2009年09月30日

板と掛け軸とお人形

わたしが過去50年で見てきたのは、宗教の正体であり、そして、偽らざる実態。キリスト教のことはよく知らない。殊仏教の限って言えば、坊さんも信者も「こうあってほしい」「あああってほしい」という希望的な観測で自分を見ている。
 
日蓮門下で言えば、板と掛け軸とお人形に悲喜こもごもの感情を投影する。板に拘るのは大石寺と顕正会。掛け軸となると創価学会も。お人形となると、むしろ日蓮宗は賑やかだ。なんでこんなことを信仰だと思うのか。離れてみると不思議に感じる。
 
大石寺の板が本物でないことは種々検証した。万が一、日蓮が板に直接書いたものであっても、ただ、それだけのこと、文字を彫った板であることは変わらない。
 
日蓮の漫荼羅を掛け軸に仕立てる。さらに写真製版で大量印刷。
「印刷物じゃないか」というと「御開眼すれば仏になる。マンダラとなる」と来る。開眼とは、そもそも仏像を造って、目を書き入れることで魂が入ったとする儀式。何で目を書けば、魂が入るのか。では、マンダラの開眼とは何事か。創価学会はこれをしない。印刷のしっぱなし。それで御本尊なのだという。大石寺は、板の前に大量印刷の掛け軸を置き、「御法主上人猊下」がお経を上げると開眼になるのだそうだ。なんか信者は普通の坊さんの知らない呪文を観念したりするのかもしれない。しかし、なんで、それが開眼なのだ?
 
日蓮宗では、大量生産された印刷の掛け軸に、坊さんが裏書きをすると開眼となるのだそうだ。
 
なにをしたところで、板は板。紙は紙。掛け軸は掛け軸である。
日蓮のお人形に至っては、わたし的には、もうどうでもいいといった感じがする。
 
お人形を造って、それを生前の人であるという思いで、お仕えする。人形に生前の人を投影する。一種のフェティシズムといったところだろうか。もっとも板や掛け軸を仏だ法だと崇めるのも似たようなもの。
 
板と掛け軸、お人形に、特別な力を持たせるのが坊さんなんだそうだ。
 
そうして、「創価学会より大石寺が正しい」「大石寺より創価学会が正しい」「顕正会は正しい」だなんだと、信者達が言い合いをしている。その元は、この板と掛け軸、お人形の、自分たちの解釈が勝れているという自慢大会。これに、日蓮宗が加わって、「日蓮本仏はおかしい。釈迦本仏が正しい」「いいや、おかしいのは釈迦本仏、日蓮本仏が正しい」と言い争っている。
そんなものは端から見ていれば、五十歩百歩、どちらもおかしいのだ。
 
板や掛け軸、お人形。こんなものに拘っているのはやめて、早く仏法を始めることである。  
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2009年09月27日

日光東照宮と大石寺の関係(2)

- 日光東照宮と大石寺の関係(1) からつづく -

日精が大石寺に入り、17代となったのは、徳川家康死去から16年目のことだった。
今回の物語のもう一人の主人公は敬台院。すなわち、徳川家康の長男・信康の娘と古河藩主・小笠原秀政子、徳川家康と織田信長の曽孫である。また、日精の養母である。
 
しばし、徳川と大石寺の動向をリンクしながら、考えてみる。
 
日精は要法寺の造像の影響ばかりを取り沙汰されるが、そればかりではなく、徳川をパトロンとしながら、彼自身、徳川の強い影響を受けていたのではないか。
 
家康の天下統一は慶長8(1603)。日精が3歳の時のことだった。日精が家康の死に接したときは16歳。ようやくと成人と認められたころだった。
 
駿河で死去した家康は久能山に葬られる。翌年には日光に改葬。家康自身の遺言に依るのだという。その翌年、社殿が完成。朝廷から東照大権現の神号を受けた。
日本は徳川の治世となってより13年。神となった家康、つまり、東照大権現の影響は莫大なものがあったろう。
 
寛永8(1631)年。ときに日蓮350遠忌祥月命日10月12日、大石寺は諸堂焼失。日鎮が建立した御影堂も灰燼に帰す。
寛永9(1632)年。日興日目300遠忌。16代日就は寂す。17代となった日精は大石寺に入る。
日目の300遠忌祥月命日にあたる11月15日。「本門戒壇本堂」たる御影堂は、敬台院が寄進建立した。

