2009-11-06
【746冊目】杉浦康平『かたち誕生』
世界を読み解く |
- 作者: 杉浦康平
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 1997/03
- メディア: 単行本
- 購入: 2人 クリック: 6回
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「かたち」は、「かた」+「ち」である、という。「かた」は「型」、すなわち形状、フォルムをいうのに対し、「ち」は「いのち」であり、「ちから」であり、「血」「乳」である。「かた」が静的であるのに対し、「ち」は動的でダイナミックで、エネルギーを秘めている。「ち」が「かた」を動かし、変容させ、エネルギーを与える。そこに「かたち」というもののダイナミズムがある。
本書はこうした「かたち」のダイナミズムを取り上げることで、「かたち」によって形成されている世界そのものを読み解くものとなっている。ものすごく面白い。理論や歴史だけではなく、こうした世界の見方もあったのかと気づかされる。唐草模様に隠された「渦」「生命」の意味、マンダラや須弥山を通じた仏教的世界観の凄み、白川漢字学にも通ずる漢字の「かたち」としての奥深さ、注連縄から水引にまで通貫する「陰陽」の思想……。「かたち」を通じて、世界そのものが本書の中で立ち上がってくる。
また、取り上げられている図版の豊富さと鮮やかさ、ユニークさにも驚かされる。文章と図版がこれだけ融合し、渾然一体となってメッセージを伝えてくる本はめずらしい。本書にあっては、図版は文章の添え物ではなく、書物を構成する重要な存在なのだ。本書自体にもブックデザインについて、その秘密がたっぷりと明かされているが、本書自体のブックデザインもすばらしい。本と世界の関わりの奥深さについても、考えさせられる一冊である。
2009-11-05
【745冊目】高山宏『終末のオルガノン』
世界を読み解く |
- 作者: 高山宏
- 出版社/メーカー: 作品社
- 発売日: 1994/08
- メディア: 単行本
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理性と啓蒙の時代は、同時に寓意と図像に満ちた、マニエリスティックな世界観をはぐくんだ時代でもあった。本書では、この著者ならではの膨大な知識と博学に裏付けられた、近代ヨーロッパの「裏側」が、豊富な図版とともに堪能できる。
俎上に上るのは、テーブルのもつ寓意と意味、デフォーやスウィフトの小説と「計量魔」の関係、ユートピア文学の系譜、スピノザにみるレンズ研磨と実存、エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ……といっても、こんな程度の説明ではなんのことやらさっぱり、だと思う。しかし少なくとも、本書が近代を見つめる独特の視座をもっていること、それは近代の建前とその裏側の間の薄い薄い皮膜にメスを入れてその「あいだ」にあるものを暴きだそうという、ブラックジャックばりのきわめて微妙できわどい知的作業の連続であるということは、書いておきたい。本書に限らず、高山宏氏の文章は独特のうねるような流れとメタフォリカルでやや筋道がわかりにくい展開をもつが、それは、書かれている事象自体がそのような、一筋縄ではいかない入り組んだ多重構造をなしているためなのだ。
「テーブル」について取り上げた最初の章をみてみると、そこに展開されているのは、まずテーブルの文化史である。テーブルを描いた絵画がふんだんに展示され、その中でテーブルというものがどのような意味やイメージをもたれているのかが明らかにされる。まず、歴史的にはテーブルは「板」である。「十戒」が記された板もテーブルであった。さらに、近代におけるテーブルは部屋の中心であり、バラバラのものを一堂に集め、秩序を生みだすことができる存在である。それは権威であり、秩序であり、構造である。ここで登場するのがジョン・ロック。ロックは、生まれたばかりの人間を「タブラ・ラーサ(なめらかな板)」(板はテーブルであることを思い出してほしい)と考え、その上に経験が文字を書き込んでいくことで人間精神が形成されるとした。つまり、人間理性が周囲の混沌とした断片を集めて秩序化し、自分にとっての一宇宙に変える機能を、その「板」はもっている。したがって、客間にある「テーブル」と人間の理性は、同じような機能を果たしていることになる。一方、秩序化されない要素はテーブルの上から「排除」される。みずからに都合の良い価値や事実だけがテーブルの上に乗り、恣意的に構造化され、秩序だてられるのだ。
