もく星号の大誤報


 昭和27年4/9、朝日新聞夕刊の1面トップには「日航機、海上に不時着」「乗組全員救助さる」「浜名湖西南、米軍救助隊が出動」「下り『もく星号』乗員37」とある。記事によると4/9午前7時34分、風雨の中、羽田を出発した福岡板付行の日航機もく星号は離陸から20分で消息を絶ち、各方面で捜索していたところ、午後3時15分、航空長板付分室に、もく星号が静岡の浜名湖西南16キロの海上で発見され、米軍によって全員が救助されたという報告が入った、とある。4/9は天候が悪く低気圧が北上中、高度5000メートル近くまで雨雲が立ち込めて視界はゼロ、気流も最悪だった。毎日新聞、読売新聞ももく星号不時着を夕刊で伝えたが、毎日新聞は乗客の生死は不明となっている。
 
 これが4/10の朝刊になると各紙一変する。朝日新聞朝刊1面トップ、「遭難の日航機全員の生存絶望視」「機体なお発見せず」「東海道海上に再出発の捜索網」となっている。つまりは前日夕刊の報道は全くの誤報だった訳である。4/9午後10時半、極東海軍司令部はもく星号の乗客を救助したと報道されている米軍の2隻の掃海艇は1人も救助していないと発表、もく星号を目撃したとか遭難現場を発見したとかいう情報はないとも発表、これでもく星号乗客全員無事のニュースは完全に覆ったのである。
 
 銀座8丁目の日航本社では乗客の家族が4/9午後7時までには60人近く詰め掛けていたが、午後8時半、松尾静磨専務がこれまでの楽観的な情報は根拠がなくなったと家族に伝え、午後11時10分、家族の控え室にしたレストランエーワンに藤山愛一郎社長が出向き、もく星号の安否はほぼ絶望的である旨を説明、家族の間にどよめきが起こる。日航は昭和26年10月に1番機を飛ばして以来、これまで事故らしい事故は起こしていなかった。しかし実際にはこの頃の日航は飛行機と操縦士はノースウエスト航空から借りて運航していて、責任の所在も問題になった。
 
 この頃、飛行機はステータスの高い乗り物であった。西銀座の日航本社の近くに住んでいた赤坂小梅などは、家まで日航社員が「小梅さん飛行機が出ますよ」と起こしにきてくれたという話が残っている。赤坂小梅は戦前から移動は飛行機という新しもの好きで、昭和31年時には北海道、九州、大阪への公演に月に4、5回は飛行機を使っていた、というように、飛行機はまだまだ一部の特定の財界人や芸能人が「常連」として利用する物であった。
 
 従って、もく星号の乗客もある程度の地位のある人間ばかりであった。八幡製鉄社長の三鬼隆、自由党事務局長の森直次、漫談家の大辻司郎、日立製作所取締役の天利義昌、他にも石川島重工の重役、労組の書記長、ハワイのホテル支配人、会社社長、官僚、炭鉱主、アメリカ人大尉もいた。新聞に写真も住所も掲載されない、偽名を疑われた小原院陽子という乗客唯一の女性もいた。この謎の女性の存在からダイヤにまつわる謀略墜落説がまことしやかにゴシップとして世間をにぎわせたが、松本清張はもく星号遭難を丹念に検証した「日本の黒い霧」の中で、謀略墜落説は完全に否定している。
 
 日立製作所取締役の天利は家を出る前、早大理工学部2年の長男に「きれいな下着に変えておけば死んでも見苦しくない」などと冗談を飛ばしていたが、不吉な前兆として当ってしまった。大辻司郎は講談師の一龍斎貞山ら一行と長崎の平和博に出演する予定だったのだが、1人だけ遅れて飛行機を利用したのだった。なお八幡製鉄の三鬼社長の令嬢(15)は4年後の昭和31年2月に日航スチュワーデス9期生として就職している。令嬢はスチュワーデスを「女性の立派な職業」と語り、父の遭難事故へのわだかまりと、女性の自活のための仕事選択とは感情的に混同しない事が話題を呼んだ。
 
