2009-10-08 SNSという帝国と不自由な秩序。

2ヶ月ほど更新がないと思っていたが、9月の末になってようやく「分裂勘違い君劇場(id:fromdusktildawn)」が更新された。
久々のエントリは、中学生の教科書のようであり、さらに10月に入ってからの記事に至っては、巷に氾濫する中堅出版社から発行されたビジネス書の抜粋のような印象だ。そして相変わらずの長文である。が、述べていることはさほど大層なことではない。要するに、労働環境は最悪だが頑張んなさい、ということだ(まとめすぎか)。
ところで、id:fromdusktildawn氏は、「フリーダムSNS」というコンセプトSNSを運営している。オープンソースのSNSシステムOPEN PNEを使ったSNSで、ブログの左上部にさりげなくリンクが掲載されているのだが、かなりの規模の参加者が登録している。
フリーダムというだけに、フリーランスの参加者が多く、業界団体を作ったり、新しいビジネスを模索したり、各方面で活躍されている方もしくはその予備軍が大半のようだ。一方で、料理や音楽など趣味の世界の自由を満喫しているひとたちの文章もあり、別の側面から自由であることの心地よさを感じる。癒される。
個人を特定できるような、誹謗中傷ぎりぎりの批判を書いたからだ。
あらためて反省するのは、自分の文章の拙さである。感情的ではなかったが、個人攻撃と解釈される文章を書いた非については自省している。幼稚だが、どこまでぎりぎりの表現が通用するか、試してみたいという実験的な意図もあった。もちろんそうした試みは他者の神経を逆撫でするものであり、運営管理者はもちろん周囲の嫌悪感を募らせるのは当然であろう。放り出されても文句は言えない。というより文句の言いようもなく、ある日とつぜん、警告もなくエンターできなくなっていた。
利用規約を読むと次のように書かれている。
・禁止事項に該当する恐れのある行為をしたか、もしくは今後する可能性が高いと管理人が判断したユーザのアカウントは、停止もしくは削除されることがあります。
・ユーザの方々の快適な利用、もしくは、このSNSの円滑な運営のために必要だと管理人が判断した場合、任意のユーザのアカウントを停止もしくは削除することがあります。
至極納得できる。そんなわけで「斬られた」わけだ。
しかし、失望も怒りもなかった。あらら、入れなくなっちゃったか、ぐらいの感じである。負け惜しみとか強がりとか、そういう意図はまったくない。実感として、書きすぎたから仕方ないなあ、と自分にも納得できる措置だった。個人的にも、それほどのめり込んでいたSNSではなかった。積極的に日記を書いていたわけでもなく、読んでいたわけでもない。人脈を拡げようと必死にフレンドリンクを増やそうという努力もしていなかった。情報収集やネットの活動におけるひとつの場でしかなかったのである。
また、ストレートな印象を書くのであれば、うっすらと漂う閉塞感と陰湿な雰囲気を感じていた。あくまでも個人的な印象である。他人がどう思っていたかは知らない。居心地よくコミュニケーションを重ねていたひともいただろう。このような疑問はどんなWebのサービスにもあるもので、何か変だけど・・・・・・まあいっか、ぐらいの感覚でスルーするのがちょうどいい。
閉ざされたサークルであるコミュニティは、快適であると同時に、コミュニティ内でしか通用しない内輪うけのやりとりや交流も生む。フレンドリンクやアクセス数の多い人間が優位になり、彼らにとっての自由はあっても、他のほそぼそと活動している人間を不快にさせることもある。
健全さが何であるかは個々人の感受性による。誰かにとっての不快が他者にとっては不快ではないかもしれない。大きな声を出せる権威を持った人間は、自分の声を正当化する暴力的な狡猾さにも長けている。それが全体の快となることもある。快は個人だけでなく全体で形成されるものだ。
だが、自分のなかに快ではない感情を認めたとき、疑問を感じて、あえて「何かが変だ」ということを率直に述べてみたくなった。オトナであれば黙っていればよいことだろう。目を瞑っているひともいたようだ。ぼくの乱暴な書き込みに同意しつつ、気をつけるように注意を促してくれた親切な方もいた。
いま、自分はフリーダムというコミュニティから放り出されて、外部の空気のなかで深呼吸している。だから穴を掘って王様の耳はロバの耳と叫ぶのではなく、白日のもとに、フリーダムSNSでおかしいと感じたことを述べてみたい。
ちなみに先月まで自分がそのSNSに存在していた過去のことであり、いまどうなっているかは知らない。自分がおかしいと感じた発言は削除されてしまったかもしれないし、また内部で改善されたかもしれないことを付け加えておく。
捩れたヒューマンコミュニケーション
フリーダムSNSには、コメント欄に「まんこ」という書き込みがあるのだ。
びっくりした。これは何だろうと思った。中学生のやり取りではない。たぶん30歳を過ぎたいい大人たちが、コメント欄で「まんこ」を言い合っている。「俺は性欲がありあまっている」のようなことを豪語するゲーム業界のコンサルタントもいた。
いまにして思えば、SNSの利用規約の以下に反するのではないだろうか。
・公序良俗に反する書き込み
しかし、野放し状態なのである。というのも、この三文字言葉は真面目な議論を回避するおふざけの記号として使われている。「まんこ(=これ以上、コメントしたくありませんね)」「まんこ(=真面目にコメントするのが馬鹿らしいです)」というぐらいな意味のようなのだ。
とはいえ、いい年齢の大人がまんこはないだろう。そうして、おまえのかーちゃんでーべーそーのような、くだらない中学生的なコメントは赦されるのだが、個人の批判は赦されないのである。
