『どのやうな現象をもつてネット短歌の衰亡と捉へられたのかをarukaさんには説明していただきたかつたところです。』
この点ですが、内容はよく知らないですが、以前は「ちゃばしら」とか「ラエテティア」などというネット上の短歌の企画があったようですが、すでに終了したようです。「歌葉賞」というのも昨年終わったようで、「かんたん短歌ブログ」も終わったようで、笹公人さんの投稿ブログは以前はラジオで放送していたのが、ラジオ放送は終了しています。これらネット上の短歌の企画はどれも終わるか規模を縮小しています。それにはそれぞれの主催者の都合もあるんでしょうが、人気が盛り上がっているならこうも揃いも揃って終わるもんでしょうか?
そして「題詠100題blog」の参加者の数の推移をみると最初の数年は毎年ぐんぐん増えていくのですが、2005年をピークとして以後は減少傾向にあります。2006年以後は出走前に参加者を締め切ることをやめ、期間中に途中参加もできるようにしたのに、です。
これらの点をみれば、現在ネット短歌の人気は盛り上がってはいなく、むしろ翳りがみられるとする現状認識は妥当だとおもわれます。
酒井さんご自身はネット短歌の人気の下降を実感しておられないということなのかもしれませんが、一般論でいってこういった場合、10人中1人か2人が「おかしいぞ」と気づくあたりが重要な分岐点となります。
『たとへネット短歌が衰亡しつつあるにしても"やっぱりな、ザマーミロ!"と切り捨てるのではなくして、だつたらこの俺がネット短歌を盛り上げてやる、ぐらゐの氣概がなくてどうするのだ、と僕は思ひました。』
この点ですが、なんで盛り上げなきゃいけないのでしょうか? べつに盛り上がろうが盛り下がろうが、かまわないんじゃないでしょうか。それは酒井さん自身も最後の部分に、
『結局のところ、ネット短歌がたとへ盛り下がつていようとも、短歌を讀む人は讀むだらうし、詠む人は詠むだらう。それでいいのだと、僕は思ひます。』
と書いておられます。ぼくもこの点にはまったく同感です。
ぼくが困っているのは、酒井さんの文章は一体何を言いたいのかわからない事です。
この最後の、『たとへ盛り下がつていようとも(中略)それでいいのだ』という、ぼくと酒井さんと共通であるはずの認識の上に立つのなら、なんで『だつたらこの俺がネット短歌を盛り上げてやる、ぐらゐの氣概がなくてどうするのだ』という言葉が出てくるのでしょうか?
逆に、酒井さんが『この俺がネット短歌を盛り上げてやる』という気概で日々身を粉にして活動されているかたなのなら、「人気が盛り下がって喜んでいる」などと書いたぼくのことをゴキブリのように嫌悪するのも心情的に理解できますし、批判もあまんじて受けましょう。しかしゴキブリは一匹みつかった背後には百匹以上棲息しているという事実はお忘れないように。もしネット短歌の人気を盛り上げたいのなら、ぼく程度の人間が自分勝手にブログに書いたことに噛みつくより、なんでそんなに多くの人がネット短歌から去っていったのかを考えるほうがよほど重要です。
けれど、最後まで読めば、酒井さんは『この俺がネット短歌を盛り上げてやる』という人でもないと判断せざるをえません。
一体、酒井さんはあの文章で何がいいたかったんでしょうか?