話はまだ終わらない。著者はさらに、こうした「近代の権化」としてのテーブルの役割が文字通り「ひっくり返される」場面に注目していく。アンチ・モダニズムとしての「アンチ・テーブル」の系譜である。意識的ではないにせよ(むしろ意識的ではないがゆえに、かえって)、テーブルのもつ「寓意」が皮肉られ、パロディ化され、否定されることが、近代理性主義そのもののアンチテーゼになっているのである。実際、奇麗に料理が盛り付けられたテーブルを「ひっくり返す」ことには、どこか秩序だったものへの反発と、それが一気に崩れ去ることへの一種の快感があることは否定できないだろう。
とまあ、テーブルひとつだけでもこれだけの内容が、しかも図版をたっぷり使いながら解説され、解き明かされるのだ。これが全編、さまざまなテーマにわたって続くのだから、これはものすごい濃密・絢爛・異形の一冊ということになる。好みは分かれるところだろうが、「理性」とか「啓蒙」とかいうフレーズに違和感を覚える方なら、読んでつまらないということはないと思う。
2009-11-03
【744冊目】マーシャル・マクルーハン他『マクルーハン理論』
マクルーハン理論―電子メディアの可能性 (平凡社ライブラリー)
- 作者: マーシャルマクルーハン, エドマンドカーペンター, Marshall McLuhan, Edmund Carpenter, 大前正臣, 後藤和彦
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2003/03
- メディア: 単行本
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信じられないことだ。本書が最初に出版されたのは、1960年。日本でも67年には『マクルーハン入門』と題して刊行されている。つまり本書は40〜50年ほど前の本なのだ。
確かに、本書で取り上げられている「メディア」とは主にテレビであり、PCやインターネットなど、その片鱗すら見当たらない。しかし、そのテレビについて述べているマクルーハンらの言葉は、今でも通用するものが多い。いや、当時よりむしろ現代のほうが、通用する局面が多いのではなかろうか。
そもそも人間は、文字を読むようになって、その思考様式が大きく変化した。特にグーテンベルク以来の活版印刷によって、「文字を読む人」は爆発的に増大した。その結果生まれたのが、文字特有の「線的な思考」。それまでの「同時的思考」では複数の要素をまさに「同時」に経験することができていたのが、文字化することで、一定の時間軸に沿った「線的」な経験に置き換わり、切り捨てられた部分は潜在意識に押し込められた。
ところが、テレビなどの新しいメディアは、文字社会以前のような同時的な体験を可能にした。人々はふたたび、線的で時間軸に沿った思考から解放された。さらに、テレビは世界中で同じ体験をすることを可能にした。911の衝撃は、ビルに突っ込む飛行機のショッキングな映像とともに、まずテレビによって世界中に瞬時に共有された。
教育もテレビによって大きく変わる。そもそも現代の小さな子供は、就学前にすでにテレビによる莫大な情報にさらされており、全的で無文字的な体験をたっぷりしている。学校での教育はまずそのことを前提として行われなければならない。
2009-11-02
【743冊目】福井健策『著作権とは何か』
公務員の基礎知識 |
- 作者: 福井健策
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2005/05
- メディア: 新書
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著作権について、基本中の基本を具体例を挙げながらわかりやすく解説した本。
弁護士さんが書いたものだが、具体的な「著作権法」の解説を期待するとやや外れる。むしろ、著作権を構成している芸術や文化、あるいはオリジナリティと模倣といった、いわば創作物全般の本質に切り込み、著作権という権利をそこから眺めるものとなっている。著作者や著作権者の権利をまったく保護しないわけにはいかないが、保護しすぎると、創作にはつきものの模倣を封じてしまい、かえって文化全体をやせ細らせることになる。そのつり合いをどこでとるかが、著作権というものの難しさであるようだ。