先の日記コメントに、尚半道人さんから「徳川家康が薨去した1616(元和2)年より数えて、1632(寛永9)年は”十七回忌”の年に当たっている」とのご指摘を賜りました。
敬台院は曾祖父家康の十七回忌を期し、日目三百遠忌に、本門戒壇本堂を寄進ということだった。


その2年後の寛永11(1634)年、3代将軍家光は日光東照社に社参。2年後に控えた二十一年神忌に間に合わせるべく、社殿の増改築を始める。寛永13(1636)年、これを完成。その年、大石寺では梵鐘の鋳造が成った。

寛永17(1641)年、敬台院の後押しであろう家光から朱印状。
寛永18(1642)年、敬台院は細草檀林を創す。
正保元(1644)年、改築前の東照社社殿は徳川家発祥の地に遷され世良田社(世良田東照宮)が創される。
 
先の日記日光東照宮と大石寺の関係で考証したとおり、大石寺客殿→本門戒壇本堂(御影堂)→世良田東照宮→日光東照宮は一直線上に並んでいる。

徳川に視点を置いて考えれば、大石寺の本門戒壇本堂の寄進は、家康の十七回忌、そして、二十一年神忌という歴史的経緯の家康の菩提を弔う一環にあったと見られることになる。
敬台院の立場からすれば、客殿から仰ぐ本門戒壇堂の直線上の彼方に東照宮を置くことは、祖父である東照大権現(家康)への思いを籠めたことであったのではないか。
敬台院と密接な関係にあった日精は、東照大権現に係る事情にも精通していたことは想像に難くない。つまり、客殿と本門戒壇堂、すなわち、日蓮御影と本門戒壇が安置される堂宇の彼方に東照大権現が祀られていたことを知悉していた。そして、丑寅勤行において、客殿から御影堂に向かうとき、その彼方に東照大権現をも遙拝していたのではないか。

正保2(1645)年。朝廷は宮号を授与。東照宮と改称。家康は「日本之神」となった。
その年、日精は寂した。あたかも、東照宮を見届けたかのようなタイミングと思える。  続きを読む
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2009年09月26日

日光東照宮と大石寺の関係(1)



久方に感嘆。
 
GREEでのこと。
日記『奉安堂が「蔵」とは、どういう意味か』のコメント21に、リアルでも知人であるぶんぶんさんが教えてくださった話。

「ちなみに、客殿から御影堂の延長線上には日光東照宮があるんです。所詮、江戸期のくだらない文化に乗っかったようです」
 
こうした話は、確証を取らないと気が済まない。
GoogEarth を使って、確認してみた。
 
なんと、ぶんぶんさんの仰るとおり、大石寺の客殿と御影堂を結ぶ線の延長に日光東照宮はあった。それも、その中間にある世良田東照宮まで一直線上にあるではないか。
写真左、日本地図の直線の上端が日光東照宮、中間が世良田東照宮。下端が大石寺客殿の位置である。
写真右、大石寺境内。下が客殿、上が御影堂。その二堂を結ぶ直線の延長の125キロ先に世良田東照宮、190キロ先に日光東照宮がある。
 
いやはや、すごい。日精の時代。大石寺は徳川を庇護を受けて、大いに発展。殊に御影堂は「本門戒壇本堂」として建立された。この御影堂と家康を祀る東照宮に位置関係を持たせていたとは。そして、また、当時の測量技術といったことにも併せて感嘆。  続きを読む
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2009年09月23日

去る9月20日、東京で恒例の勉強会を開催

今回も充実した内容となった。
 
発表は3題。
 
櫻川忠さん『魑魅魍魎と立正安国論』
 
1.妖怪学
 1)妖怪の意味の領域
 2)妖怪の変遷
 
2.三歳七難の根拠
 1)明恵『摧邪輪』
 2)早瀬日如発言
 3)浅井昭衛発言
 4)興風紀要「事の法門について」
 
Pohさん『日蓮の言う戒壇に意味について』
 
特に題名が決まっていなかったので、付けるとすれば、以上のごとく。
たくさんの資料を用意くださった。
 
・辞典で見る「戒壇」「大乗戒壇」「四分律」の意味
・日蓮遺文で見る「戒壇」「戒場」「受戒」「授戒」「理戒」「戒体」「小乗戒」「大乗戒」「菩薩戒」「円頓戒」「具足戒」「戒律」といった成句の用法
・本門戒体抄、戒体即身成仏義、各全文
・松尾剛次『遁世僧団の入門儀礼システム』抜粋
・末木文美士『日蓮入門』抜粋
 