 現地の新聞、長崎民友はこの時、新聞史上に残る致命的な誤報を犯している。昭和27年4/10の朝刊であろう事か「危うく助かった大辻司郎」の写真を掲載、「漫談材料がふえたよ、かえって張り切る大辻司郎氏」と既にこの時点ではこの世の人ではなくなっていた大辻の談話を載せ、さらに大辻夫人の「笑いの種ですワ」といった談話まで載せている。これは記者と大辻のマネージャーとの完全な創作だった。当時、地方紙には夕刊がなく、中央のニュースは遅れて入ってきたため、朝日や毎日がもく星号の不時着は誤報と報じた同じ朝刊で、もく星号乗客は全員生存との思い込みから大辻の捏造談話まで掲載してしまったのである。
 
 4/10午前8時34分、もく星号は大島三原山の噴火口東側2キロの筒石付近で捜索機に発見された。機体は散乱、乗客33人と乗組員4人の37人は全員死亡、当時の日本航空史上最大の惨事であった。大島の救援隊は午前11時に現場に到着、300人が、3キロ近くにわたって散乱した乗客の死体を収容して歩いた。もく星号は三原山の外輪山に衝突したのだった。松本清張はこの衝突を地上管制官の誤った指示によって6000フィートで飛行すべきところを2000フィートで飛行、当時の管制塔は米軍の指揮下にあり、管制官の致命的なミスからの衝突という非難をそらすためにブラフとしてもく星号不時着の情報をマスコミにリークしたのではないか、としている。実際にこの誤報の出所は米軍小牧基地であると、4/10の朝日新聞夕刊には関係者らの証言が掲載されている。
 
 4/10午前8時50分、西銀座の日航本社では機体発見が発表され、20人の家族は「ではもうだめですねえ」と涙顔であった。米軍はもく星号に指示した管制官の内容を遂に公表しなかった。つまりは管制官が本当に誤った指示をもく星号に出したのかどうか、はっきりした証拠は闇の中に消されてしまったのだった。
 
 もく星号事件が奇妙な印象と共に多くの日本人に記憶され、話題ともなったのは、もく星号無事発見の誤報ゆえであった。それでは戦後から昭和の終わりに至るまでの新聞の主な誤報を列記してみよう。

伊藤律会見を捏造(朝日新聞、昭和25年9/27

レッド・パージにより地下潜伏していた共産党幹部の伊藤律との会見を、記者が捏造し、スクープとして発表、当時の警察も含めた大騒ぎになった。宝塚山中で会見した、というその時間に記者本人は旅館にいた事が発覚、3日後に朝日新聞は自ら捏造記事と認め、紙面で謝罪を行った。記者は朝日新聞をくびになり、昭和26年12月、大同海運パーサーとなり、船乗りとして活躍した。

もく星号墜落で死者のコメント掲載(長崎民友、昭和27年4/10)

日航機もく星号が消息を絶ち、後日、大島三原山に激突し乗客全員が死亡していた事が判明した事件で、当初は朝日、毎日、読売ともに静岡沖に不時着と報道した。中でも朝日新聞は全員救助と報道、長崎民友に至っては、長崎に向かうために搭乗していた漫談家の大辻司郎のコメントとして「漫談の材料が増えた」などと掲載、大辻夫人のコメントとして「笑いの種ですワ」など、実際は死亡していた大辻司郎のありもしないインタビュー記事をそのまま載せた。

一面の曇り空でセイロン日蝕大成功(共同通信、昭和30年6/20)

東京新聞が共同通信の日蝕成功用の予定稿をそのまま使ってしまったため、翌日、訂正を出す破目になった。セイロンとは現在のスリランカ。当日、昼に終わった日蝕観測を夕刊に掲載しようと焦って起こしたミスで、他の新聞でも、刷った新聞を全部、廃棄する破目になるなど、大騒ぎになった。