ぼくが先の文章に書いたことは、煎じつめていえば、二年ほど前からネットで短歌を始めてみたものの、なんだかワケのわからない世界で、つまらないものや理解できなものばかりが賞賛されていていて、そんなふうにかんじるぼくの感性ってヘンなのかとおもっていたところ、ネット短歌の人気が盛り下がっているというのを知って、やっぱりぼくと同じように、短歌に興味をもって始めてみたものの、つまらなくってやめていく人って多いんだなとおもい、現在の短歌の大半をつまらないと感じるぼくの感性はべつにおかしいわけではないんだなとおもって納得し、喜んだ。というだけのことです。
さて、酒井さんおすすめの黒田英雄さんのブログについて書きます。ちなみに先の文章は黒田英雄さんのブログも知ったうえで書いた文章です。といっても以前に少し覗いたことがあるだけなので、内容はよくは知りませんでした。覗いただけですぐに読まなくなった理由は、つまらない歌ばかり選んであったからです。今回また行ってみましたが、やはり印象は同じでした。
もちろん黒田さんの選んだものが秀歌だと思えるのなら、黒田さんに「優れた批評眼」があるとおもえるのなら、酒井さんはそれを読めばいいのでしょう。「歌葉賞」の受賞作家なども、それがおもしろいとおもえるのなら、それを読めばいいのと同じです。
でも、いずれもつまらないと感じるのがぼくの本音ですから、そこは何といわれてもしかたがないのです。
試みに黒田さんは中井英夫のような仕事はしていないとぼくが考える理由を例をあげて示してみます。
中井英夫は当時の短歌には「詩」がないと批判し、「詩」としての短歌をピックアップしていきました。去年読んでこのブログにも書いたパスの『弓と竪琴』によると「詩」とは、
……人間は理性ではどうにも処理できない恐怖すべきもの、理解も共感も想像もできない絶対的他者の存在を感じると、その畏怖すべき存在に聖性をかんじる。その「おぞましき神聖なるもの(ヌミノーゼ)」に対峙したとき、人間は儀式的な行為によってそれを鎮めようとする。そのときの呪詛、あるいは祈りのとき、言葉は意味よりもリズムやイメージの多重性が重視され呪術性をおびる。それが詩であり、そのリズムが韻律である。
と、ぼくなりに要約させてもらうと、そんなようなことを書いていました。そここそが「詩」の生まれる源泉であると。
おそらく中井英夫もこれと同じか似たような考えをもっていたはずで、そのため「詩」にこだわる中井英夫がピックアップする作者の作品には「おぞましき聖性に対峙した場所から生まれてくる詩の感覚」があります。例をあげてみます。
しかもなほ雨、ひとらみな十字架をうつしづかなる釘音きけり 塚本邦雄
死火山の上おそひくる夜を臨み不在の椅子のうつくしさ知れり 浜田 到
狼少年の森恋ふ白歯のつめたさを薄明にめざめたる時われも持つ 春日井建
死神はてのひらに赤き球置きて人間と人間のあひを走れり 葛原妙子
これと比べる例として、酒井さん推薦の黒田さんのブログから2007年10月18日の「私の名歌鑑賞その3」でピックアップされている作品のうち最初の4首をあげます。(一番最近の選歌を選んだのであり、他意はありません)
をのこにつく乳首の理由(わけ)を教へしはかの夜のきみの唇の円 黒田英雄
かえりみちひとりラーメン食ふことをたのしみとして君とわかれき 大松達知
噴水のざわめきにこころみだされて愛を告白したり この場所 大松達知
はじめてのくちづけをへてあふぐときどこかでいつかみた空がある 吉岡生夫
これらは別物であるということはもう言っても理解されないところまで来てるんでしょうかね。
黒田さんが選んだ短歌には「おぞましき聖性に対峙した場所から生まれてくる詩の感覚」はありません。これは俗的なテーマでの話し言葉を定型にあてはめただけのものであり、パス〜中井がいうような意味での「詩」ではありません。
つまり中井英夫が否定したタイプの短歌が、黒田さんがピックアップしているタイプの短歌であり、この二人の短歌にたいする価値観は180度違います。
個人的には中井英夫の「批評眼」と黒田さんの「批評眼」をいっしょくたにしてしまうのは、中井英夫の「批評眼」も黒田さんの「批評眼」も理解できてない人の言うことという気がしてしまうのですが、どうでしょう。
