笑説 越中語大辞典



●な〜ん

 否定語で「いいえ」で富山と加賀や飛騨で使う。富大の先生はドイツ語みたいといったが「ナイン」ではない。「うい」というのもあって、富山方言にはフランス語が入っていると考えるのが普通である。余談だが、井上ひさし『紙屋町さくらホテル』では中国地方の方言を調査している言語学者の大島が特攻で戦死した弟子のN音の理論を披露する。多くの言語ではN音で否定を表すが、これは舌で外界と内界を遮断するからだという。例:「あんたのいうとっこと、な〜んちごとっちゃ」(あなたのいうことは全然違っていますよ)。

●なーも〜なんも

 「何にも」。例:「なーも変わったことなかったちゃ」・「なんない」(何もない)。

●なおかで〜なおかいで

 「なおさら」。例:「そんながやったら、なおかで頑張らんにゃんあかんねけ」(そうだったら、尚更、頑張らなければならないよ)。

●なおす

 「片付ける」の意味で「なおす」は使わない。篠崎晃一+毎日新聞社『出身地がわかる!気づかない方言』(毎日新聞社)によれば、西日本に多い使用法だという。

●直会【なおらい】

 「打ち上げパーティ」のことで、方言ではないが、富山ではよく使う。元々は神祭終了後、神饌【しんせん】や神酒のおろし物を参加者が分かち飲食する行事。大嘗祭・新嘗祭における豊明【とよのあかり】の節会【せちえ】などを指す。

●…ながいちゃ〜ながやちゃ

 「…なのですよ」で富山弁で特徴的に出てくる。特に「そんながいちゃ」(そうなんですよ)は相手に(表面的に)同意することの多い富山県人の大好きな言葉ながいちゃ。

●中沖豊

 6期務めた富山県知事。富山市出身。東京大法学部から地方自治庁(現総務省)に入り、県の教育長をしていたが、当時の中田幸吉知事に煙たがられて左遷され、消防大学校長などを経て日本船舶振興協会に。1980年、在任中に病没した中田幸吉氏の後を受けて出馬し初当選。中田と同じように強力なライバルが生まれないように配慮した政治を行う。5期までは自民党公認、6期目は無所属で立候補した。現役知事の中で最多選で最高齢となっていた。2004年1月23日、執務中に不調を訴え、県立中央病院で左脳の血栓による軽い脳梗塞と診断され、入院。退院後、発作性心房細動が確認され、3月12日に引退を表明したという報道が翌日の北日本新聞に流れたが、副知事が否定。8月3日にようやく引退表明した。健康・スポーツ、花と緑、科学・文化の「三つの日本一」を掲げ、産業や観光の振興、新幹線・高速道路整備などに力を注ぎ、「住みたい県」づくりを推進した。北陸新幹線整備では建設促進同盟会長として常に沿線各県の先頭に立ち、「ミスター新幹線」と呼ばれた。

 米国大統領を「ミスター・プレジデント」と呼ぶのは初代ワシントン以来の伝統という。当時は「殿下」や「陛下」にあたる尊称をつけよという議論や、「自由の守護者閣下」という仰々しい呼び名をつけようという声も議会から出た▲実現しなかったのは建国の英雄ワシントンがそれを好まなかったからだ。いや呼び名ばかりか、ワシントンは軍の何人かの部下らから合衆国の「王」になるべきだと進言や暗示を受けた。その人気や威信が絶大だったからだが、当人は進言に激怒で応え、厳しく拒絶している▲米国大統領は2期までというのが不文律になったのは、そのワシントンが2期できっぱり辞めたからだ。第二次大戦時にはF・ルーズベルトが4期選ばれたが、その後憲法修正で3選禁止は明文化された。独裁者への警戒心は米民主主義の魂だ▲さて日本では選挙で選ばれたトップが「王国」を築くことがある。都道府県知事が多選を重ねるなかで作り出される利権構造の固定化は、しばしばその知事の名を冠して「○○王国」と呼ばれた。そこで先ごろ神奈川県議会で成立したのが知事の4選を禁じた全国初の多選禁止条例だ▲ただこの条例の発効は、自治体の多選制限を認める国の法律ができた後とされている。すでに自治体によっては多選自粛を条例化したところもあるが、神奈川の条例は地方ごとに住民の多様な自己決定を容認する法制定を急げという国への催促といえる▲本来は知事を監視する議会もオール与党化し、「王」を推戴(すいたい)してしまったのが過去の多選自治体の実態だった。そこで住民自身が多選禁止の是非を考えるのは地方自治という「民主主義の学校」の格好の宿題だ。その結論については地方の選択を尊重していい。(毎日新聞「余録」 2007年10月17日)