・優婆塞、優婆夷となるには
・沙弥、沙弥尼となる前の2年の見習い期間
・比丘、比丘尼になるには
・日本における国家的授戒制度の確立
・鑑真
・四つの受戒の場、国立戒壇

黒岩 秀行さん『戸田城聖の「生命論」における“生命”』
 
・戸田の獄中の体験
・戸田生命論の概説
・戸田生命論の問題点
・戸田生命論と無量義経
・戸田生命論の影響
・文献  続きを読む
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2009年09月15日

黒岩秀行氏著『創価学会の戒壇観』を読む

GREEのこと。黒岩秀行さんが、ご自身の日記にアップされた『創価学会の戒壇観』を読んだ。日蓮研究をなさってきた正統な文章であると思った。
上梓されているのかどうかは存じ上げない。
http://gree.jp/bhabanero/blog/entry/300381573

秀でた文章であり、ここに、わたしのつまらない評を記す気はない。
印象に残ったことのみ。創価学会であった黒岩さんが幼少の頃、清浄な地と感じていた大石寺が、大学生以降には、そうではなくなっていったという気分の変化である。わたしは、まず創価学会、池田大作さんに、こうした気分の変化を覚え、のちに大石寺にもまた、同様に思った。
 
黒岩さんご自身の心象を憶測で記す愚はしないこととする。
わたし自身について書く。たぶん、わたしの内心に起こった変化は、聖物、聖人、そして、聖地といった対象を、それを崇拝するところからくる解釈から離れ、あからさまに実像に迫った結果だった。
 
聖物であると思った「本門戒壇の大御本尊」は、後世の彫刻作品であったし、聖人、それも本仏であると教えられ思い込んでいた日蓮は誤り多い人間であった。聖地と思った大石寺は、巨大建造物を建てて彫刻を見せて金を集める商業施設に過ぎなかった。
 
こうした事情は、創価学会でも同様だった。
聖物であると教え思い込んでいた「御本尊」は写真製版で大量生産された印刷で、聖人…こうした言葉は充てないが…と思った池田さんは宗教者というより、宗教をツールにした起業の大成功者であり、宗教的に尊敬の対象ではなかった。池田さんは名誉会長と呼ばれる。その奥さんはいまは「香峯子」というのだそうだが、元々は「かね」だった。要は池田夫妻を合わせれば「名誉とカネ」。これほど、象徴的な夫婦も珍しい。
創価学会に聖地と言える場所はない。信濃町の土地を大量に買い占め、センスの悪い建物を次々と建て、大学を造って八王子に進出しても、そこは聖地などというにはほど遠い。偏った印象のビジネス街、教育施設以上の意味はない。
 
たぶん、気分の変化は、聖と思ったものが、凡、もしくは俗であるという実像を見た落胆であったのだと思う。
 
わたしの近しい人間が、ぽつんと言ったこと、「創価学会員って、欲深い」。味わいのある箴言だと思った。
 
わたしは巨大建造物は好きなほうだ。しかし、宗教団体の、巨大建造物の虚仮威しなど、「ふん」と鼻で笑う。「これを作る金はどこから持ってきたんだろうか」、そう、いつも考える。どこの町でも見かける創価学会の悪趣味な会館。いや、創価学会ばかりではない。どこの宗教団体の建物も自己顕示欲の強い悪趣味で町の景観を損ねている。
 
いまの法華講が「正本堂は、仏教に似つかわしくない」と言った。
その建造物を喜び勇んで受け取って、1度に5千人、1千万の収入のうま味におぼれてきたのは、当の大石寺だろう。
 