生理が原因で女子大生が自殺(読売新聞、昭和30年7/5)

女子大生が自室で焼身自殺した事件で、読売新聞は「生理の最終日で日ごろの鬱憤が爆発して」女子大生は自殺したと報道。さらに自殺した女子大生は「さびしく歪んだ性格」だったと断定するなど、人権無視のセンセーショナルな記事を掲載した。その後、女子大生の自殺は高校時代の教師との不倫が原因ではないかとの憶測が広がり、読売はじめ、朝日、毎日など各紙は、教師本人が何も発言していないにも関わらず、教師を実名で「色魔教師」と大々的に報道、その後、同教師の「魔の手」が他の女子生徒にも及んでいたなどと、戦前の新聞と見間違うほどの興味本位の記事を連日、掲載、各紙とも訂正記事も出さず、まさに報道被害極まれりといった惨状を呈した。

「大都会に巣食う寄生虫」と無実容疑者を実名報道(読売新聞、昭和30年7/13)

銀座の雑貨商殺人の犯人として逮捕された容疑者を、まだ血液型の照合もアリバイ調査も済んでいなかった段階にも関わらず、読売新聞は「大都会に巣食う寄生虫」と名指しで大々的に報道、朝日新聞、毎日新聞も読売ほど露骨でないにしろ、容疑者の犯行を断じるような紙面展開を繰り広げた。その後、同容疑者は完全な無実であった事が判明、各紙ともに警察批判に終始し、自らの責任には頬かむりした。

質屋夫婦殺害で19歳少年が犯行自供(毎日新聞、昭和30年12/9)

毎日新聞は中野の質屋夫婦殺害事件の犯人として当時19歳の少年を実名報道、「犯行自供」などと見出しをつけたが、別の男が真犯人として警察に逮捕されるや「真犯人ひょっこり捕る」などと何の反省もない記事を掲載した。

宇都宮代議士が売春汚職(読売新聞、昭和32年10/18)

売春防止法成立阻止のために各地の赤線業者が政治家に接待をしていたとの疑惑が当時、囁かれていたのだが、読売新聞は宇都宮徳馬、福田篤泰の両代議士が赤線業者から収賄をしていたと報道した。しかし宇都宮、福田の両代議士は逆に読売新聞を告訴、実際には収賄の事実は存在せず、記事を書いた読売新聞記者が逮捕され、読売新聞は当初の報道とまったく同じ大きさの紙面での訂正報道を余儀なくされた。

ハマーショルド国連事務総長がチョンベと会談(朝日新聞、昭和36年9/18)

コンゴ内戦の収拾をはかるため、ハマーショルド国連事務総長が地元の反政府指導者チョンベとの会談を行うと朝日新聞はロイター通信配信の記事を元に報道。毎日、読売各紙が後に続いた。しかしハマーショルド国連事務総長は実際には、チョンベに会う前に搭乗機が墜落、死亡していた事が判明し、各紙勇み足となった。

東大学長「やせたソクラテスに」祝辞(朝日新聞・読売新聞、昭和39年3/28)

東大の卒業式で大河内一男総長が祝辞を述べた記事で、「太ったブタよりやせたソクラテスになれ」との名文句があったと朝日新聞、読売新聞が報道。しかし大河内総長は実際にはこの文句を飛ばして会場で祝辞を読んでいた事が判明。実際に大河内総長は話していないにも関わらず、新聞社に先に渡された祝辞の原稿に同文句が入っていた事から、朝日、読売がそのまま記事化してしまったもので、今でも同文句を大河内総長が卒業式で実際に言ったと信じている人間は多い。

「機動隊帰れ」を「全学連帰れ」に書き換え(山陽新聞、昭和43年1/22)