●…ながけ

 「…なのですか?」。例:「そうながけ、そんなに悪なってはったがけ?」(そうなんですか、そんなに悪くなっていたのですか)。

●ながし

 「流し」で「流し台」だけでなく「台所」全体を指す。ちなみに富山には「流しのタクシー」はほとんどない。市内電車があることもあるが、無駄だと思っているせいである。

●ながしま

 「長居すること」。新湊では使わない。

●ナカシンデパート

 新湊市の万葉線・中新湊駅の跡に建てられた、新湊で唯一のデパートだった。しかし、高岡ジャスコができて、大島町にアプリオができて、小杉町にアルプラザができて、市内の人はみな市外へ買い物に行くようになって倒産した。あとにマンションができた。

●…ながです

 「…ながいちゃ〜ながやちゃ」を丁寧にいう表現。例:「そうながです」。

●なかど〜なこど

 「仲人」。名古屋では「ちゅうにん」というそうだ。代理の仲人は「頼まれなこど」という。

●ながまし

 「生菓子」が音韻転倒(metathesis)で反対になったもの。子どもが「たまご」を「たがも」というのと同じであるが、これが定着したもの。「山茶花」は「さんざか」が「さざんか」に、「あたらしい」は「あらたしき」が転倒した。針供養の際に、実家が婚家に「ながまし」または饅頭などを贈るという、悩ましい風習があった。

●泣きみそ〜泣きびそ

 「泣き虫」。例:「なんちゅー、泣きみそやろか」。

●奈古〜奈呉の浦

 新湊の海岸。「奈呉」とするのが圧倒的に多いが、「奈古」中学などがある。

 大伴家持に「あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣りする小舟こぎ隠るみゆ」というのがあるし、謡曲「藤」にシテ:「奈古の浦回(うらわ)も程近き」、地謡:「眺めにつづく気色かな」として出てくる。

●夏越しの祓【なごしのはらえ】

 富山日枝【ひえ】神社などで1年を半分にした前半年の最後の日を「夏越し」とよんで行うみそぎの神事。この日は河童が出ない(. 石田英一郎『河童駒引考』など)から自由に泳げるとか、それで牛馬を水辺につれだしたり、神社では社前で「茅の輪くぐり」という、水草の茅(ちがや)を巻いた大きな竹の輪「茅(ち)の輪」をくぐる「たいたいくぐり」が行われ、人形(ひとがた)や紙で作った形代(かたしろ)で体をなで、心身を清めて、穢れを祓う神事を行う。宮廷では「大祓い」が行われる。ちなみに12月の最終日は「年越しの大祓」と呼ぶ。

 「茅」(ちがや)は古くは「ち」だった。数多く集まるから「千」、出たばかりの穂が赤いから「血」、穂を噛むと乳のような甘味があるから「乳」という説がある。端午の節句に食べる「粽」も元は「茅巻き」だった。夏越しの祓の茅の輪くぐりも、茅が呪力を持っていると信じられてきたからである。

●なごーなる〜なごなる

 「長くなる」、つまり「横になって寝る」。例:「だやてぇ、なごーなっとったちゃ」。

●馴染み添い

 川崎洋『ことばの力』(岩波書店)に次のように書いてある。

 富山の古いことばに、
 「なじみぞい」
というのがあります。幼な馴染みの「なじみ」と、添い遂げるの「そい」です。つまりはレンアイケッコンのことですが、わたしとしては、この「なじみぞい」のほうが、ずっと抵抗がありません。聞かれたら、
 「わたしらは、なじみぞいです」
と答えようと、つねづね思っているのですが、まだ一度もたずねられたことがなく、残念であります。