大石寺の日有は「法花宗の御堂なんどをば日本様に作るべし唐様には作るべからず」と言った。
 
日達氏は略解して「本宗の本堂などは、日本様式に建てなさない。中国式のごとく敷瓦をした形式にしてはいけません」(P102)という。
 
では、正本堂にせよ、奉安堂にせよ、その建築様式はどうか。古来からの焼き瓦ではないにせよ、瓦様である。客殿、六壺にいたっては、禁止された瓦屋根ではないか。

こうした歴代の言葉は反古にして顧みずに、洋式だ、近代デザインがどうのもないものだ。創価学会に至っては問題外である。
 
信徒会員の意識というのは、冷めて見直せば、まことに滑稽である。そして、物悲しい。
 
宗教ビジネスとそのツールに入れ込んでいくのだ。
わたしも、父も母もそうだった。
 
わたしはいま、よく思う。両親が創価学会に入らないでくれたら。自分が小学生の時、池田さんに会わずにいたら、わたしの人生は、どんなにか変わっていたことだろうか。寺院、坊さんにも何の興味も抱かずに、自分の思考・嗜好で意義ある人生を送れたことだろう。
 
活動という名の奴隷、奉行(ほうこう)という名の奴隷。創価学会から大石寺へ。奴隷としての、流浪の民だった。結局、どこの宗教へ行っても、信者会員はそうである。伝統教団に行ったところで救いなどない。
 
宗教団体の、奴隷となった人々は、時には兵隊となって他を責める。本営からその気にさせられているのである。
 
権威の認知と服従という人間がサルと分化する以前からDNAに刻み込んだ原始的な行動習性を、宗教ビジネスと、その“事業主”、“営業マン”はたくみに活用している。そして、活用されているのだ。
 
黒岩さん、また、大木道惠さんといった方々は、いま、わたしがこうして悔いをもって振り返る信仰という名の監獄。会員信者という名の奴隷からいち早く解放された方々であったと、改めて思った。
 
黒岩さんの玉稿から、半生を振り返った。  
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2009年09月12日

9月20日 東京で研究オフ会

日時:午後1時から午後5時
場所:東京(参加者に連絡)
内容:研究発表とディスカッション
資格:原則、研究発表のできる方
 
・今回は、それぞれ、研究を持ち寄って発表する研究オフ会です。
・参加者全員が発表をすることを原則としています。
 
・FBIさんからは、大雑把に言えば、アンチ・シンパといった創価学会・顕正会を含む大石寺圏における問題の取り扱いに関する人道的在り方について。
・Pohさんからは、鎌倉期までの「戒壇」について
・犀角独歩からは、所謂「本門戒壇の大御本尊」写真の解析について。
 
その他、発表を予定しています。
参加ご希望の方は saikakudoppo@livedoor.com まで、
 
(1)ハンドルネーム
(2)携帯電話番号
(3)発表内容
 
以上を書き添えて、お申し込みください。
定員になり次第、締め切ります。  
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2009年09月11日

日蓮宗現代宗教研究所編『創価学会と公明党の動向を考える』を読む

『創価学会と公明党の動向を考える』表紙先の日記に書いた日蓮宗現代宗教研究所が送ってきてくれた『創価学会と公明党の動向を考える』は、一読して、何点か気になったことがある。
 
一つは、暗に大石寺法華講、とりわけ妙観講に対して親和性を有していること。たぶん、この点は日蓮宗側は気付いていないのではないか。
乙骨さんの文章では、「妙観講」の固有名詞が出てくるが、福本さんの文章では日蓮正宗大石寺に対する擁護といったニュアンスとなっている。
 