もちろん黒田さんが選ぶような短歌が好きだという人はいるのでしょう。中井英夫の活躍中も中井の否定派はいました。いろんな意見や価値観の人がいるのは当然です。だから、そういう人は黒田さんのブログを愛読すればいいのです。
でも、ぼくは黒田さんが選ぶような作品はつまらないと感じるわけで、それはつまらないと感じるぼくの感性のほうがヘンなんじゃないかといわれれば、もちろんそうなのかもしれませんが、黒田さんのブログがあってもネット短歌の人気が減っているのなら、ぼくと同じように感じている人もけっこう多いということなんじゃないかというのが先の文章の内容でもあります。
さて、ではパス〜中井がいうような意味での詩としての短歌は現在では書かれていないのかというと、やはり書かれてはいるとおもうのです。
現在このブログで続けている題詠100題2007の観賞コーナーから、最初の二つの題でぼくがピックアップした野樹かずみさんとけこさんの作品を例にあげてみます。
両目から砂がこぼれる魂が崩れ始めているかもしれない 野樹かずみ
あの晴れた朝に廃墟となる街に少女のあなたがいたのだという 野樹かずみ
白く残る月の気配に怯えながら無音の街を歩き始める けこ
火星まで晴れた夜空は無防備な正しさを叫ぶ 凍えてしまう けこ
ぼくはこれらの作品には「おぞましき聖性に対峙した場所から生まれてくる詩の感覚」をかんじるのです。
しかし、実感でいえば、こういった「詩」を感じる作品は、膨大な量を読んだなかで、ほんのすこし見つかるだけというかんじです。まあ、ふつうの読者なら、そこに到達するまえに失望して読むのをやめるんじゃないかと、実感としておもいます。
そして、もし短歌が「定型詩」だというのなら、もっと(中井英夫と同じような意味での)「詩」にこだわって、優れた「詩」である短歌をピックアップするべきじゃないかというのは、もう理解もされない意見なんでしょうかね。
いずれにしろ、ネット短歌の人口が一時期増え、そしていま減っているのであれば、それはネットをとおして短歌に興味をもった人たちが短歌を始めてみたものの、短歌の世界をぐるりと見回してみて、失望したから去っていったということでしょう。
もちろん、なかにはおもしろいと感じて続けている人もいるでしょう。そういう人はとりあえず関係ありません。
でも、現状をみれば、やはり失望して去っていってる人がかなりいると見るべきなんじゃないでしょうか? そしてぼくは、数少ないおもしろい出会いがあったので、それでも細々とネット短歌を続けてはいますが、現在の短歌の世界に失望して去っていった人に、かなり共感するのです。
なぜなら、現在書かれている大半の短歌は「詩」が欠けているというか、目指してすらいないようにみえるからです。
(もちろん、短歌を去っていった人がみなぼくと同じ理由で失望したとはいいませんが)
【短歌、詩などの最新記事】
じつは枡野さんというのは初めて聞く名前だったのですが、トラックバックがついていたので読んでみましたら、、、。短歌はよくわかりませんがこの人が映画評やってるのには驚きました。自分でもそれと気づかずに提灯記事を書いてしまうタイプの軽い人ですね。この人を見てると短歌というのは情動しやすい単細胞に向いたジャンルのように思えてきます。
以前書いていただいたコメントにも返事書けないでいてすいません。
まあ、ぼくも枡野さんの短歌を読んだときは嫌悪感をかんじましましたので、枡野さんもぼくの文章を読むと怒りたくなるのでしょう。お互いさまといえばお互いさまです。
この手の人間にはまとも相手しようとすると疲れるだけなので無視することにしています。
この手の雑文家というのは、こういったアクの強い人ほど、けっこううまく世渡りしていくもんなのですが、まあ内容は推してしるべしなので映画評は読んだことありません。
また、すべての歌人がこういったタイプの人間とはかぎらないと、ぼくとしては信じたいものです。
歌を選んでくれてありがとうございます。
トラックバックしてある、ますのさんのやつ、読みました。スゴイですね。あんな人だったんですね。人間性見たり!ってかんじでした。
それで、趣味で短歌をやってみようかなっておもってたんですけど、いま、やめようかなっておもってます。
あんな人が有名歌人としている世界に近づきたくなんですよね。そうおもいました。
ネットの世界では、直に顔をさらしていないからといって、
