洗車セットを買いに

殺った。
殺ってしまった。
いや、殺ろうと思ったのだから、殺ってしまったという言い方は間違いか。
とはいえ、本気で殺ろうと思ったわけではない。
本気では、ない、か。
そんなわけが、ない。
本気でないのなら、殺るわけがないのだから。
殺ってしまっている以上、本気でないはずがないのだ。
少なくとも殺る瞬間、その刹那。
マジで、本気で、真剣そのもの。
殺さなくては気が済まなかったのだ。

だから、ここに、目の前に、これ、が、ある。
これ、は、つい数分前までは、これ、ではなかった。
少なくとも、俺にとっては、これ、ではなかった。
人、であり、女性、であり、恋焦がれた相手、であった。
数分前から、これは、これ。
死体と呼ぶ気もせず、屍体という文字は充てたくもない。
かといって、この人とか、彼女とか、そういう呼び方もできない。
今の自分にとって、やっぱり、これは、これ、でしかない。
それ以外の呼び方をしないのは、怖いからかもしれない。
何か、とんでもないことをしでかした気がする。
後戻りできない、ような気がする。
テレビの中の出来事、夢物語だと思っていたストーリー。
それが、今、目の前にある。

こういう場合、これをどうすべきかが問題なのだろう。
そう。
自分には、初めての体験。
生まれてから今まで、こんな時の対処法など誰も教えてくれなかった。
物心ついたら、呼吸していたし、歩いていたし、喋っていた。
教えられて、本を読んで、作文を書いて、計算をした。
礼儀作法も、友だち付き合いも、燃えるごみと燃えないごみの区別も、
なんとなくだけれども、自然と身に付いた、そう思っている。
しかしながら。
そのどれもが、今、この場では役に立たない。

これ。
これ、これ、これ。
これを、この物体を、一体どうしたら良いものか。
今この場で、真っ先に頭に浮かんだものが、
日ごろ侮蔑していたはずのワイドショーというのがお笑いだ。
知性のかけらも感じられないアナウンサーが、たしか、こう言っていた。
「頭部のない、身元不明の遺体」
頭部、だけではない。
手でも、足でも、尻でも、胸でも、とにかく、バラ、バラ、に。
そう。
バラ、バラ、に。
これ、を、バラバラ、に。

風呂場までの道のりが、遠かった。

道具。
切れるかどうか分からないが、とりあえず包丁を用意した。
これ、を、分解。
解体、か?
言葉はどうでも良い。
とにかく、自分は、まず、これの顔を見たくない。
顔。
自分は最初、この顔に惹かれた。
顔に恋して、心に触れて、存在を愛するようになった。
それなのに、その存在を消してしまったのは、自分なのだ。
振り出しに戻って、まずは顔。
顔を、取りはずしたかった。

物体の上に馬乗りになった。
そして、包丁を喉にあてた。
自然、目を閉じた。
力を軽く込め、ゆっくり目を開けた。
想像に反して、皮膚は切れていなかった。
なんだこりゃ、固いな。
今度は、目を開けたまま力を込めた。
刃がめり込む。
しかし、力を緩めると、結局押し戻されてしまう。
ゴムを押したような感触。
肌は切れていない。
これは、そう簡単には切れないのか。
包丁をこれの肌にあて、すっと横に引いた。
皮膚が裂けた。
血は出ない。
赤い点が数個見える程度。
だんだんと苛立たしくなってきた。
さっき付けたばかりの細い皮膚の裂け目に包丁をあて、
自分の体重を乗せてみた。
ずる、と包丁が下りる。
ところが。
刃は途中で止まった。
押しても引いても下りていかない。
固いものに当たっている感触。
これが、首の骨?

思案した挙句、背中から攻めてみることにした。
これを裏返すため、両肩を持ち上げると、首ががくんと後ろにそれた。
同時に、さっきまで刃を当てていた場所に、ぽっかりとした穴が見えた。
ここを通って出入りした空気が、自分に向ける愛の言葉になったのか。
いや、自分だけでなく、それ以外の男にも。
思わず知らず、穴を、自らの口で塞いだ。
キスよりも、甘美な気がした。
舌を差し入れると、暗く、どす黒い、鉄の味がした。
そしてそのまま、息を吹き込んだ。
これの鼻と口から、ぐぅ、という音がして興が醒めた。

物体へ背中越しにまたがり、薄茶色の髪の毛をかきわけ、うなじを出した。
そこへ、さっきと同じように包丁をあて、力をこめた。
しかし、首とは違い、刃はまったく進まなかった。
包丁を、立ててみた。
尖ったものなら、もしかして。
その考えは甘かった。
骨、多分、首の骨。
首の骨はびくともしない。
苛々が強くなる。
思わず知らず、貧乏ゆすりをしていた。
浴室の小さな窓から、午後の光が差し込む。
遠くで、子どもたちの遊んでいる声がした。
両足が、ますます大きく揺れた。
これが、これ、になった瞬間と同じように、頭の中が真っ白になった。
包丁を両手で持ち、立てたまま、うなじに叩きつけるように突き刺した。
突き立てること四度目で刃が滑り、床に当たって包丁が折れた。

知らないうちに汗をかいていた。
刃の折れた包丁で自分のティーシャツを裂いて剥ぎ取った。
ジーンズは脱ぎ捨てた。
トランクス一丁になり、ふと、シャワーを浴びたくなった。
全裸になって、お湯を頭からかぶった。
足元の物体は、神聖なのか、穢れているのか、
よく分からないが、あまり足で触る気にはなれなかったので、
物体をまたがるような姿勢になった。
髪の毛を洗い終える寸前、良いことを思いついた。

そうだ、ノコギリを買いに行こう。

できれば安い方が良いけれど、この際、贅沢は言えない。
とにかく、頑丈な方が良い。
首だけでなく、手も足も切り取らなければいけないのだから。
糸ノコギリじゃダメだ。
いや、刃こぼれしても交換できる糸ノコギリの方が良いのかもしれない。
髪の毛を拭きながら思案した。
ホームセンターに行くのなんて、いつ以来だろう。
もう随分と行っていない。
ついでに、洗車セットでも買っておこうか。
最後に車を洗ったのなんて、憶えていないくらい前だ。
車を洗ったら、あちこち旅行しよう。
日帰りか、一泊だ。
最初の旅行は、顔と一緒に。
次は、手、か。
いや、胴、か。
いやいや、それだと、足が嫉妬するか。

旅行計画が次々と頭の中を駆け巡り、テンションが上がってきた。
ドライヤーで髪の毛を乾かす時には、鼻歌が漏れた。
着替えを済ませ、浴室のドアを開けた。
相変わらず、これはうつぶせのままだ。
もはや、これが、これだろうと、彼女だろうと、この人だろうと、
そんなことは、どうでも良い気がした。
とにかく、自分は旅行に行くのだ。
ドライブドライブ、久しぶりのドライブ。
天気は晴れのほうが良い。
せめて、曇り。
雨だと、せっかくの洗車が台無し。

あぁ。
あぁ、早く。
疾く行かなければ。
ホームセンターに。
洗車セットを買いに。

そうそう。

それから、ついでに、糸ノコギリも。
by Willway_ER | 2009-11-09 01:16 | ガラクタ小説・エッセイ置き場 | Trackback | Comments(0)
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