●雪崩【なだれ】

 越後の雪の観察を主題にした鈴木牧之(ぼくし)の『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』の「雪頽(なだれ)」に「その響(ひびき)百千の雷(いかづち)をなし大木を折(おり)大石を倒す…白日も暗夜の如(ごと)くその慄(おそろ)しき事(こと)筆帋(ひつし)に尽しがたし」と、文章に表せない恐ろしさという。「里人(さとひと)はその時をしり、処(ところ)をしり、萌(きざし)を知るゆゑに、なだれのために撃死(うたれし)するもの稀也(まれなり)。しかれども天の気候不意にして…」。

 雪氷学者の高橋喜平は随筆に「雪崩は雪の葬送である【…】そして時おりこの葬送に人々をいけにえとして捧げねばならない」と書いている。

 富山ではホウ雪崩という、ものすごい雪崩が有名だ。

●納豆

山寺に寒さをたたく納豆汁…芭蕉
納豆と同じ枕に寝る夜かな…一茶
朝霜や室の揚屋の納豆汁…蕪村

 納豆を日本の代表的な味というのは間違っている。昔は富山でも納豆はあまり食べなかった。関西文化圏だからだと思う。

●七草粥

 五箇山では七草を「ナンカブ」という。野菜の雑炊にモチを入れる。

●七越【ななこし】

 粒あん、おはぎ他、あん関連食品製造、七越焼き(大判焼き)、たこ焼き他、テイクアウト商品店頭販売、ラーメン飲食事業など富山の甘味処として有名。

●七大河川

●七曲(ななまがり)

 富山、長野県境の北アルプス・立山連峰を貫く立山黒部アルペンルートで標高1600メートルを超える地点で、この弘法、七曲(ななまがり)周辺では、澄み切った青空の下、緑の針葉樹を背景に、ナナカマドの赤やダケカンバの黄が色鮮やかに浮かび上がる。

●なべ祭り

 日本海高岡なべ祭り。鍋を売る祭りではなくて、1987年から始まった恒例行事で高岡地場産のアルミと銅で作った直径2メートル以上のジャンボ鍋を使った鍋料理を出す。エビやサケが入ったしょうゆ風味の「ごっつおなべ」、味噌風味の「かになべ」、ホタテやエビなど入れたホワイトシチュー味の「海鮮シチューなべ」の3種類がある。

●なまくら(もん)

 「怠けた、怠惰」(な人)、「なまけもの」。共通語でももちろん使うが、「なまくらもん」を嫌う風土のせいか頻度が高い。例:「なまくらしとったら、いつまでたっても偉ーなれんちゃ」。

●なましい〜なますい

 「なまくらな、怠惰な」。例:「寝てばっかでなますいやっちゃ」(寝てばかりで怠惰な奴よ)。

●鯰鉱泉【なまずこうせん】

 現在の鯰温泉だが、昔は「鉱泉」といった。泥のようなお湯が有名。商船高専の入試の時に斡旋する旅館でどうして紹介するのかと聞かれたことがあるが、どちらも「こうせん」だから、というのが正解である。四方(よかた)の漁師・弥三郎が母の腫物の薬を求めて富山城下の薬屋に良い薬はないかと捜し歩いたが、これといって良い薬もなく疲れはてて今市の里にさしかかった時、腫物のある親狐に子狐が水をかけているのを見つけ、狐が去った後そっと水辺をとのぞき込むと白鯰の群が月影にあやしくうごめいていた。これはただの水ではないと母の腫物につけてみると翌日にはもう快方にむかっていた。間もなくそこに一軒の風呂屋が建ったのが元だという。

