマッサージを受けている。他は並んで待っている。
電話が来ないなと思ったら
と私が言ったら、「来た人だけの特権」 とばあちゃん達に返されたが、賑やかな実家を久しぶりに見た。
整体院を開業する予定で来島したと、Mを紹介された。
二日後、N氏が他界。
全身が立てないほど疲れていた。
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Mの祖父が認知症の症状があるというので、訪問するよう母から職場に何度も電話があり、訪問したのが、同年4月。
縁側に座って頑として動かない。私は会議の時間が迫っていて焦っていた。だがそういう気配はすぐに悟られてしまう。言葉では動かない。
その場で失禁しても着替えず動かない、ステテコ姿の祖父を、そのまま、じゃばじゃばとお風呂に入れるようにお湯と石鹸とシャンプーで洗った。
何するかあ、と叫ぶ中、洗い終え、服を脱がせ、仕上げ温かいお湯をかけ、タオルで拭き、
着替えさせ、Mに抱き上げてもらい、濡れた場所から移動させた。
残り湯で床も廊下も尿のにおいを消すために流しきった。
それからケアマネジャーを呼び、病院受診に同行するよう夫、Mに言い帰ろうとした。
祖父が柔らかい顔で私を見て、孫の嫁になってくれと言った。何も返せんからうちのことはやらんでいいよ。孫と結婚してくれなと。
帰りの車で、涙が止まらなかった。気が弱くなっていた。
入院の手伝いをサポートした帰り、
モスバーガーでMと食事をしていたら市長から電話。
「市長から直接指示がある仕事しているんですか?」
とシンプルにMが聞いた。返事ができなかった。
私と会う前に、幼い私の娘を知っていて、その時に、市長のストーカーの噂も聞いていたと、結婚後、夫は話してくれた。
2003年6月9日、
介護保険説明会のため、公民館をまわる地域説明会の真っ只中。
台風接近で、北部地域を急いで終わらせ現地からセンターまでスタッフ一同戻った。
荷を降ろし、解散。
ところが自分のバックと車の鍵がない。
みんな帰ってしまった。
センターの中の電話は鍵がないと入れない。
歩いてスーパーの公衆電話からスタッフにかけようとするが、携帯、手帳もないのでアウト。
小銭は上司にコーヒーを買いに頼まれて、作動しなかったので、ポケットに残っていたから助かった。スーツの中に名刺があった。出張の帰り、マッサージを受けてそのままだった。
恐る恐るMに電話。迎えをお願いしてみた。了解してくれた。
その翌日はタクシーで出勤した。
その夜、Kから、是非、ビハーラに来てと電話があった。台風の余波で、大雨の中、説明会終了後、寄った。入り口で、市長が来ると聞いて、すぐ逃げた。
夫を亡くしたあとのKのメンタルを心配して立ち寄った自分の甘さを思い知った。
Mに電話をかけた。二度目で少しかけやすい。事情をかいつまんで話した。
「帰ってきたらいいですよ」 と。
「そんなのバカらしいですよ。クビになったらその時はその時、帰ってきて下さい」 と。
石垣に住んでいて、初めて胸がスカッとした瞬間だった。
重い恐怖が晴れた。
土砂降りの中、車を飛ばして帰った。
娘と息子が島を出て仕送りが大変なので、4月から母と同居を始めていた。市街地からおおよそ30分の距離。
着いてすぐ初めて自分以外の人に、全ての事情を時系列にそって説明した。
2003年、8月17日、
私は出張先で倒れ、飛行機で戻り、そのまま入院。ストーカー行為は相変わらず続いている。
息子が飛行機に同乗したが、身元引受人を、母に頼まれて空港に迎えに来たMが名乗り出てくれた。
表情が厳しく、初めの頃に感じた穏やかな印象が消えていた。
「よう女ひとりで今まで頑張ってきたな。もう頑張らんでいい」
2003年8月20日、入院中に入籍した。
私の結婚で、事件はいつでも表に出る状態となった。
それからの戦いは随所に書いたつもりだが、次回にまとめたい。
すぐKと、母の様子が変わった。
上司の一部が変わった。
友人からの電話で、母が、「あれは兄弟誰からも相手にされないようになった。私達は市長選も、高嶺さんも応援する。お祝いも行く」 と、半分認知症が入ったようで繰り返し言っていたと聞いた。
兄と母に、まるで犯罪者を見るように見下され、出て行けと言われた。
実の親の拒絶は、どん底を味わうには十分すぎるほど痛かった。
2004年3月31日、退職した。島も出た。
後日、新聞に市長と母が載っていたと知らせてくれる人がいた。
トラブルはなかったという両者歩み寄りのアピール。
親子の縁は切れたと思った。
2004年、7月、裏では、50万円の振込みを市長自らがしている。
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