もちろん快・不快の感受性には個人差がある。中学生的な三文字言葉を連呼することでうっとりと「総幸福量」が増すような人間もいるだろう。しかし、塗りたくられた不快なラクガキを読むようで、不快になる人間も(わずかではあるが自分のように)いる。
哲学者の中島義道氏は駅のプラットホームやエスカレーターなどの音声ガイドを騒音として嫌っているようだ。いくつかの書物で書かれているが、以下の著作にも騒音に対する抗議が述べられている。多くの人にとっては空気のように聞き流しているガイド音声も、中島義道氏にとっては不快な音なのである。
「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)
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快・不快は一元的なモノサシで測ることができない。「幸福量」も同様だ。一般化された幸福が上がったとしても、特定の人間が不快を感じることによって不幸になることもある。
ところで、なぜ、このような三文字言葉のコメントが生まれるのか。疑問に思って考えてみたのだが、次の3つが要因として考えられるのではないか。
いずれにしても何か陰湿なものを感じる。それが常連にとっては、軽いおふざけであったとしても。
もちろんSNSには息抜きもあるだろう。現実生活ではフリーランスとしてさまざまな困難に立ち向かっているのだから、ちょっとおふざけに興じてリラックスしたい意図もわからなくはない。ふざけた言葉を使っていたとしても、仕事は完璧にきちんとこなすのであれば問題はない。
が、やはり傍観者(SNSの新参者)としては、率直なところ首を傾げてしまう。まんこはないだろう、と。
きれいごとと独裁、自生的な秩序
さらに欺瞞を感じたのは、三文字言葉を語ったり「サラリーマンは氏ね」などのような発言をしている人間が、就職志望者にきれいな夢や理想を語っていることだ。
息抜きはいい。ただ、やはり自分が信念として感じるのは、仕事は人間性に根ざしているものであるということだ。徳が重要になる(自分にはないけど)。ちょっと辛いからといって三文字言葉で自分の鬱屈をはらす人間が、きれいな夢や理想を語ったところで、あんたそりゃ違うんじゃないか、他者を欺いていないか、と疑問を感じた。
であれば、いっそのこと、「仕事はまんこだ」「不快な上司にぶっかけろ」のようなヘヴィメタル(というかパンク?)のようなアグレッシブなことを発言したほうが、まだ気持ちいい。こそこそとSNSでは自分の鬱屈を汚い言葉ではらしていながら、表舞台ではきれいごとを語る二面的な姿勢が気持ち悪い。
などという発言が誹謗中傷になっていくので多少控えるが、そもそも運営管理者のid:fromdusktildawn氏ご自身が、「ネットの炎上は人類進化の必然で、健やかなる新時代を拓く鍵かもしれない」などということをブログで書いていて、誹謗中傷や炎上を援護している。引用する。
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20090621/p1
ネットの誹謗中傷揚げ足取り炎上は、より平等な社会をもたらす社会的機能を持っている。
人類の歴史において、より平等になる方向に社会体制が進化してきたことを考えれば、ネットの誹謗中傷揚げ足取り炎上は人類社会を進化させ、新しい時代にふさわしい社会を築く礎となる可能性がある。
書いてることとやってることが違ってねえか、と苦笑。
彼が書いたブログの発言は、きれいごとに過ぎない。そう書いている管理者本人が、誹謗中傷した人間にイエローカードを出すこともなく、SNSから斬り捨てているのである。社会のゴミのように。
公正さにも限界がある。古株で発言力のある参加者は斬れないだろうし、たしなめることも不可能だろう。しかし、新参者で、明らかに個人をバッシングしている目立つ人間であれば、追い出すのも簡単である。追い出してもこじれないだろうし、自分にとって不都合もない。みせしめにもなる。こういう勝手な発言をするとこうなるんだぜ、という脅迫にもなるだろう。
id:fromdusktildawn氏にもホンネと建前があるのだな、と人間性を垣間見た気がした。最近ではブログよりもSNSのほうに熱心のようで(だからブログがおろそかになり、内容的にも陳腐になったのかもしれないが)、さまざまな情報のスクラップとともに、おいらはモテるんだぜ、のようなことを暗に読み手に感じさせる女性論や恋愛論をSNSに書き込んでいる。仕事ができることも遠まわしにアピールしている。
ブログでは読めないナルシスティックな側面の発見が微笑ましくもあり、実際ちょっと引いたりもしたのだが、結局どんなブロガーもSNS管理者もひとりの人間である。感情で動く生き物だ。
SNSやブログはシステムだけの世界ではない。そこには人間的でリアルな世界の縮図が展開される。アクセス数やリンク数などの序列を強調すれば、勝ち組や負け組みのような差別も生まれるだろうし、管理運営者は、監視社会のビッグブラザーとして君臨することもできる。斬りたい人間を斬り、黙らせたい人間を黙らせ、独裁的にふるまうことも可能だ。
一方、「自生的秩序」ということを述べたのは経済学者のハイエク*1だったように記憶しているが、構成員によって自然と生まれてくる秩序もある。自由とは、そういうものかもしれない。それぞれの関係性のなかから、よりよい方向性を模索、新たな組織を生成していくこと。ただ、そのことを可能にするためには、コミュニティは開かれていなくてはならないのではないか。
内部にいただけではわからなかっただろう。外部に放り出されて、あらためてコミュニティについてそんなことを考えた。いちばんよいのは、登録したコミュニティが気に入らないのであれば、自分でコミュニティを作ってしまうことである。そんな新しいアイディアを夢想しながら、構想を練るのは楽しい。