もう一つは、宗教学・宗教社会学、とりわけ、島田裕巳さんへの批判。これは乙骨さんの文章に露骨だったこと。
 
「フランスで、創価学会が有害セクトとして国会報告にリストアップされている…創価学会は、何とかリストから外してもらおうと盛んに工作しています…しかも問題なのは、宗教学者という宗教問題の専門家と思われている人々が、そうした流れを後押しするような形になっているという事実があります。日本の宗教学者や宗教社会学者も同様であり、宗教法人審議会のあり方にも問題なしとはいえません。一例を挙げるならば、宗教学者の島田裕巳さん。「寺門興隆」に創価学会問題を連載したり、創価学会に関する書籍を相次いで出版していますが、その内容を検証すると、一見、客観・中立の立場であるかのように記述しているんですが、仔細にこれを読むと、創価学会にとって都合の良いことを垂れ流しているんです。例えば、創価学会と公明党は政教一致ではないというような最新の「民族化する創価学会」には、「(創価学会と公明党という)二つの組織の関係について、調べれば調べるほど、とても一体とはいえないことが明らかになってくる」などと書いています。
 ご承知のように島田さんは、統一協会を擁護して批判を浴びました。その後、オウム真理数を擁護して総スカンを食い、自ら大学も辞職しました。その島田さんが、いまでは創価学会問題の専門家的な地位を占め始めています。しかし、その内容は私に言わせれば、まるで創価学会のスピーカー的なものであり、由々しき内容といわざるを得ません。
 先ほど申しましたように、宗教学者や宗教社会学者は、客観性・中立性ということを盛んに言いますが、客観・中立というのは、創価学会を例にとるならば、創価学会にとって不都合な事実、彼らにとってはマイナスの事実を含めて中立性というのは構成されるのです。ところが、島田氏をはじめとする多くの宗教学者、宗教社会学者の主張を見ていると、マイナスの事実は無視というかネグレクト、考慮の対象から外してしまっています。その上で創価学会にとってマイナスでもプラスでもない事実と、プラスの事実のみで中立点を定めるという手法がとられています。
 なぜこうしたことが起こるかと言えば、宗教学・宗教社会学には、信者は教団に自発的に入るものであるという前説があり、宗教に正邪をつけることはしないとの原則に基づいて、マインドコントロールと言う概念を否定するため、教団に否定的な言説は、たとえ事実であっても無視する一方で、教団の主張はすべて額面どおり受け取り、第一次資料として重きを置くという傾向があるからです。調査や取材に協力してくれた教団を批判しないというスタンスです。
 こうした流れに沿って創価学会にとって都合のいい中立点なり客観性というものが定められ、世論誘導が図られていくのです。」(P57)
 
以上、本題とはずれているが、印象に残った点だった。  続きを読む
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2009年09月09日

速報 『創価学会と公明党の動向を考える』を送付いただいた

先の広島講演でもお世話になった日蓮宗現代宗教研究所から、新刊『創価学会と公明党をの動向を考える』を送付されきた。
高佐主任と原爆ドームを訪れたとき、道すがらにお聞きしていた内容が1冊の本になったのだ。

詳細はまた記すつもりだが、取り急ぎ、紹介まで。  
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2009年09月07日

蒙古襲来「神風」日蓮とは無関係、朝廷と密教祈祷者の大騒ぎ

先頃、FBIさんご紹介の横須賀の古本屋で何冊か購入した話を書いた。
http://gree.jp/8028711/blog/entry/292599791
 
このなかに北条時宗に関する1冊があったのだが、なかなか面白かった。
いちばん、印象に残ったのがタイトルどおり。神風騒ぎは、朝廷に敵国降伏祈祷を仰せつかった密教の坊さんとその周辺の大騒ぎだったのだという。
 
根本順吉氏は『“神風”の正体とその思考』と題して、以下のように書いている。
 
「元寇の時に神風が吹いたとする見方の起原は、京都をはじめ、各地の社寺で敵国降伏の祈願・祈祷が行われたことから始まる。
 弘安4年(1281、再度の元軍の来冦が伝えられた頃、京都の石清水八幡を始めとし、奈良の西大寺では、蒙古は犬の子、日本は神の末裔とし、数珠も切れんばかり、涙が袈裟をしぼるほどの祈願が熱心に行われた。 その時に柱にかけた幡がかすかにゆれ、ハタハタと鳴った。やがて西国から早馬が到着、関7月1日、大風のため賊船は漂流、沈没し滅亡したことを報じた。
 そこでこの大風は八幡大菩薩が吹かせたにちがいないという考えが生れ、その霊験譚として『八幡愚童記』が生れた。 神風説は弘安の役後、間もない頃に、すでに出来上っていたのである。
 神風説はその後、神皇正統記、大日本史等に受けつがれ、現在の歴史家までにその考えは受けつがれている。
 ただし当時においてさえ、日蓮のように、流行していた禅宗との宗教的かけ引きから、神風について一言もいわなかった人もいた。」『北条時宗小百科』かまくら春秋社 P55)
 