辛辣な事をさらっと書けてしまったりしますが、
会ったこともない人に【悪口】を書き込まれると、
それが固有のブログであったとしても、
気分が悪いものだと思います。
シロウトも有名人も、そこは平等ではないでしょうか。
無視する、というならば、
その方に関する内容をここに挙げなくとも、
いいのではないでしょうか。
あと、
枡野さんの言動にも何ら病的な固執を感じます。
ここの件だけでなく。
もう短歌とはすっぱり縁を切るつもりでしたが、真意が伝わってないままやめるのも気分がわるいので、もう一度説明させていただきます。
意見については、みなさんいろいろな意見がおありでしょう。そして自分の意見が正しいと強く信じているかたは、他人の意見がまったく間違っているようにみえるでしょうし、ときには気にくわない、頭にくる意見であることもあるでしょう。
どの意見が正しいかなんていいません。わたしはべつにarukaさんの意見が正しいといってるつもりもありません。
でも、どんな理由があっても、直接相手にむかって「ばーか! ばーか!」というのは、有名人であろうがシロウトであろが、どんな人間であっても書き込んではいけない言葉なんです。
それはプロが書くとメリットがないからではありません。(枡野浩一さん、汚い自己弁護はしないでください。)人間として、直接他人に向かっては書き込んではいけない言葉なんです。
作品中に使うとか、独り言で相手なしに書くぶんには、わたしは否定はしません。
岡本さん。arukaさんが使った「ザマーミロ」という言葉をとりあげて、枡野さんの「ばーか! ばーか!」は同じ土俵に上がっただけだと書きましたが、とんでないです。arukaさんの「ザマーミロ」は特定の個人に向けられた言葉ではありません。
例えば学校の裏サイトで「学校のバカヤロー」とか書くのは許されることです。でも、特定の生徒を名指しして「ばーか! ばーか!」と書き込むのはしちゃいけないことなんです。その大きな違いが理解できないのですか。
表現として悪い言葉をつかうのと、特定の個人にむけて中傷を意図した言葉を投げつけるのとではまったく意味が違うのです。そして個人に向けての「ばーか!」は中傷を意図した言葉以外の何物でもありません。
それに、枡野さんはこのarukaさんのブログのコメント欄にも、ずいぶん長いarukaさんを否定する内容のコメントを、一方的に何度も何度も書き込みましたね。世間一般の常識ではこのような行為を「嫌がらせ」というんです。
これも、どちらの意見が正しいかの問題ではありません。たとえどちらの意見が正しかろうと、このような「嫌がらせ」はしちゃいけない行為なんです。
でも、たいていの場合、そんな「嫌がらせ」をしたり「ばーか! ばーか!」などと書くのは、どうしようもないシロウトが、有名人をばかにしてウサばらしをするために、匿名で書き込むものなので、取り締まる方法もなくて野ばなしにしておくしかないのものでしょう。
彼らが匿名で書き込むのは、ふつう実名でそんなことを書いたら社会的信用を失い、社会活動に支障をきたすからです。それが常識だとおもってました。
というより、短歌以外の世界では、いまでも常識なんだと思っています。
しかし、そんな「嫌がらせ」をするような人間が、有名歌人としてふつうに活動しているなんて、短歌ってどんな業界なんだということを、わたしはいっているのです。
こんな他人に向かって「ばーか! ばーか!」という書き込みを平気でする、最低限のマナーもない人間が、社会的信用を失うこともなく、ゆるされているのだとしたら、その業界に自浄能力がない証拠じゃないですか。
自浄能力がなければ「嫌がらせ」が蔓延します。してもいいことになってしまいます。
まえに谷内さんはボクシングの亀田兄弟のことを例に出されました。亀田兄弟がいるからってボクシングをやめるのかということでした。
わたしは自分がボクシングをするなんて考えたこともなかったのでコメントしませんでしたが、ゆっくり考えてみれば、わたしは亀田兄弟の行った反則行為が、なんの罰もうけずに許されてしまったとしたら、ボクシングをやめるとおもいます。
もしそんな反則が自分にたいしてふるわれていたら、そして長い時間かけて努力してきた結果、反則行為によってもし敗れてしまったら、わたしはばかばかしくなって練習をする気を失うとおもいます。
