身近にすぐれた画家がいる家庭環境に育ち、20歳で漆の道に入る。
1988年、東京・目黒雅叙園から5,000点の漆芸術作品の修復と作品づくりを依頼されて来日。
創作活動に相応しい場所を求めて全国を歩き、水と空気がきれいで良質の漆がとれる岩手県・川井村で作業を始める。
膨大な数にのぼる目黒雅叙園の漆作品の復元修理、補修、製作のすべてを任され、3年間の歳月をかけて命がけの執念で取り組んだ。
その後も研究を重ね、独自の技法を編み出し、芸術性の高い漆芸を創り上げている。
インタビュー
30歳の時、目黒雅叙園で60年ほど使用しているという螺鈿(らでん)が見事なお膳の修復依頼をいただきました。当時の私は古い物の修復作業を決して愉快なものと感じていませんでしたが、これも勉強になると思いお話をお受けしたのが目黒雅叙園との出会いです。
その6年後、雅叙園の5,000点に及ぶ美術品の修復、創作の責任者として来日し以来3年間、韓国から連れてきた約300人の漆職人を統率すること、異国の地で生活することの苦労を日々感じながら、先輩たちが残してくれた雅叙園の最高レベルの美術品に新しい命を吹き込むという使命感で必死でした。
エレベーターの装飾、高さ23mに及ぶ作品、壁面全体が漆塗りのものなど全て規模が違う雅叙園の作品を完璧に美しく仕上げるためには、デザインなど表面の問題だけにとらわれるのではなく、素材の深い理解と知識が必要だと考えていましたから、日本の伝統的な漆塗り技法や漆の性質など数えきれないほどの研究と実験を重ねました。
そこで確信したのが、漆が持つまだ一般的には知られていない神秘的な世界。漆の表現にもっと大きな広がりを感じたのです。
ピアノや、バイオリン、チェロなどの繊細な弦楽器の創作にも挑戦しました。漆がもつ特徴を生かし、澄んだきれいな音を作りだしたのです。見た目の美しさに留まらず、漆の可能性を追求した挑戦だったと思います。
そして今回、私はこれまで創作してきた家具や壁に飾る芸術品の域を出て、見たい時にいつでも目にすることができる身近なものである“時計”に興味を持ちました。精密なものに芸術をプラスした時のこの上ない美しさを想像したのです。自然な素材は光や角度によって違う表情を生み出します。貝の輝きには動きがあるのです。歯車や針の動きと共鳴した時、より大きな生命を感じることができるのでしょう。私の創作活動がスタートしました。
私はこれまでの人生に3つの誇りを持っています。
一つ目は、昭和初期の“芸術の殿堂”と呼ばれた目黒雅叙園の文化財の復元・創作を自分の考えや能力の全てを賭けて完成したこと。
二つ目は、その15年後に、岩山漆芸美術館を漆文化の拠点となる美術館として蘇らせることができたこと。
そして三つ目は、時計という新たな世界に挑戦していることです。
2007年のバーゼルワールドに足を運び、この創作活動は自分の独創的な世界観だけで創作する芸術品で終わってはいけない、時計としての完璧さを追求しなくてはならない、と痛感しました。難題をいくつもクリアし漸く発表に漕ぎつけた今回の創作は、作家人生の中で最も苦しみ、またやりがいを感じた仕事でした。
日本は「漆(japan)の国」。外から受け入れた漆塗りを自身の国の文化として定着させています。地震の多い難しい自然環境の中で木造建築の保存のための塗料として使用された漆は今確実に伝承されてきました。
そこには日本人の知恵や働きが山積みされているはずです。
私は日本のシンボルである漆に携わる作家なので、日本の文化に多く触れ、その素晴らしさを知っているつもりですが、日本人の中で自国の文化を深く理解している人は残念ながら少ないですね。
世界に誇れる文化が日本には沢山あります。自分の足元にあるものの素晴らしさに早く気付き、誇りに思って欲しいと願っています。
長く西洋文化に接してきた日本人にも、そろそろ“懐かしい”という感覚が甦ってくる時期なのではないでしょうか。
伝統は歴史を残すものであると同時に、現代という時代そのものも残していかなければなりません。日本人に漆文化をもっと知ってもらいたいし大切に想ってもらいたい。
私の取り組みがきっかけになればと思っています。
機械式時計の歴史を創り上げてきたスイス勢に敬意を示しつつ、今、1万年の歴史をもつ漆とコラボレーションした時計が貢献できるチャンスが来たと信じ、私の経験と漆の能力を最大限に賭けたいと思っています。
1mmの世界でも人が感動するのであれば一生を賭ける価値があるのです。