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電脳メディア批判 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-10-25 引用の病。 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

前回に引き続き、id:fromdusktildawn氏が運営しているコンセプトSNSフリーダムSNS(以下、FSNS)*1」の回想を語る。わずかな期間しか参加できなかったが、非常に学ぶことが多かった。

さて、自分はといえば、前のエントリで書いた通り、そのコミュニティ“追い出された人間である。

「分裂勘違い劇場」で「ネットの炎上は人類進化の必然で、健やかなる新時代を拓く鍵かもしれない」などという記事に釣られて、じゃあこれぐらい書いちゃってもいいかなーとラディカルな発言をしたばっかりに、アカウントを停止させられてしまった。正真正銘の馬鹿である。

ただ、念のため書いておくと、アカウント停止に関しては恨みも怒りもない。自分に非があったし、ああ、これが「勘違い君」なのかとわかった。そもそも残念なことに、そんな仕打ちを受けて凹むほどFSNSを重視していなかった。数あるネットの楽しみのひとつに過ぎなかった。

とはいえ、アカウント停止も含めて、FSNSで体験したことは有意義だったことは確かだ。個人的にも面白かった。そこで、狭いコミュニティから外に出て、あらためて感じたことを書きとめておきたい。大仰にメディアの在り方などとはいわないが、ネットコミュニケーションに関して、非常に興味深い見解がそこから導き出せるのではないかと思っている。


婉曲な批判の巧みさ、狡猾さ

アカウント停止する直前に、先方からフレンドリンクを斬ってきた方がいた。id:taishibrian氏である。

理由は、「悪意と理想論は、経験から運気を下げるので斬らせていただきます」のようなコメントだったかと記憶している。自分エントリに、悪意と理想論を感じて去って行ったわけである。「運気を下げる」という言葉にどこか宗教的な臭いを感じたが、そういうひともいるだろう。風水みたいなものだ。

余談だが、その後、いくつかFSNSに関連する記事を読んだ。「肉芽観察記」を書かれているid:POGE氏の次の発言は、捨て台詞とは思えないリアルさを感じた。思わず噴いた。

http://d.hatena.ne.jp/POGE/20090705

どこがフリーダムだ。
名前に偽りありだぜ。
本当にくだらないつまらない生き物だな。
フリーダムSNSの内実はfromdusktildawnの信者しかいない、新興宗教だな。
凡俗にはお似合いだぜ。

ストレート感想で小気味よい。新興宗教というのは、FSNSのある一部の本質を突いている気がする。

いま利用規約を確認して、あれ?と思ったのだが、以前には「本SNS内の総幸福量を下げる恐れがある」場合にはアカウント停止または削除するという記述もみられたと覚えている(前回のブログにも引用した)。さすがにこれは宗教臭が漂うので改正されたのだろう。宗教的な方向に突き進むことについて、自制はあるようだ。

宗教に関してはともかく、自分は善人ではない、と認識している。だから当然悪意もある。悪意もあるが、生きるために必死でもある。だから悪意や恨みを基盤として、この現実をサバイブしていくための理想論を構築する。嘘っぽくみえたとしても理想論重要である。その理想論テツガクもしくはOSとして、実際に生きていこうと考えている。以上は自分の方法論であり、他人に強制するつもりはない。

しかし、「みんな楽しく仲良くね♪」という誤魔化しを理想とするのではなく、たとえ悪意であったとしても、きちんとストレート感情論もぶつけられるところに健全さがあるのではないか。そういう意味で「分裂勘違い劇場」の誹謗中傷を擁護するエントリも読んだのだが、そこに書かれていた嘘(理想論)と実際のSNS運営の寛容さのなさの乖離にはがっかりした。もちろんSNS内で、もっと発言に自由を!などと主張するのは、非常に子供じみたオトナの考えではないかもしれないけれども。

閑話休題id:taishibrian氏だが、彼からフレンドリンクを斬ったのであれば、通常それきり関与しなくてもいいはずだ。こいつの文章は読みたくもないと思ったから自分とのリンクを斬ったのであって、不快エントリを読むためにわざわざ訪問する必要はない。ところが、その後も彼から(執拗に)コメントをいただいた。腹を立てさせてしまったのかもしれない。あるいは黙ってはいられなかったのだろう。

このときいただいたコメントが一風変わっていたので、引用してみたい。

■09月02日
いろいろ辛いことがあるのかもしれませんが、がんばってください。
これは私からの、せめてもの餞別です。
あなたと対話しない理由が書いてあります。

(『ラッキーをつかみ取る技術 (光文社新書)』の引用

ラッキーをつかみ取る技術 (光文社新書)

ラッキーをつかみ取る技術 (光文社新書)


■09月04日
圧力なんかまったく意図してません。

http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060329/1143595622

id:fromdusktildawn氏のエントリからの引用

最初のコメントは、ラディカルな発言に批判などの対話を拒否して、フレンドリンクを斬るという行動に出たid:taishibrian氏を批判したことに対する返答である。「いろいろ辛いことがあるのかもしれませんが」と気遣っていただいて大変ありがたいのだが、自分には辛いことは特にないので、もしかすると皮肉と感じた。彼にはそういう、ねちねちとした間接的なコメントが多いようだ。2つ目に関しては、ラディカルな発言をした自分に対して、コミュニティの古株であるひとたちから「お前なんでここにいるんだよ、出て行けよ」のようなプレッシャーを感じて書いたことについての返答である。