佐世保への米空母エンタープライズ寄港反対運動の最中、一般市民までも排除しようとする無差別な機動隊の姿勢に、佐世保市民の反感は高まり「機動隊帰れ」の怒声が飛び交った。共同通信はこの事態を正確に報道したが、記事の配信を受けた山陽新聞は「機動隊帰れ」の部分を、市民は「全学連帰れ」と叫んだと故意に書き換え、訂正記事を出す破目になった。

3億円事件犯人を別件逮捕(毎日新聞、昭和44年12/12)

時効が成立した3億円事件であるが、毎日新聞は重要参考人として府中に住む運転手を匿名ではあるが、身元が簡単に推測できる詳細さで報道、遅れてはならじと朝日、読売もこれに続いた。その運転手が、1年前に集金人を包丁で脅したという容疑で逮捕されるや、毎日新聞はじめ、朝日、読売は運転手の実名入りで「別件逮捕」と大々的に報道、その後、運転手の3億円事件当日のアリバイが発覚、毎日はじめ各紙は自らのセンセーショナルな報道には蓋をして、一転して警察批判記事を掲載した。

林彪失脚後も健在(朝日新聞、昭和47年2/10)

中国のナンバー2林彪が文化大革命の最中、毛沢東に謀反を起こし、ソ連への亡命の途中に搭乗機ごと墜落して死亡した事は、前年の11月にサンケイ新聞が報道したのを皮切りに国内各紙が報道、しかし、唯一、中国国内の特派員駐留を認められていた朝日新聞のみは失脚否定報道を続け、ようやく失脚を認めた紙面でもAFP電を引用する形で「林彪は健在」と大々的に報道して読者をミスリードした。中国からの特派員追放を恐れ、中国当局の言うなりに記事を送り続けたために、事実報道を特派員追放のサンケイに8ヶ月遅れるという新聞史に残る汚点を記したのである。

ミンダナオに幻の日本兵発見(朝日新聞、昭和48年7/17)

朝日新聞はフィリピンのミンダナオ島に記憶喪失の日本兵が発見されたと大々的に報道、はじめから自分を日本人と肯定していない現地人を無理に日本兵に仕立て上げたが、現地人本人が明確に否定するに及び、「苦難の半生」と称する創作記事まで掲載した朝日は、「黒白の決着つかぬまま」などと終始、逃げ姿勢で有耶無耶のまま報道を止めた。
 
自衛隊の暴力は違憲と判決(北海道新聞、昭和48年9/7)

基地建設反対訴訟の長沼ナイキ訴訟の判決要旨を北海道新聞は当日の夕刊に掲載、原告側の主張と判決を間違えて要約し、「支配層は暴力による体制の維持が不可避」「自衛隊の暴力は違憲」などの記述を、地裁が判断したと報道した。

機長写真をハイジャック犯と紹介(朝日新聞、昭和51年1/6)

マニラから東京に向かう日航機がフィリピン人2人にハイジャックされた事件で、朝日新聞は操縦席の機長の写真を「ハイジャック犯か」などと紹介、同じ紙面でハイジャック犯は操縦席に入っていないと報道しているため、完全に矛盾した紙面構成となった。

成田空港管制塔占拠でリーダーが自白(毎日新聞、昭和53年4/10)

成田空港管制塔占拠事件で逮捕された6人のリーダーと見られる男が犯行の詳細を自白したと毎日新聞が報道、他の逮捕者も釣られて自白を開始したのだが、この毎日の報道が完全な誤報であった事が判明、事件を起こした左翼団体の抗議を受けて、訂正記事を出すに至った。

作曲家桜井順が逮捕(東京新聞、昭和53年9/26)

東京新聞は覚醒剤の常用者として逮捕された6人の中に、作曲家の桜井順がいたと報道、これが同姓であるだけの完全な別人であった事が判明した。

国後島のソ連空軍滑走路を拡大(サンケイ新聞、昭和54年2/5)