だからこそ、亀田兄弟の反則を認めなかったボクシング界の人々を支持します。
他人に向かって「ばーか! ばーか!」と書き込んだり「嫌がらせ」をするのは反則行為なんです。枡野さんの行為は許されてはいけません。
しかし、おそらく短歌界は枡野さんを許すのでしょう。ボクシング界のような自浄能力はないのでしょう。
だとすれば、わたしは、枡野さんの行為を許す短歌界を許しません。
ですから、短歌を見限らせていただきます。
ながながとすいませんでした。
このような枡野浩一さんの行為におおいに幻滅し、反感をもっている方は多いと思います。
常識的にかんがえて、他人を「ばーか! ばーか!」と中傷したり、他人のブログに長々とした否定的なコメントを何度も書き込むのは、常識ある大人の行動とはいえません。枡野浩一さんの行動は常軌を逸しています。
このようなことを続けることは短歌全体のイメージ・ダウンにつながります。
もういい加減やめて、arukaさんに謝罪したらいかがでしょうか。
それからarukaさん。ブログの操作で、枡野浩一さんのコメントの受け付けを拒否することを考えたらいかがでしょうか。水野彗星さんのような方の書き込みが枡野浩一さんの暴言の対象にされるのは可哀想です。
ここまで枡野浩一さんの行動は常軌を逸している現在、必要な処置かとおもいますが。
島田京さんへ。無記名さんへ。
たしかにそうですね。ここに書き込んでくれた方への迷惑も考えるべきでした。
枡野浩一さんのコメントの受付を拒否する操作をさせてもらいます。
黒田英雄さんへ。
ありがとうございます。
今回黒田さんのブログへ行ってみて、どうも短歌の好みはぼくとは違うようなのですが、それ以外の部分はたいへんおもしろいことがわかりました。
もっとも、ぼくは松竹大船の映画監督は究極的には小津さえいればいいとおもってしまうほうなんで、映画の好みも違いそうですが。
こんにちは。mです。
短歌を辞めるという意志は変わらないようですね。
それについては、残念に思います。
*
ところで、水野さん。先の水野さんの発言にある
>例えば学校の裏サイトで「学校のバカヤロー」とか書くのは許されることです。
について、私の考えを書かせてください。
水野さんは、
>直接他人に向かっては書き込んではいけない言葉なんです。
>作品中に使うとか、独り言で相手なしに書くぶんには、わたしは否定はしません。
>例えば学校の裏サイトで「学校のバカヤロー」とか書くのは許される
と書かれていますね。
でもそれは、本当に許されるのでしょうか。
確かに、学校の裏サイトで「学校のバカヤロー」と書いたとき。
それは、特定の人を指名しているものだから
直接は誰も傷つけない……ように見えるでしょう。
でも例えば。その裏サイトを、
学校の先生がみたらどう思うでしょう。
しかもその先生が、学校のもつ問題点や今後の可能性について、
日々本気で悩み・考え・行動している先生だったとしたら。
おそらく、その先生は「学校のバカヤロー」という言葉に
傷ついたり、また悩んだりするでしょう。
人は、自分が大切にしている世界を馬鹿にされたとき、
自分自身を馬鹿にされたのと同じように
傷つくものだと思います。
しかも、その世界への思い入れが強い人ほど、
本気でその世界を大切にしている人ほど、
強く傷つくものじゃないでしょうか。
「学校のバカヤロー」って言葉では誰も傷つかない、
と思えるのは、
学校に対して思い入れを持たない人だと、思いませんか。
直接じゃなくたって、
間接的にだって、
人は傷つくと思うんです。
*
なぜ私が、「学校のバカヤロー」などの
直接他人に向かっていない言葉も
人を傷つける、と説明しているかというと。
arukaさんの書いた「ネットの盛り下がりを喜ぶ」という言葉は、
ネット短歌に思い入れのない人にとって
ピンと来ない、なんとも思わない言葉だろうけど、
でもそれは、ネット短歌に思い入れがある人ほど
不快に思い、傷つく言葉なんだ
と思ったからです。
だからこそ、
ネット短歌の世界を盛り上げようと
(想像もつかない)努力している人の存在を知る枡野さんが、
今回の行動に出たんだと思います。
*
私には、水野さんも枡野さんも、
人を傷つける言葉を発した人に対して怒っている点では
同じだと思っています。同じ、他者へのやさしさじゃん、と。