まず、これらを読んで感じた率直な感想がある。「卑怯だ」ということだ。

9月4日の「分裂勘違い劇場」のエントリ引用に対しては、

「この仕事のできない新入社員のような勘違いしたやつががおまえだよ、わかったか、未熟ものめ。だからくだらないやつとは対話しないんだよ」

本心では、彼はそう述べたかったのではないだろうか。にも関わらず婉曲的に引用でみずからの主張を曖昧にしている。この遠まわしさが、侮辱的であるともいえる。しかし、このときあらためて2つのことを理解した。次のような視点である。

第一に、誹謗中傷などの発言を禁止するFSNSの利用規約が、彼の言葉を縛っているということ。迂闊に上記のようなストレートな感情を述べることができない。もし述べたとすれば他者への誹謗中傷となり、不快な発言としてアカウント停止や削除の制裁が加えられることになる。だから狡猾にも書籍や他者の発言を引用することで危険性を回避する。非常にうまい。狡賢いこと、この上ない。

第二に、彼は「自論」を持たないということ。感情はあるが、端的に考えたことを表現する文章技術がないのではないか。あるいは「くだらない発言にきちんとコメントしている暇はない」と傲慢にも自分を見下している。だからインスタント引用によって誤魔化したわけだ。危険性の回避にもつながるが、もし責任が問われたときに「自分が言ったんじゃないもん」と責任を逃れる理由にもなる。

なるほどなあ、と思った。これがコミュニティ処世術なのだ。

しかし、これが弊害になる場合もあるだろう。たとえば、第一については、制裁があり、見せしめのような存在があるからこそ、コミュニティ内において、おかしいな?と思う人物が出たとしても発言する勇気を奪われる。その不自由さから閉塞感が生まれる。社会主義国のように笑顔を貼り付けて、幸福なことばかりを引きつった笑いで語るようになる。あるいは、行き場のない愚痴フラストレーションを狭い仲間との不毛コミュニケーション(「まんこ」発言とか。前のエントリを参照)で紛らせようとする。

第二については、もうすこし幅広くネットという社会における引用の功罪について考えさせられた。引用自己の主張を代替させることは非常に容易い。容易いがゆえに乱用しがちなのだが、引用は自ら考える思考力を奪うことにもなるのではないか。

そのことに焦点を当てて、もうすこし考えてみたい。


思考を停止させる引用の病

以下は、FSNSで書いたことであり、いずれ草稿を再度このブログに掲載していくつもりである。したがって後のエントリと重複するところがあるかもしれないが、内容を吟味しつつ膨らませて書いていきたい。

総務庁データでみると、増加傾向になっています」
「この本では、次のように書かれています」
引用することがある。

あるいは東京大学の○○教授はこう述べています」
評論家によれば、不況も峠を越したようです」
という引用もある。こちらは権威主義的だ。

コンサルタントプランナーに多いかもしれないが、こうしたデータや言及の引用は説得力がある。ハロー効果(光輪のことをハローということから後光のこと)という言葉もあるように、実際に語られていることよりも引用者の組織力や権威などによって、一種の洗脳的・暴力的な説得が可能になる。

多くのマーケティング施策でも、利用者の声を積極的に掲載するのは、製品サービスの機能以上に利用者側からの説得をするためにある。制作側の倫理に関わることだが、場合によっては、虚偽のコメントでっち上げることもあるだろう。フライヤー雑誌の体験記事なども同様のものだ。やりすぎると陳腐になる。

やり方によっては効果な施策だが、その実、引用者は何も語っていない。言葉まやかしの影に隠れて、言及している内容の責任を回避している。誤魔化しだ。不誠実である。「トラの威を借るキツネといってもいいだろう。このレトリックの背後にあるねらいは、内実以上によくみせようとするみせかけの工夫と問題が生じたときの責任回避である。

ブログにおいても引用は多い。引用文を使うことによって、とりあえずスペースは埋めることができるし、なんとなくニュースの記事や著名ブロガーの内容を挟み込んで批判など加えたりすると、自意識の高揚もある。おお、おれってもしかして凄いこと言ってる!?のような。そうして見栄えとしても体裁は繕うことができる。

実際のところ、アルファブロガー死語?)といわれるひとにも、新聞記事やどこかからの引用を「スクラップ」してブログにしているひとも多い。このスクラップは、デジタル的なインデックスとしては有用である。とりあえずコピペしておけば、後で検索機能を使って必要な情報検索できるので使い勝手はよい。しかし、スクラップスクラップであって、ブログを書くこととは違う。そのことを混同しているブロガーもたまにいる。

もちろん、われわれの思考は、まったくオリジナルなものはない。自論のように語っていたとしても必ず本で読んだこと、どこかで仕入れた情報の影響を受けている。引用の出典を示すことは潔いともいえる。

しかし、どんなに説得力があったとしても「自分言葉」で語ること、面倒だったとしても自分の思考を言葉にすることが大切に思う。ほんとうに説得力があるのは「自分のからだ」から発した言葉であって、借り物の言葉で他者は動かせないのではないか。

ダメな新人にも散見することかもしれない。まして無能なコンサルタントなどに多いのが、この

引用の病”

にかかっているひとたちだ。

引用することは容易い。しかし容易いがゆえに、思考の拝借(アウトソーシング)ばかりをしているビジネスマンの実力は、たかが知れている。

ときには引用侮辱にさえ捉えられることもある。特にビジネスではなく、ひとにアドバイスするときは、引用はほどほどにしたほうがいい。知恵袋としてトリビアを披露するのもよいが、情報ネットで簡単に検索できる昨今、重要なのは引用ではなく、みずから考えた自分言葉であると思う。

と、「対話をしたくない」と応えたにも関わらず短いコメントをいただいたid:taishibrian氏の発言内容から、ネットを含めて社会全般にも言えるかもしれない訓戒のようなものを考えたのであった。