今をさかのぼること約9千年、縄文時代の初めから人々が生活を営んでいた小坂井町。縄文時代の貝塚や人骨、弥生時代の環濠集落、古墳、白鳳寺院、戦国時代の城跡。そして東海道が整備された江戸時代の立場茶屋など、数々の歴史のあしあとが残されています。 文化財一覧及び刊行物のご案内はこちら(エクセルファイル、32kバイト) |
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● 平井稲荷山貝塚・平井遺跡 明治33年に、この貝塚の発見・発掘者である平井の大林意備(もとよし)翁により学会に発表された縄文晩期の貝塚である。 大正11年には京都帝国大学の清野謙次博士の調査により、人骨が50体以上発見され、全国でも屈指の縄文人骨出土遺跡として知られるようになった。 その後も明治大学や町教育委員会などにより発掘・調査が行われ、現在までに約90体もの人骨が確認されている。 ここから出土する土器のほとんどは、縄文時代晩期の指標となっており、「稲荷山式」と命名されている粗製土器である。出土品の一部は郷土資料館で見学できます。 |
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● 篠束遺跡 昭和34年6月、豊川放水路工事中に発見された弥生時代中期(約2100年前〜1900年前)の遺跡である。 土器は、ほとんどが弥生中期の瓜郷式土器に属するものである。石器は石斧(せきふ)、石鏃(せきぞく)、石錐(せきすい)、砥石(といし)、石包丁など10数例が採集された。木器は農具、機織具、容器、狩猟具など、60余例が出土した。 |
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● 伊奈の銅鐸 伊奈銅鐸は、大正13年12月22日、大字伊奈字松間(現豊橋市立前芝中学校校地)の畑で、土砂の採掘をしているとき、地面から80センチほど下から最初の一個が現れた。さらに北へ90センチほど離れた所で、2個が鰭(ひれ)を上にして入れ違いにほとんど密着した状況で発見された。 この銅鐸は、弥生時代後期の「三遠式(さんえんしき)銅鐸」といい、「袈裟襷文(けさだすきもん)」の文様で、「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」に変化した形式にあたる。3個の銅鐸は、大正15年2月、東京帝室博物館に買い上げられ、現在は東京国立博物館に納められている。 |
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● 五社稲荷社 文政13年(1830)2月に京都伏見稲荷大社より、五神を勧請して五社稲荷社となった。しかし、延享4年(1747)に社殿が改築された記録があるので、実際の創立年代はそれ以前にさかのぼることになるが、現在のところは不明である。 五穀豊穣、商売繁盛、福徳円満の神として崇敬され、毎月1日、15日の月次祭(つきなみさい)には、多くの参拝者があり、露店も出てにぎわっている。 |
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● 欠山(かけやま)遺跡 五社稲荷社の周辺に広がる遺跡で、昭和2年(1927)愛知電気鉄道(現在の名鉄)の鉄道敷設に使う土砂取り工事中に発見された弥生時代後期(約1900年前〜1700年前)の遺跡である。ちょうど、倭国大乱から卑弥呼の時代にあたる。 出土した土器の主要器種は、壺、ひさご型壺、甕(かめ)、高坏(たかつき)、器台(きだい)であり、これらの土器は「欠山式土器」という標式名が与えられている。 |
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● 報恩寺 報恩寺の創建は、大同2年(807)、本尊は地蔵菩薩で、真言宗であったと伝えられている。弘治2年(1556)に東漸寺第4世大甫一巨によって改宗され、現在は曹洞宗東漸寺の末寺である。 本堂内には弘法大師の真筆といわれる「南無阿弥陀仏」の掛け軸が、弘法大師像とともに祀られている。本堂隣の観音堂内には、秘仏の千手(せんじゅ)観音菩薩像を始め聖(しょう)観音菩薩像、馬頭(ばとう)観音菩薩像が祀られ、絵馬や俳諧(俳句)などの奉納額がある。境内には、和泉式部供養塔や天領時代の代官中川勘助の墓がある。 |
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● 葵の紋発祥ゆかりの地(伊奈城跡・花ケ池) 享禄2年(1529年)、伊奈城主本多正忠は岡崎城主の松平清康(徳川家康の祖父)に従い、吉田城を攻略した。そして、正忠は清康を伊奈城に迎え勝利の祝宴を開いた。この時、正忠は城内の池のありふれた水草に肴を盛って出した。これは中国の古典・春秋左氏伝に習い潔白な忠誠心を清康に表したのである。清康は喜び、この時、伊奈本多家の「立葵の家紋」(フタバアオイ)を望み、以来用いるようになり、後に「徳川・三葉葵の家紋」となったと伝えられている。 水草を採った池を「花ケ池」と言い、「伊奈城跡」とともに憩いの公園として整備されている。 |
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● 東漸寺(とうぜんじ) 昔、前芝村(現豊橋市)に東漸寺という真言宗の寺があったが、廃寺となり延命地蔵尊を祀る小堂だけになった。ところが、津波によりこの地蔵尊が、伊奈の地に流れ着いたので、村人はこれを崇めて祀っていた。 この地蔵尊を本尊として、明応元年(1492)第三代伊奈城主本多正時(泰次)が堂宇を建て、知多郡緒川(おがわ)の乾坤院(けんこんいん)の亨隠慶泉禅師(こういんけいせんぜんじ)を開山とし、萬年山東漸寺と名付け、本多家先祖累代の菩提寺とした。 |
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また、資料館には遺跡から発掘された出土品などが多く展示してあります。