●鉛瓦【なまりがわら】

 金沢の石川門や高岡の瑞龍寺、伏木の勝興寺は屋根に鉛瓦が使われている。

 1)装飾性にすぐれている、2)鉄砲の弾に使うため、3)防寒・防雪のため(凍結による破損防止)、4)防火、5)鉄砲攻撃の防御、6)重量を軽くするため、7)南蛮文化の影響(五木寛之『百寺巡礼 北陸編』によればヨーロッパに多いという)などが考えられる。『おもしろ金沢学』(北國新聞社)では喜内敏(きないさとし)の説を挙げていて、鉛の価格の暴落と供給過剰のためではないか、という。

●滑川【なめりかわ】

 富山県の難読地名の一つ。日本海の荒波が早月川の河口に入ることから「波入川」(なみいりかわ)。これが訛ったものだが、北条朝時が攻め入った時に鎌倉の滑川(なめりがわ)に似ているとして「滑川」とした。鎌倉の滑川は青砥藤綱(あおとふじつな)が川に落とした十文を、五十文使って拾わせた故事で有名。

 甲子園に出場したことがある「滑川」は「なめがわ」と言った。市長は応援メッセージを送ったのだが、直後に富山商業とぶつかることになり、大騒ぎになった。富山商業は滑川に敗退した。

●ナモアミダブツ

 小さい頃からどうしてみんな「南無阿弥陀仏」を「ナミアミダブツ」といわないで、「ナモアミダブツ」と訛るのだろうかと思っていた。多くの辞書には「ナミアミダブツ」という表記しかない。

 浄土真宗などでは「ナモアミダブツ」という、ことを知ったのは大谷光真の『朝には紅顔ありて』(角川書店)を読んだからである。

この「南無=ナモ」は、本来「あなたを信じます」、「あなたに従います」、「あなたに委ねます」といった意味をもっています。「ア・ミタ・ブッダ」とは、「限りない、はかることのできない仏」という意味です。何が限りないかというと、「ひかり」と「いのち」です。ひかりが限りないとは、どんなところまでも救いの光を照らしてくださることを死まし、いのちが限りないとは、いつでもいつまでもどんな時も、ということを表しています。つまり、時間的にも空間的にも制限なく、いつでもどこでもどこまでも私を照らしてくださる仏さまがアミタブッダ(阿弥陀仏)なのです。
 よって、「南無阿弥陀仏」とは、「この阿弥陀仏にすべてをまかせます」という私たちのこころを表現した言葉になります。

 「南無=ナモ」という言葉は現在も使われている挨拶の「ナマステ」と語源が一緒だという。つまり、「こんにちは」「ようこそ」「さようなら」の意味にも使われる挨拶なのだ。

●なもかも〜なんもかも

 「何もかにも、全て」。例:「エッセー、だぁも読んでくれんでぇ、なんもかも嫌ぁになった」。

●なら

 「(それ)なら」で「では、じゃあ」。「なら、行ってこんまい」(では、行って来ましょうか)が「奈良に行こうか」と聞こえてそのまま奈良へ行ってしまう他県人が絶えない。例:「なら、ホテル行かんまいけ」。

●なり

 「成る」の連用形から「形、格好」の意味を経て「身長」の意味まで持つ。例:「急にでっかいなりになったがでないがけ」(急に身長が伸びたんじゃないですか)・「なり、どっだけん、あっがいね」(身長どれだけあるんですか)・「変ななりしてかいど出られんな」(変な格好をして外へ出てはダメだ)。

●成木責め【なりきぜめ】

 正月十五日の「小正月」に実をつける木をたたく成木責(なりきぜ)めが行われる。多くはカキの木が対象となった。家の主人と子どもが木のそばに立つ。主人がなたや棒で木をたたき、「成るか成らんか。成らねばちょんぎるぞ」などとはやす。子どもはカキの木の精霊になって、「成ります、成ります」と答えるのである。たたくふりだけする地域もあれば、実際に傷をつける地域もある。傷口にはアズキがゆやぜんざいを塗った。こうして豊作の約束を取り付けたという。風習には自然への畏敬が息づいていた。富山市出身の俳人、沢木欣一は「越中に父幼なくて成木責め」の句を残している。小澤昭巳は次のように書いている。