また、田岡俊次氏は、『元軍撃退の真相』として、以下のように書いている。
 
「朝廷、幕府は社寺に『敵国降伏』を祈らせていたから、神官、僧侶はその『験(げん)』があって『神風が吹いた』と説き、当時の文筆家の多くがそういう人々だから「神風」は歴史となった。だが上陸した大軍に突撃して海へ追い落し、小舟艇で海上襲撃を敢行した武士たちは『嵐だけじゃないぞ。元々おれたちが敵を追い立てたのではないか」と『神風説』にむくれていたのではないか」(同 P53)
 
坊さんが飲まず食わずで祈ったのはけっこうだが、実際に命がけで敵と見え、実際に戦死していった武士に比し、朝廷も含めて、いい気な者だ。
 
先にも書いたが、渡辺昇一氏は『日本史から見た日本人・古代編』に、以下のごとく。
 
「元寇について一言すれば、時宗が文永・弘安の役で大勝した功績に対する朝廷の評価は、きわめて低いものであった。つまり、従五位上から正五位下に位一級をすすめられただけであった。まだ密教的影響を受けていた朝廷が、いかにピンボケであったかを示しているよい証拠である。つまり、元寇の勝利は、一所懸命お祈りをしたり、護摩を焚いたりしたご利益のおかげだと思いこんでいたのである。『大元三百萬騎の蒙古ども、一時に亡びしこと、全く吾国の武勇にあらず、ただ、三千七百五十余社の大小の神祇・宗廟の冥助にあらずや』(『太平記』)といった発想法なのである。『神風』ばかりが強調され、蒙古軍が内陸部に入ってくるのを阻止するために働いた武士のことは、すっかり忘れ去られてしまっている。上陸できないでぐずぐずしていたから、秋先の台風が来たのだということは、忘れられているのだ。……密教からまったく抜けていた明治天皇は、日露戦争のときに時宗の苦労を思いやられて、明治37年、勅使を円覚寺にある時宗の墓にお遣わしになって、四階級特進して従一位をご追贈なられた。」(詳伝社 P280)
http://gree.jp/8028711/blog/entry/293901336
 
既に、前から指摘されているので、ご承知の方々は多いことと思うが、ここでも、日蓮門下の伝承の一つがもろくも崩れ去っていた。  
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2009年09月01日

日有・日教、日蓮本尊から日蓮本仏、法主絶対の濫觴

指針で本尊を偽証する彫刻恵心流口伝法門につき、資料を読んだのは随分昔のことで、いくつか再読をしてみた。
http://gree.jp/?mode=community&act=bbs_view&thread_id=9425068

話題は、大石寺第9代日有と日教の焦点がある。

アンチ日蓮正宗的な発想では、どうやら日有は極悪人扱いのようで、ところが、当の大石寺では中興の祖と仰がれる。

この真反対の人物像に共通するのは「日蓮本仏論」の立役者であるという点。もちろん、大石寺では、日蓮本仏論は日蓮日興已来の法門となっているが、闡明にしたのは日有・日寛であるという。アンチでは、始めたのが日有で大成者が日寛であるとする点で異なる。また、日有は所謂「本門戒壇の大御本尊」を創作した張本人であるというのがアンチの主張のようだ。日蓮宗、取り分け大崎でも大同小異である。こちらは50年前から、そう主張している。

大石寺教学批判の、日蓮宗の雄には、執行海秀氏・宮崎英修氏が挙げられる。

執行氏に、わたしは大いに啓発を受けた一人である。
ただし、学説というのは、カルトの教義などとは違い、墨守するものではなく、提示された証拠類を追検証して確認し、適切であれば採り、不適切であれば、保留。新説を立てるのであれば、相応の証拠論攷をもってするのが常道である。

この道筋で、学説者に、仮に不足があろうと、シンパのバリ信者ではあるまいし、悪口雑言はまったく不要である。こうした態度を、在野の研究者、信者・脱会者を問わず、遵守させ、多くの稔りある議論を遺したのが、問答名人さんが管理されてきた「富士門流信徒の掲示板」である。

アンチがシンパのような人格攻撃に陥ってしまってはおしまいなのだ。
わたしは、そういった意味で大いに問答名人さんを尊敬申し上げている。

さて、前置きが長くなったが、資料は再読してみると、わかっているつもりのことで勘違いが見つかったり、覚えているつもりでも随分と忘れていることの多い。自分の情けなさをいつも思い知らされる。わたしのような蒙昧は殊にそうだ。  続きを読む
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