(どんな方法で、言葉で、怒りを表現しているかは、
お二人それぞれ違うと思いますが)
*
最後にひとつ。
短歌という世界にある自浄作用についてはわかりませんが、
短歌を書くことには自浄作用があると思いますよ。
*
とりあえず、この件に関して
私が水野さんに伝えたいのは以上です。
では。
まだ何もしてゐないのに時代といふ牙が優しくわれ噛み殺す/荻原裕幸
mさんの理屈でいうと、傷つくでしょうね。俺たちがこんなに努力していい時代にしようとしているのに、その牙が若者を噛み殺すなんて・・・って。こんな短歌を書いた荻原裕幸さんを非難しなければいけませんね。でも、そんなこと言ってたら何も書けなくなりますね。
状況にたいする意見としてバカヤローという表現を使うのと、個人に向けてバカと書き込むのとでは、やはり大きな違いがあるでしょう。
学校の裏サイトに「学校のバカヤロー」とたくさん書き込まれれば、それは現在の学校に不満をもっている生徒が多いということで、本当にその学校を良くしようと努力している先生がたにとっては、努力の方向が間違っていたのかと反省する機会にもなるでしょう。が、ある特定の生徒に向けて「バカ」「死ね」という言葉がたくさん書き込まれれば、それははっきりイジメです。深刻度は段違いです。これを一緒にしてはいけません。
水野さんが言っておられるのはそういったネット社会のマナーの問題ではないですか。そして、その点では水野さんの意見は正しいとおもいます。
arukaさんのもとの文章の内容は現在のネット短歌のありかたにたいする批判でしょう。そして、現在のネット短歌のありかたを愛し、これでいいとおもっている人にとっては、それは頭にくる意見かもしれません。
でも、いまのネット短歌の状況は良くないと思っている人もいるはずで、その人にも批判する自由があります。もちろん、いまのネット短歌を担っている個人に向けて誹謗中傷するような批判はいけませんが、自分のブログに自分の表現で書くぐらい許される範囲でしょう。
自分が愛しているものが批判されると頭にくる人もいるでしょうが、世の中には自分とは違う価値観の人もいるのは当然じゃないでしょうか。「いまはいい時代だ」と言う人と「時代に噛み殺される」という人が両方いてもいいじゃないですか。
そしてarukaさんの意見を批判したいなら、ネット社会のマナーの範囲でするべきでしょう。
どうもarukaさんの文章はどこかにトラックバックしたものでもなさそうなんで、それなら、自分のブログにarukaさんと反する自分の意見を書き、それをどこにもトラックバックしない。という程度が、マナーに則った批判のしかただとおもいます。トラックバックするなら、相手に失礼でない表現を意識して書くべきです。
よくは知りませんが、いまのネット短歌が盛り下がっているのなら、その理由は、自分たちと違った価値観をみとめようとしない短歌の世界の偏狭さと、最低限のマナーさえまもれない人たちの存在が大きな理由のような気がしてしまいました。
水野さんにはやめないで続けてほしいと思いますが、おそらく水野さんのように意志表示をしないまま、水野さんと同じ理由で短歌に失望して去っていく人って、たくさんいるんじゃないでしょうか。
はじめまして
Rさんのコメントに返事をさせていただくと
>当時の日本をいい時代にしようとして努力していた人は
傷つく人もいる、と思います。
でも私は、その傷つく人もいるだろう、
というところから、Rさんが書くような
>こんな短歌を書いた荻原裕幸さんを非難しなければいけません
という流れや結論を導きません。
そして、
>でも、そんなこと言ってたら何も書けなくなりますね。
とは思いません。そこで書く/書かないは
本人の自由だと思っています。
ただ、私が伝えたいのは、
「学校のバカヤロー」という言葉なら
誰も傷つく人がいないとは思って欲しくない、
ということだけです。
その点で、水野さんと私の意見が
相違するかもしれませんが、
かといって私は水野さんを否定しません。
私は、
人の発する言葉は、
ときに本人の意図した以上のことを伝え、
誰かを傷つける可能性がある、
ということを確かめただけです。
もちろん、Rさんのおっしゃる、
>深刻度は段違いです。これを一緒にしてはいけません。
という点についても、
まったく意見の相違はありませんよ。