「鳥追い」は、鳥害を防止するための、「成木責め」は、果樹の豊作を願う呪術的な農村行事。砺波地方では、これらが連結して行われていた。14日の夜、子どもたちは、「左義長」の残り火でもちを焼いて食べ、そのあと、「鳥追い」のうたを歌って田畑をねり歩き、庭先へ戻って「成木責め」を行った。柿の木のそばへいって、一人が鎌で木の幹に傷をつけ「なるか、ならんか」と唱える。それに答えて他の一人は「イタイ、イタイ、なるなる」と唱える。そこで二人は、傷口に小豆(あずき)がゆを掛けて引きあげる。

●なれる

 「鮮度が落ちた」。共通語の「腐った」という強い意味まではない。例:「だら、こんななれた魚、だー食べっが」(馬鹿、こんな古い魚、誰が一体食べるんだ)。

●なんかん

 南瓜「かぼちゃ」。ポルトガル語の「Cambodia abobra」の後半を取って「ぼうぶら」ともいう。冬至に南瓜を食べる習慣があるが、冬至というのが太陽が衰えると共に人の体も衰えると考えたからだろう。島崎藤村の小説「家」(故郷の長野県が舞台)にも「冬至には、三吉の家でも南瓜(かぼちや)と蕗味噌(ふきみそ)を祝ふことにした」という一節がある。

 国文学者の窪田空穂は随筆「冬至の南瓜(かぼちゃ)」で、全国には冬至にカボチャを食べる風習がない地域があることや、食べ方も一様ではないことを紹介している。信州出身の本人の家では、小豆を多量に入れ、団子も加えて煮物にしているという。

●南京玉簾【なんきんたますだれ】

 日本を代表するジャグリングの一つ。「アさて アさて アさて さて さて さて さては南京玉すだれ/チョイと伸ばせば 浦島太郎さんの魚釣り竿にチョイと似たり /浦島太郎さんの魚釣り竿がお目に止まればおなぐさみ/お目に止まれば 元へと返す」などと歌う。

 富山と南京とどう関係があるか驚くが、日本南京玉すだれ協会によれば、南京玉すだれ発祥の地は五箇山・平村上梨の白山宮の編竹(あみたけ)踊りにあるとして2002年3月に認定式が行われた。編竹踊りはこきりこのささら踊りの流れをくむ。不思議に思うかもしれないが、中世から近世初期にかけて、放下(ほうか)師・放下僧と呼ばれる芸人が品玉(しなだま)・輪鼓(りゅうご/“立鼓”とも書いた)などの散楽系の芸や、小切子(こきりこ)を打ちつつ歌う放下歌などを演じたから関係が深いのである。 藝能史研究會編『日本庶民文化史料集成 第8巻』(三一書房)には次のように書いてある。

 南京玉すだれは日本で作られた。どうして「南京玉すだれ」と呼ぶか。江戸時代、旅の放浪芸人が、色々な商売の売り言葉(口上)を手控えとして作った「諸芸口上集」の南京玉すだれの部で「先御免(ますごめい)を蒙(こうむ)りまして、京・大坂・江戸、三ヶの津に置きまして流行り来るハ、唐人阿蘭陀南京無双(とうじんおらんだなんきんむそう)玉すだれ、竹成る数が参拾六本、糸の数が七拾と弐結び、糸と竹との「はりやい」を持ちまして、神通自在御覧に入れます。先(まず)岩国でハ算盤橋(そろばんばし)、双方高い橋の欄干、欄干有りてぎぼしない所をすだれの御笑い、武士一統でハ金兜(かなかぶと)、東海道五十三次で蕎麦屋の看板、三日でハ三ヶ月十五夜の形、伊勢道中に置きました間の山でハお杉やお玉、祖父とばさんの糸車、淀の川瀬で、すだれば一連に跡へと戻る」とあります。口上の中で「唐人阿蘭陀南京無双玉すだれ」と言っていましたのがいつしか無双が無くなり「南京玉すだれ」と呼ばれるようになりました。又なぜ玉すだれと呼んだのか。「玉」とは小さくてかわいいとの意味があり、一般の簾より小さくてかわいいのでこのような名称がつきました。なお、当時南京は先進都市の代名詞で、大変ありがたがる風潮があり、いかにも舶来品のような名前が付いたと思われる。玉すだれの原型は、平安時代から現在もある、越中(富山及び岐阜県高山地方)のササラや福井県のビンザサラで、短冊状の板をつづり合わせた楽器です。なお、大道芸とは芸人(角付人)が道端や角付け、広場で演じ、投げ銭を貰っていた。香具師(やし)は、お客さんを呼ぶために演じ、物を売っていた。明治には寄席でやるようになったが、大正時代に寄席から消えた。現在は色々な玉すだれが販売されているが、江戸時代は玉の数も少なく、36本であったが、その後改良され、又、色々な形を作るので数も増え56本、長さも関東では尺(33cm)が中心。関西では玉の数が44本、長さは29cmタイプや、土産物用で20本前後、長さ20cm以下のタイプもある。