皮肉なのは、著作権など存在しない時代のほうが、どうひいき目に見ても、現代より生み出されている作品の質が高いことだ。たとえば、シェイクスピアはネタ元となっている物語や伝承を換骨奪胎し、そこに新たなメッセージを込めてひとつの戯曲として完成させる「模倣の天才」であった。音楽も絵画も、すぐれた先人の作品のモチーフを使ってより高度な作品を生み出し、歴史に残る人類の宝となるケースが少なくない。日本でも、古来より「本歌どり」はすぐれた和歌の詠み手にとっては常道のひとつであった。著名な歌舞伎や浄瑠璃も、完全なオリジナルであることのほうが珍しい。
となると、今存在している著作権の存在とは何ぞや、ということになる。著作権法はその目的として「著作権者の保護」とともに「文化の発展」を謳っているが、むしろ著作権の存在は文化の発展を阻害しているのではないか。中国の海賊版のような「丸ごとコピー」は論外としても、別の作品を生みだすために他者の作品を模倣し、本歌取りすることは、文化の発展の観点からすればむしろ奨励すべきことなのではないか。また、パロディや批評にまつわる著作権の存在に至っては、パロディや批評の本質をそもそも解さない、まったくのナンセンスそのものなのではないか……。さらには、著作権という存在が、現代の創作家たちを過度に「オリジナリティ」に駆り立てているのではないか、とすら思える。すべての芸術は、まず模倣から始まるものだというのに。模倣の限りを尽くしてもなお現れ出てくる原作との相違こそが、その人の持つ本当の「独創」だというのに。
2009-11-01
【742冊目】ジョーゼフ・キャンベル『時を超える神話』
世界を読み解く |
- 作者: ジョーゼフキャンベル, Joseph Campbell, 飛田茂雄
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1996/09
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神話学者ジョーゼフ・キャンベルの講演録『キャンベル選集』の第1冊。人類の起源にはじまり、世界中の神話を高速で概観しつつ、そこに潜む共通性を探る。アメリカ・インディアンやエジプトの神話から、東洋古来の仏教やヨーガ、さらには西欧のアーサー王伝説まで、非常に目配りの広い展開に加え、スライドを多様した視覚的効果、さらにわかりやすく多面的な語り口で、神話の世界の魅力を伝えるには申し分のない一冊となっている。
ここに取り上げられているのは世界の神話のうちほんの一部だが、その内容をみていると、「どこかで聞いたような話」が実に多い。それも、日本神話にみられるエピソードとよく似たものがエジプト神話で見られたり、アーサー王伝説とアメリカ・インディアンの説話が妙に似通っていたりと、とんでもなく離れた場所で共通する部分があったりする。一方の神話がもう一方に伝播した可能性もゼロではないがちょっと考えにくく、むしろ神話というものが、一定の共通性を本源的に持ちうるものだ、と解釈するほうが適切だろう。特に、古事記におけるイザナギの「冥界下り」とほとんど同じ話がエジプト神話にみられる(ちなみにギリシア神話にも同じような話があったように思う)のには驚かされた。
なお、個別の話として印象に残ったのは、まずナバホ・インディアンの素晴らしい砂絵。神話的な世界観をあらわした一種のマンダラなのだが、その豊かな象徴性! また、ニューヨーク近代美術館で砂絵の制作を行った時のエピソードが面白い。彼らは色砂を使ってあっという間に見事な砂絵をつくるのだが、その際に必ず一部を省略し、あえて不完全なものにしておくというのである。その理由は、砂絵を扱う人を砂絵の力から保護し、絵の力が発生しないようにするためなのだというのだ。「これを完全なものにすると、あすの朝、マンハッタンじゅうの女が妊娠してしまうよ」と、彼らは語ったそうである。
また、中盤ではクンダリーニ・ヨーガについてまるまる2章を割いて説明しているほか、仏教や「チベットの死者の書」についてもたっぷり解説されており、神話とも思想ともつかない、東洋思想の源流がたいへんていねいに取り上げられている。特に「チャクラ」についての解説は、心身を一体のものとしてとらえ、さらに生命と世界の間断なきつながりをうかがわせるもので興味深い。
後半では、西洋思想の成り立ちを言語の面から考察するなかの一節が印象に残った。ラテン語からフランス語、古ドイツ語からドイツ語へと言語が進化するなかで、主語と動詞の分離が起こったというのだ。「私は愛する」を、ラテン語では"amo"と一語で言うが、ドイツ語では"ich liebe"なのである。このことと近代自我意識の発生を単純に関連づけることはできないだろうが、なかなか意味深なエピソードではないだろうか。