北方領土の国後島のソ連空軍大滑走路が拡大工事中であると、自社機を飛ばし空中写真撮影まで行ったサンケイ新聞の報道に、他紙も追随、連日、決死の飛行撮影記事が紙面を賑わせた。しかし、実際は拡大工事は行われていなかった事が判明。サンケイはじめ、朝日、毎日、読売各紙は訂正記事を出すでもなく、自衛隊の戦力増強に一役買った。

「芦田日記」改竄報道(東京新聞、昭和54年3/12)

憲法制定時の自衛隊の扱いをめぐる部分で、故芦田均首相の日記を独占掲載した東京新聞は、芦田首相は自衛権保持を意図し、憲法制定に携わったと報道、日記の一部分を証拠として掲載した。しかし7年後に、この証拠とされる日記のくだりは東京新聞記者の完全な創作だった事が判明した。昭和61年5/31に紙面にて謝罪。

江藤代議士起訴へと報道(朝日新聞、昭和54年7/19)

当時の黒木博宮崎県知事と激しく対立していた宮崎選挙区の江藤隆美代議士が、黒木知事の収賄をネタに、知事が黒木派候補を自分の選挙区に擁立させようとしていた事を断念させたとして、地検が起訴するのではないかという観測が流れた。朝日新聞はわざわざ号外まで宮崎に空輸して「起訴へ」と報道したが、一転、地検は起訴しない方針を表明、朝日関係者一同は社内処分が下された。

「侵略」を「進出」と教科書書き換え(朝日新聞、昭和57年6/26)

高校教科書の検定結果の報道の中で、朝日新聞は一部歴史教科書に日本軍の中国侵略を検定で進出と書き換えさせた事実があると大々的に報道。これは後日、渡部昇一の調査で完全な誤報であった事が判明したが、この朝日新聞の報道によって、中国、韓国の内政干渉を招く事態に追い込まれ、日本は窮地に立った。後追いした他紙の中で、サンケイ新聞は謝罪記事を掲載している。

幻の自衛隊クーデター計画(東京新聞、昭和58年3/5)

現職自衛官を名乗る男が、自衛隊によるクーデター計画を証言したと、東京新聞は連日、大々的に報道を繰り返した。これは2月に、国会で楢崎弥之助代議士が追及して大問題となったものを裏付けるという趣旨の報道であったが、4月、当の現職自衛官が実は板金の仕事を本業とする詐欺師であった事を「週刊新潮」が報道、東京新聞は幹部以下、一斉に更迭され連日、謝罪紙面を組む破目になり、楢崎代議士の政治生命まで危うくなった。

煙幕写真を毒ガスと報道(朝日新聞、昭和59年10/31)

日本軍が中国戦線で毒ガスを使用した証拠として、大々的に報道した写真が、実はただの煙幕で、先に報道した作戦とは別の場所であった事が判明、朝日新聞は11/14に訂正記事を出す破目になった。

匪賊の生首を南京大虐殺証拠写真と報道(朝日新聞、昭和60年8/5)

南京大虐殺が日本軍による残虐な蛮行であった証拠として掲載された生首写真が、実は中国軍によって処刑された匪賊の写真であった事が後日、判明した。

日航機墜落生存者は7人(共同通信、昭和60年8/13)

日航機墜落事故では4人の生存者が判明したのだが、この共同通信の誤報を、そのまま使用した地方紙が続出、京都新聞、北国新聞はじめ、ほとんどの地方紙は7人生存の見出しをとった。また全国紙でも朝日新聞など一部の地域版でも、そのまま7人生存の記事を掲載した。

参考
朝日新聞東京版各記事など 1952〜1956
長崎民友「日航もく星号が遭難」記事 1952
松本清張「日本の黒い霧」(文春文庫版) 1974 
山下恭弘「誤報・虚報の戦後史」 1987


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