 思い出すのは近松門左衛門批判である。貞享3年(1686)に近松は竹本座で「佐々木大鑑(内題・佐々木先陣)」を上演するが、その浄瑠璃正本第1ページに、はっきりと「作者近松門左衛門」と署名して、ここに作者としての存在感を強烈に示した。当時、浄瑠璃作者は太夫の影の存在で、作者名を堂々と名乗ることを禁じられていた。その裏付けが、翌貞享4年に出た役者評判記「野良立役舞台大鏡」(やろうたちやくぶたいおおかがみ)にあります。この中で評判記の筆者は「おかしたいもの(やめさせたいもの)、南京のあやつり、近松の作者付け」と厳しく批判している。ここに出てくるのが「南京あやつり」なのである。「南京操り」とは「糸操りの初期の称。江戸初期に始まり、寛文・延宝年間(1661-1681)に隆盛」と『大辞林』には書いてある。

 言語学ではスペイン風邪とか南京虫など外国のせいにするのは“xenophobia”という。

 2005年には初の日本南京玉すだれ選手権大会が開かれた。

●なんけ?

 「一体、何の用でしょうか?」。例:「なんけ、なんながね」。

●なんだちゅがいね

 「何だというのですか」。例:「なんだちゅがいね、どやちゅがいね」(何だというのですか、それが、どうだというのですか?)

●何でも聞いてみるがいけど…みんがいけっど

 「何でも聞いてみるのですが…」というそのままの意味で「〜何でも聞いてみんがやれど…」という人もいある。「つかぬ事をお伺いしますが…」というように、質問・相談するときの前置きとして富山ではよく用いられる。「なんでも」とは言うが大抵は一つしか尋ねないことが多く、「お前、ちゃんと分かっているのか」という意味で使われることも多い。納得すると「へぇー、そんながけ」だが、納得しないと「なーん、ちごうがでないがけ」となる。

●なんでも鑑定局

 質屋兼営の総合リサイクル店。2000年に富山市で「なんでも鑑定局」の1号店を開業し、04年に金沢市、05年に富山県高岡市に出店し、翌年から全国にフランチャイズを作る。主に消費者から買い取った品物を販売している。取扱商品はブランド雑貨、宝飾品、高級時計、衣料、家電、家具、玩具、楽器など幅広い。質屋を兼営し、消費者は品物を担保に金を借りることもできる。質屋兼営の総合リサイクル店という業態は全国でも珍しい。

●なんど

 「納戸」(“なんど”は共通語だが)。

●南砺市【なんとし】

 福野、利賀、平、上平、福光、庄川、城端、井口の8町村でつくる砺波地域市町村合併でできた市。最終候補に挙がっていた「越南(えつなん)市」【ベトナムみたいで反対だった】、「光南(こうなん)市」【江南市と間違うので反対だった---佐倉市があるのに「さくら市」(栃木)ができたからいいのか?】、「南砺市」、「八乙女(やおとめ)市」【八女市と紛らわしいので反対だった】の中から投票で決めた。南砺市は2004年11月に発足。

●難読地名

 次のような地名が読みにくい(と思う)。由来も分かる範囲で書いておく。千葉県には安房郡富山町というのがあって「とみやまちょう」という。ややこしい。

 「新湊」だって「滑川」だって「砺波」だって、「氷見」だって知らなければ難読だ。「新湊市」は統合して「射水市」になるがこれも県外の人は読めないと不評だ。難読人名にも通じるので「珍名の街」を参照してください。また、語源は危険なので「語源学・仮入門」をご覧下さい。旧市町村名で書いておく。

 谷川 彰英『「地名」は語る―珍名・奇名から歴史がわかる 』(祥伝社黄金文庫)によれば、徳島県では「十八女」と書いて「さかり」と読む地名がある。「間人(たいざ)」「一口(いもあらい)」などの難読地名や、「半家(はげ)」「向津具(むかつく)」などくすっと笑ってしまう地名がある。岩手県の「がっかり島」は地元の子供たちが何度行ってもアワビが捕れず、がっかりして帰ってきたことから付いたと、役場の人から情報を得たという。

●南砺市【なんとし】

 「平成の大合併」で2004年11月に発足した市。城端、井波、福野、福光、平、上平、利賀、井口の8町村が合併したもの。フランスのナント市みたいだが、実は奈良のことを「南都」ということがあるので、紛らわしいことは紛らわしい。

 フランスの港町ナントはジュール・ベルヌが生まれた街で知られる。大西洋に注ぐロワール河畔にあり、18世紀には新大陸との交易で栄えた。少年時代に船乗りにあこがれたベルヌは晩年、「貿易都市が持つ大きな海のうねりに巻き込まれ、私は作家になった」と書いたが、これが『海底二万里』になったと考えられる。

●南日三兄弟

 富山の誇る三兄弟で南日恒太郎(なんにち・つねたろう)とその弟、田部隆次、田部重吉をいう。

 南日は富山市山室の出身で、高等文官試験に合格後、三高(現京都大学)や学習院の教授を歴任し、大正10年に退官し、故郷に帰って著述活動に専念した。英語・英文学の権威者でハ−ンの東京帝大時代の教え子であり、当時女子学習院で教鞭をとっていた。旧制富山高等学校(富山市蓮町にあった)の設立に際して初代校長に迎えられた。

 その弟が田部隆次(たなべ・りゅうじ)でハ−ンが亡くなった後、節子夫人の相談相手となり、遺作の刊行、全集の出版等の世話をした。

 隆次の弟は田部重吉(じゅうきち)で英文学者・随筆家・評論家・翻訳家・山岳紀行家で『山と随想』『忘れえぬ山山』など多数。旧姓は南日、田部家の養子、筆名は南日重吉。東京大学英文科卒業。

●なんのせ

「何はともあれ」。例:「なんのせぇ、おっかしいこと言われてぇ、わろたちゃ」(とにかく、おかしなことを言われて笑ったよ)。

●なんば

 「赤唐辛子」で「南蛮」が縮まったもの。例:「なんば入れすぎて、辛ろうて辛ろうてあかん」。

●南原繁

 政治学者。東京大学教授、第2次大戦後、総長。28才で射水郡長として赴任した。当時、射水平野は下条川の氾濫と排水不良による産米低下に悩まされていたとともに、低湿地の環境条件の劣悪さから、ワイル病などもあった。 「下条川、新堀川を改修しなければ射水平野の発展はない。」と下条川改修工事を発起し、大正7年、知事に上申。 農学校(現在の小杉高等学校)を設立するなど、射水郡の発展に尽した。


*「七つの海」とは北太平洋、南太平洋、北大西洋、南大西洋、インド洋、北氷洋、南氷洋なのだが、太平洋、大西洋を分けるのが引っかけ。ただし、「七つの海」はイギリスの詩人・小説家ラドヤード・キプリングによって広められたようで、南シナ海、ベンガル湾、アラビア海、ペルシャ湾、紅海、地中海、大西洋を指していた。15世紀以前では紅海、地中海、ペルシャ湾、国会、アドリア海、カスピ海、インド洋のことを指していたという。


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